馬車の旅と旅の友
翌朝は曇天。
今にも泣き出してしまいそうな天候で、馬車の旅といえど気分が滅入る気がした。
――あの後、そうあの後……ぱしりと頬を叩いてしまった後、あたしは咄嗟に「ごめん」と口走ることも、それ以上の会話も交わすことができなかった。
アジス祖父、突然だかだかと部屋に乱入。
アレは耳を掴まれてそのまま引っ張っていかれてしまったのだ。
「ごめんねぇ?」
ターニャさんは必死に笑いを堪えて翌朝教えてくれた。
――ワシの目が黒いうちは不埒な真似は許さんの言葉の通り、ジオさんはどうやら扉にはりついていたようで、あたしが彼の頬をぱしりと叩いた音にそそくさと害虫排除に動いたのだった。
一応あの男は無実であったことはそれとなくジオさんに言ったのだが、どうも信じてくれたかどうかは怪しい。ま、信じてくれなくてもいいですが。だって、アレときたらいるだけでなんだかもう犯罪っぽい。
成分の七割がきっと不道徳でできてます。
「――」
ターニャさん達に別れを告げて、あたしは朝一番の馬車に乗る為のステップに足をかけ、片方の手をアレに支えてもらえながらそっと言った。
「ごめん、ね?」
――勇気を、もう誰でもいいから勇気を下さい。
判っていますよ。私が悪かったというのはもう本当に理解しているのです。ただ、それを言葉にして相手に謝罪するのがこれほどまでに勇気を必要とするなんて、今まで知らなかった。
半歩後ろにいる男は小さく微笑を落とし、
「気にしてないよ」
と囁いた。
思い返せば「ごめんね」なんて台詞はいつもさらりと口から飛び出たものだ。
心が、こもっていないから。心底謝罪の気持ちなど覚えていないから。ティナやマーヴェルに対して、あたしは……もしかしたらとても不誠実で卑怯だったのかもしれない。
もっと真っ向からちゃんと向き合えば、あたしの人生はまた違ったのかもしれない。
でも、そうすると、この男と再会することも無かったのだ。
ふとその現実に気付いた。
もし、マーヴェルとティナが恋人同士でなければ、あたしは?
もし、マーヴェルとあたしが結婚していたら?
――そうしたら、この男と再会することは無かった。二人の道は交わることなく、あたしは自分の記憶が失われている事実にも気付くことなく、今頃はこの腕にマーヴェルとの間の子供を抱いていたのかもしれない。
かつんと足をとめたあたしを覗き込み「どうかした?」と囁かれる。
あたしは斜め後ろから覗き込む男を見て、息をついた。
もしも、なんてまったく意味は無い。
縁があるのだろう――腐れ縁かもしれないけど。
「あなたの名前について考えていたの」
あたしはすっと真剣な眼差しを向けた。それは咄嗟に出てしまった言い訳だったけれど。あたしの中に違和感無く落ち着いた。
「教えて欲しい?」
「要らない」
きっぱりと言い、馬車の一番奥にある椅子に座り、自分の鞄を昨日と同じように自分の隣にむぎゅっと置いた。
あたしがきっぱりと拒絶したことに対して、アレはほんのちょっと吐息を落とした。
寂しそうに切なそうに。その吐息がちくりと痛くて、慌てて弁解するようにと言葉を重ねていた。
「思い出すから」
「……」
「あたし、ちゃんと思い出すから――そしたら」
一緒にいてくれる?
その言葉はさすがに気恥ずかしくてあたしの舌に張り付いた。
きゅっと左手の指輪を握り締めて。
過去を振り返るなんて馬鹿みたい。マーヴェルのことは終わったこと。
ああ、でもこの人のほうこそが過去なのに。
どう言えばいいのか判らなくて頬が赤くなってしまう。そんなあたしの心の葛藤だとかに気付かないこの変質者はぎゅっと肩を抱いた。
「そしたらあんなことやこんなこともしていい?」
「っっっ」
「どうしたら君が気持ちよくなれるか、すっごいぼく考えてるんだよ。考える時間はいっぱいあったから! さすがにちょっと縛ったりとかは難易度が高いと思うんだけど、でも楽しいことはなんでもチャ――」
裏拳を習得しましたが裏拳は自分の手も痛いのだと気付いたのでもうやりたくありません。
新しい発見はどんなことでも素晴らしいですね!
***
馬車の旅も二日目。
しばらくはおとなしかった魔術師は、やがていつもの通り無駄に復活したが昼近くまで無視したら捨てられた犬オーラを垂れ流しながらしくしくとやりだし、ついで馬車の空気が「なんて酷い女がいるものだろう」と染まりだした為にあたしは仕方なく和平協定を結んだ。
もしかしてわざとだろうか? ものすごく信用できません。
まぁ、機嫌よく穏やかにしているぶんには――嫌いではない。
そう、決して嫌いではない。ただし、何故だかあの男がおとなしくて普通の顔をしているとあたしが落ち着かなくてなんだか困るのが欠点だ。居心地が悪くてそわそわしてしまう。
昼が過ぎて馬車が列車の駅がある街に入り、本来だったらそのまま宿をとることになる筈だった。列車の数は限られているし、毎日出てもいない。だから当然、この日は宿屋に泊まることになる予定であったのだけれど、その予定は未定のままに終わった。
もう無いであろうと思っていた列車があったのだ。
そう――その名を特別列車というモノが。
「お待ちしました」
乗合馬車の停留所で、仰々しい騎士は丁寧に頭を下げ――あたしは呆気にとられてしまった。
何故こんな場所にいるのだろうというあたしの驚きとは違い、あたしの後ろに立つ男はとうの昔から理解していたかのように苦笑一つで応えた。
「やぁ、エルディバルト。待たせたかい」
「馬車のお着きが遅いようでしたから心配致しました。列車の準備は整っております、どうぞ」
「もしかして怒ってるのかな」
「当然です。私の職務を思い出して頂けるとよいのですが――」
軽く身を伏せたまま言うエルディバルトさんの背後、ひょこりと顔を出したのはアマリージェと、そしてアジス君だった。
「なんでっ?」
あたしは無意味に後ろを振り返ってしまった。
だって、え、どうして?
どう考えても彼等があたし達より先にここにたどり着いている意味が判らなかった。だって、ここへは馬車を二日使って来たのだ。幾度か停車はしたけれど、だからといってどうやって追い抜ける?
驚くあたしに、アジス君は瞳をきらきらと輝かせながら言った。
「リドリー! すげーんだよ。尊き人の館から扉で転移ができるんだ! 聖都に二つの扉を通って、それから列車でここに連れて来てもらったんだよ。列車って早いな」
「アジスが列車に乗ったことが無いというから誘ったのです。私がいない間に勉強が滞っては大変ですし」
アマリージェは少しだけ顔をしかめて見せたが、すぐに微笑を浮かべた。
「馬車の旅はいかがでした?」
あたしはアマリージェと騎士を見て、ついで隣の男を見上げた。
「……聞いていい?」
「えっと、なんだか聞かないで欲しいかも」
聞きます。
「転移の扉って、アレよね? あたしのアパートの二階にある」
「ああ、うん。あるね」
「あたしのアパートの二階と、あんたの寝室をつなげてあるって、ああいうのが――別にもあるの?」
「まぁ、あるね」
あたしの隣にぴったりといた筈の男は、つっと一歩距離をとった。
「で、その転移の扉は――つまり、聖都にも通じてるのね?」
「そうかもしれない」
それはつまり、
「この二日間を返せぇぇぇぇぇっ」
馬車の旅はお尻が痛いのですよっ。
それに、何よりっ、馬車強盗の話とか完全でっちあげてまでなんたることでしょうか。扉さえ使えば二日など使わずにすんだ筈だ。当然強盗にだってあいようがないっ。
もしかしたらあたしのような一般人には使えないアイテムなのかもしれないが、おおよそ一般人であるアジス君が使っている時点でその話しはありえない。
確かに、ヤツが使えるものだからといってあたしが当然使えるとは思わないけれど、でも!
あたしは怒りのあまりヤツにもう一発叩きつけようとしたのだが、そんなあたしの前でエルディバルト氏が腰に下がる大仰な剣に手をかけ、アマリージェが「いけませんっ」と叫び、アジス君が「うわっ」と声をあげ、そしてあの男が、
「エルディバルト! 下がれ」
冷ややかな声をあげた為にあたしは慌てて自分の憤りを静めることに専念した。
――エルディバルトさんは地下牢から出たばっかりですよ!
「ごめんね、でも――キミと二人きりで旅をしたかったんだ」
一生懸命呼吸を整えるあたしに、そっと黒い男は身を伏せて耳元に囁いた。
「ごめん」
なによ、ちっとも全然悪いなんて思ってない顔をして。
あたしは悔しさにぎゅっと自分の手を握り締めた。
どんな言葉で飾ろうと嘘をついてあたしと――
……あたしと一緒にいたいと思ってくれるのは、きっとあんただけなんだわ。