彼の哀と彼の愛
幾度か足を踏み入れたことはある場であったが、それでも緊張の為に無意味に部屋の中を見回してしまったり、おかれた茶を飲んでしまう。
聖都――ファイエディラシェスの王宮を囲むようにして造られている高位貴族が暮らす邸宅とは少しばかり外れた場にある煉瓦造りの邸宅は、程よく蔦が絡まり味のある建物だ。
それでも貴族の邸宅としては小規模なのは、そこに暮らしている女性が貴族では無く一般の女性である為だろう。
ただし、彼女を庇護しているのは彼女の実の兄である男爵――決して不自由な暮らしではないと思わせるものが調度品にも見て取れる。
白磁のカップには蔦と小さな小鳥が踊り、他の品々にも全て同じような柄が刻まれている。それは一種の彼女の為に作られた紋章のようなものなのだろう。商人に嫁してしまった為に貴族の道から外れた女性の為に。
「よく訪ねてきてくれましたね」
女主は穏やかな口調でそう言った。
その声音に、そしてその眼差しに、雰囲気に、泣きたいような気持ちが湧き上がった。鼻の奥から感情がせりあがり、つんっと痛む。
「そんな言葉は期待していないのでしょう?」
――彼女は当初の穏やかさと優しさをにじませた言葉を撤回した。
「むしろ、よく私の前に顔を出せましたね――船長の息子」
理解していたことだが、歓迎されてはいないようだった。
彼女と同じ瞳――ブラウンの柔らかな眼差しをきつくして、唇を引き結んで――似た雰囲気を全て払拭させて、彼女の、リドリー・ナフサートの母親である女性は持っていた扇をぱちりと閉ざした。
一瞬彼女に憎まれているような錯覚にすら陥る。
そう、面前の女性は決してリドリーではない。
マーヴェルの知るリドリーは物静かで控えめで、妹を気にして、周りばかりを気に掛けて自分の幸せを追いやって――それでもおずおずとマーヴェルを伺って、笑いかけると驚いたようにぎこちなくふわりと……幸せそうにふわりと、微笑んでくれた。
――信じていいの?
そう、信頼を求めて。
マーヴェルは胸に息苦しさを覚えて自分の胸元に手を当てて小さく喘ぎ、息を吐き出した。
「エレイズさん。リドリーはいますか?」
「いないわ」
きっぱりと彼女は言った。
その眼差しにはあざけるような色合いすら見える。その瞳を見返し、マーヴェルはひとつの結論を引き出した。
「では、どこにいるのか教えて下さい」
「知らないわ」
「いいえ――あなたは知っている。あなたが唯一愛している娘の居場所を知らない筈なんて、無かった。俺は……なんて迂闊だったんだろう」
自信に満ちた眼差しを前に、確信が持てた。
自分の中につらさが押し寄せる。少し考えれば判りきっていたはずだ。なのに何故彼女のことを思い浮かばなかったのだろう。
呆れる程の愚か者だ。
エレイズは口元を緩めた。
「一年も放置した癖に今更なにをいっているのか判らないわ」
「放置なんてっ」
「どちらにしろ。あの子はあなたとの結婚がイヤで逃げ出したのですから、あなたに伝えるべくことなどありはしないわ」
「エレイズさんっ」
――あなたとの結婚がイヤで。
それはあまりにも事実で、マーヴェルは自然と拳を握りこんだ。
結婚を楽しみにしていると思っていた。彼女の瞳には確かに激情のような愛は無かったけれど、確実に想いがあると信じていた。手を重ね、抱きしめ、ふれあい、ゆっくりと確実に築いていけるのだと……浅はかにも思っていたのだ。
「リドリーを……愛しているんです」
嗚咽のような言葉がもれた。
恥も外聞もなく、どうしても彼女のことを知りたいのだと――必死に、どう示せば彼女の心は折れてくれるのかと感情が渦巻いていく。
「私の夫も」
ふいにエレイズは言葉を硬くして続けた。
「私の夫も――愛などという言葉を容易く使う男だった。それを信じたこともあったけれど、私の愛する娘とたいして年齢の変わらぬもう一人の娘を突きつけられたわ」
自らを嘲笑うかのような笑みに、言葉を続けられなくなった。
――そうじゃない。自分はっ。
咄嗟に言葉が吐き出されそうになったが、その言葉は喉の奥で凍りついた。
……何が違うのだろう。
裏切ったのは自分だというのに。
悔しさや後悔とがない交ぜになって喉の奥が震える。自然と頭が下がった。
「会いたいんです。会って……謝りたい。愛しているのだと、伝えたい」
エレイズはその瞳を更に冷たい色を称えたが、すっと視線を逸らした。
「ティナに聞けば良いでしょう」
マーヴェルは瞳を見開いた。
下がっていた頭ががばりとあがる。
「あの娘が素直に教えるとは思わないけれど」
「ティナはっ、ティナがリドリーの居場所を知っている?」
信じられない思いで声のトーンが跳ね上がる。エレイズは不愉快そうに眉を潜めた。
「もう話すことは無いわ。出ておいきなさい」
「エレイズさんっ」
エレイズはドレスの裾をさばき、身を翻した。それ以上何も言う気は無いと訴える背に慌てて手を伸ばして腕をつかもうとすれば、それまで気配すら殺すように控えていたこの館の執事がすっとマーヴェルとエレイズとの間に身を滑らせて軽く一礼した。
「表までご案内いたします」
***
机の上にはナイフや木を削って作られた、ちょっと不恰好なブーメラン。手作りのペーパーナイフ。木彫りの犬。
ほほえましい思いにそれをひとつひとつ眺めていた。
アジス君は結構器用なのか、木彫りの置物だとかが色々作られていて――その中に小さなブローチがあった。
「……これは、見てはいけなかったか」
あたしは親指と人差し指でつまんだソレ。
木で枠が作られ、中は石がはめ込まれている。なぞると柔らかな感触のある石で、よく子供達が削ったりして遊ぶものだ。
石は削られている。
細かく、丁寧に彫刻刀で細工されているのは女神だ――おそらく女神。豊穣の……
「マリー、かな」
やばすぎる。
なんて可愛いんだろうか、アジス君。いや、アルジェス君?――うっ、駄目だ口元が緩んでしまう。
二人で一緒にいればいつも喧嘩しているのだが、でもきっとすごく彼等にとってその時間は大事なものなのだ。
アマリージェも憎まれ口を叩くけれど、憎からず彼を想っているようだし気にしている。
「うわ、なんかこっちが照れる」
かわいいかわいいかわいすぎるっ。
あたしが身もだえしていると、「あああ、リトル・リィが可愛いっ」とのしりと背中に重みが掛かった。
途端にあたしの中の、なんだかもぞもぞするような幸せな気持ちが霧散する。
「ノックという言葉を知ってますか? それから気配を殺して部屋に入るの止めて下さい」
心臓止まったらどうしてくれる。
あたしは辛らつな口調で続けたのだが、背後の妖怪はそのままあたしの左手を自分の左手でいったんぎゅっと包み込み、薬指にはまる指輪をなぞった。
「あんまり長くここにいるとジオさんに怒られるんだ」
「そうでしょうね」
「でもちょっとだけならいいって」
うわっ、この傍若無人の塊のような男が、なんとこの部屋を訪れる許可をジオさんにもらって来たというのですか?
あたしはその意表をつく行動に笑いたいのか純粋に驚愕しているのか良く判らなくなった。
「だから、ね?」
背後からあたしの耳の後ろに鼻を押し当てるようにささやかれ、あたしの身が自然と強張る。次にぶっ飛んだことを口にしたら確実にその腹に肘鉄を食らわせてやるっ、と身構えた途端、テノールが耳に触れた。
「ちょっとお話しよう?」
やさしく囁かれた言葉に、あたしは一旦思考を停止させた。
……お話?
「昔話もいいけれど、今の話をしよう。君の話でもいいし、ぼくの話でもいい」
お話?
「お互いのことを――あれ、どうかした?」
お話って、それだけ?
いや、いやいや?
拍子抜けって、あたし別に期待とかしてませんからねっ。
あたしは自分の思考に呆然として、思わずぐるりと身を翻してにっこりと微笑んでいる男の頬を思い切り張り倒していた。
「え、え、なんで!?」
あたしだって知りませんっ。