暮れる町並みと悪い女
「怖いことなんて少しもないよ。ぼくが君を傷つけるなんてあるわけがない」
なぞられる指先は、触れるか触れないかのぎりぎりの空間をさ迷う。
ひんやりと冷たい気配だけが産毛をなぞるかのように触れてくるから、あたしは小さく身震いするのを押さえ込んだ。
「ぼくの唇が君の瞼に、頬に触れて、可愛らしい唇の頂きをほんの少し吸い上げる。下唇を舌先でなぞり上げれば、きっと甘い味がぼくにも、そして君にも小さな漣を与えてくれる」
親指の腹が、軽く唇をなぞる。
その瞳は濡れたように艶めいて微笑を称え、あたしはどうしても落ち着かない気持ちに喉の奥に自然と溜まってしまった唾液を苦いものでもあるようにゆっくりと嚥下した。
それすら――羞恥の源であるように。
「唇を開いて。戸惑いと一緒にぼくの舌を受け入れて。歯列をなぞりあげて、その奥をもっと探らせて。舌と舌とを絡み合わせて、君の味をゆっくりと堪能したい――指先は穏やかに背中をなぞり、君の背骨をたどりやがて腰の窪みへとたどり着く。君の体温が上がり、鼓動がぼくを……」
あたしはわなわなと震える手をぐっと伸ばし、その口を思いっきりふさいだ。
「それ以上言ったら痴漢と変態行為で警備隊に突き出す!」
絶対に、やるっ。
「挙句あんたが神官長だとバラしますっ」
この歩く新聞種めっ。
――神官長、聖職者という立場でありながら痴漢、変態行為で拘留。
クビを切られておしまいなさいっ。!
「ふふ。そんなこと言っているけれど、リトル・リィだってちょっとはドキドキした癖にぃっ」
あたしはばくばくと鼓動し、あがってしまった体温に何故か後ろめたさを覚えてギッと力いっぱい睨みつけた。
そんなことは無い!……とは断言できかねた。
悔しいことに。だがそれを認めてやることは断じてできません。ええ、絶対に。
「体が疼いてしたくなるのは人間として正し――」
「だ・ま・り・な・さ・いっ」
あたしは低く唸るように言い、丁度ゆっくりと速度を落とし、完全停止を果たした馬車の中――そう! ここはまだ馬車の中だというのに!――視線のみで殺せるならば二度程も面前の男を惨殺し、引きつった微笑みを向けた。
「あたしが間違っていました」
「そうだよ、ぼくはいつだって正しい」
ええ、ええ!
あたしが間違っていました。
「毅然ときっぱりと!」
「うん?」
「あなたとお付き合いするのはお断りですっ」
あたしは悪いことをしましたでしょうか。
あたしはですね、17年間平和とか凡庸とかを愛して生きてきた訳ですよ。この一年ちょっとは勇気をもってそれまでの自分を捨て去り、もうちょっと自由に伸びやかに、自分の為だけに生きようと努めて参りました。
じろじろという周りの視線が激しく痛いです。
以前に一度利用はしたことがありましたが、これといって訪れたことは無い町です。この町とあちらの町との間にはちょっとばかり坂があって、前回よりも今回のほうが随分と時間が掛かりました。
ほんの少し自分の町よりも人が多い感じの大きな町。大きな市もたつのだというこの町で、激しく注目されています。
うっとうしい生き物が泣いているので。
「酷いよ、酷いよぉ。リトル・リィが虐める」
大の大人が、えぐえぐと泣いています。しゃがんで、なんだか小さくなって、道端で。
本気で放置して逃げたいのですが、左手の手首はしっかりと掴まれている有様。
「あ、あのねぇ」
自然と声が呆れを含んだ。
「いい加減に泣くの止めなさいよ」
「だってリトル・リィが酷いんだ」
「……」
「ぼくの心を散々もてあそんで捨てるんだーっ」
でかい声で言うなぁぁっ。
ちらちらと遠慮がちに見ていた通りすがりの人にまでじっくりと視線を向けられ、人によってはひそひそと自分の連れと話し、あたしと視線が合うと慌てて顔をそらして立ち去っていく。
あたしは羞恥で頭が煮えてしまうのではないかと思いながら、自分の鞄を持ち直した。
片手だからものすごくやりづらい。
「人聞きの悪いことを言わないでよっ」
あたしの声は自然と潜まっているのに、この腐れ頭ときたら声の音量などお構いなしだった。
「人なんて関係ないよ。ぼくはずっと、ずぅっとリトル・リィだけを愛しているのに。君の為ならぼくはそれこそ何だってしてきたのに。何だってできるのに。ぼくのことをっ」
あああ、埒があきませんよ。
人間ってこんなに水分が出るものでしょうか。あんまりみっともなく目元を腫らしている美青年なんてちっとも絵にもならない。
あたしは嘆息しつつ鞄をその場におろし、ハンカチを取り出して乱暴にヤツの鼻に押し付けた。
とりあえず鼻はかんでください。
こっちが絶望的な気持ちになるから。
「まぁ、どんな悪女かと思えば」
突然聞こえた声に、あたしは「は?」と振り返った。
振り返った先、買い物用に籠を抱えて立つ細身の女性の姿に、あたしは小さくうめいた。
「ターニャ、さん?」
「リドリー、あんたもなかなか男泣かせね」
笑いを隠さずに言うエプロンをつけた女性は、ターニャさんだった。
それはつまり、あたしの雇用主であるマイラおばさんの娘さんにして、アジス君の母親。あの若干十一歳の男前の産みの親――
そしてからからと笑っていたターニャさんだったが、目元を腫らしてえぐえぐと泣いていた男の顔を確認して引きつった挙句、持っていた買い物籠をぼとりと落とした。
「尊き人っ」
そうでした。
この女性はあの町の出身で――そして、アジス君の母親でした。
あたしはなんとなく暗澹たる気持ちになって夕暮れに沈む空を眺めてしまった。
あー、今日は良い天気だったなぁ。
ほぼ寝てたけどねぇ……
***
「神官様はやっぱり精進料理とかなのかしら」
「気にしないでいいですよ。ぼくは好き嫌いなく何でもたべれますから――それよりも、何かぼくにできることはありますか? 夕食をご馳走になった挙句に泊めてもらうなんて、何かさせてもらわないと心苦しい」
「とんでもありません! どうぞゆっくりとお休みくださいなっ」
外面のいい男っていうのはなんというか信用できませんね、まったく。
あたしはターニャさんからさやえんどうのすじを取るのを頼まれ、ぴーっとすじを引っ張りながら、ふ・ふ・ふっと奇妙な笑みが口元から出るのを止められなかった。
ターニャさんは心優しくもあたし達に一夜の宿を提供してくれ、完全にあたしとあの男とを婚約中だと勘違いし、挙句「結婚前っていうのは気持ちが不安定なものなんですよ」などと余計なフォローまでしてくれた。
あたしが何を言っても彼女は「照れなくていいのに」としかとってくれなかった。彼女の目は悪戯はちゃんとわかっているのよ? というような母親の顔で、あたしの左手に光る指輪をちらちらと確認するのだ。
そう、呪いの指輪はその邪悪さを遺憾なく発揮していたのだった。
当然、あの腐れ頭ときたら持ち前の外面のよさでもって「ええ、判っていますよ。彼女はそんなところも可愛いんです」なんて言うのだ。
もう抵抗する気力も無い。
「部屋はアジスの部屋で構わない? 二人一緒でいいわよね」
意味ありげににんまりと言われ、あたしは慌てて一旦どこかに消えてしまっていた抵抗する気力を必死に手繰り寄せた。
「タッ……――っ」
「駄目だ」
低く聞こえた声は、部屋の片隅で安楽椅子にもたれて禁煙中ということでハッカの葉をつめただけというパイプを燻らせていたご老人――ジオさんだった。
眼光の鋭い老人は、真っ白になった白髪だがその貫禄は半端なく自分の存在を示している。
「いくら婚約中と言えど、結婚前の男女を同じ部屋に泊めるなど分別の無い」
婚約中などという事実も現実もありませんが誰も信じてはくれません。
「もぉっ、お義父さんってば頭が固いんだからっ」
「ワシの目が黒いうちはそういう無分別は許さん。娘さんはアルジェスの部屋を使ってもらえ。そっちの若いのはワシの部屋だ」
「ええ、それで構いません。ありがとうございます」
外面大王は丁寧に応えた。
――内心は判らないが。
頑固そうな老人は年齢を感じさせない淀みの無い言葉で言い切り、用は済んだとばかりに本に視線を落とした。
あたしは自分の中に湧き上がるものが恋心であったとしても否定しない。
お祖父様、素敵ですっ。とてもすばらしい。以前心の中で偏屈親父とか会いたくないとかそんなことを思ってしまって心よりお詫びいたします。って、あたしは瞳を瞬いた。
すじの取れたさやえんどうのザルをターニャさんに届けながら、
「ターニャさんのところってもう一人息子さんがいましたっけ?」
「あら、なんで?」
「アルジェスって、旦那さんはハルさんですよね」
あたしの記憶が確かならば。
小首をかしげるあたしに、ターニャさんは「ああっ」と笑いながら言った。
「アジスの本名」
「本名?」
「なんだかね、恥ずかしいんですって。アルジェス・フィアフェイスって知ってる? 美貌の騎士の戯曲に出てくる主役なんだけど、そこから付けた名前なのよ。はじめのうちこそ普通にアルジェスって名乗っていたのだけれど、物語を知った途端にあの子ったら顔を真っ赤にして『アルジェスなんてイヤだっ』って。ふふ、ちょっと女好きの、でも素敵な騎士なんだけれど。あの子は相当イヤみたいで。以来あたし達はアジスって呼ぶのだけれど、ほら、お義父さんたら頑固だから」
からから笑い、ターニャさんはあたしの肩口を叩いた。
「そのあの子が騎士になるって言うんだから、笑っちゃうわよねぇっ」
本人に言っちゃ駄目よ?
ものすごく怒るから。
あたしはきっちりとターニャさんに口止めされたが、次にアジス君と顔を合わせた時には笑ってしまうかもしれない。
笑いを堪えながら台所と食事室とを隔てている廊下へと出ると、食事室にいたはずの男が出入り口の淵に手をかけてにっこりと笑って身を屈めた。
「ぼくと付き合うのはお断り?」
捨てられた子犬の顔をして半眼を伏せて囁く。
あたしは自然と一歩退いて視線をそらし、訳もなく自分の指を組み合わせて指をもてあそんだ。
「ぼくのこと、嫌い?」
殊勝な顔なんてしないでよ、この卑怯者!
あたしは上目遣いに睨み返した。
「嫌い……じゃ、ない」
しどろもどろにこぼれた音は、我ながら弱弱しくてあたしは眉を潜めた。
「でもっ、きちんと順序ってものがあるでしょう? あんまり強引過ぎて、あの……困るの。ちゃんと……付き合ったり、お互いのことをもっと理解した、り」
どうしたら理解してくれる?
自分だって自分の心に全然責任が持てない。
嫌いとは言えない。
好きなの。
好きだけれど……どうしたら、いいのか判らないのよ。だってあなたときたら一直線に寝台に連れて行こうとするんだもの!
「ああもぉっ。食べちゃいたいくらい可愛い。まったく今までそんな表現なんてろくでもないと思ったものだけど、ああ、本当に君ときたら食べちゃいたいくらいに可愛い!」
ぎゅっと抱きしめて強く言うから、あたしはかぁっと赤くなった。
「食べるのは夕食だけにしてくださいな。ふふ、仲直りしたみたいで良かったわねリドリー」
台所から食事の乗ったプレートを手にターニャさんが顔を出し、あたしを腕に抱いたまま男は言った。
「食べちゃいたいくらい可愛いけど、でもどちらかと言えば食べてもらいたいかな」
「まぁ、尊き人は本当にリドリーがお好きなのね」
まったく平然と話し合う二人の間で、あたしは羞恥で真っ赤になりながらこっそりとヤツの腹をつねりあげた。
あたしの話はちゃんと通じてますか?