結婚と婚約
膝枕だったじゃないですか!
あたしはゆっくりと覚醒した自分が、男の腕に抱かれて胸元に頬を付けて寝ていたことに愕然とした。
肩にまわされた腕とか、腹部に回る腕だとか、香る――花だとか。
花……むせかえる程の花の香り。
確かにこの男はよく花を抱えているけれど、こんなに息が苦しく感じるむせかえる花の香りをまとっていることはあまりない。まるで香水を振りまいたかのようだ。
そして、抱く腕が小刻みに震えていて、あたしの内面を駆け巡った動揺が沈んだ。
強く抱きしめながら、声を殺して、泣いている?
見開いた瞳がゆるく伏せられ、あたしはほんの少し体の力を抜いて、相手の心音を求めるように体を傾けた。
触れる体から相手の寂しさや悲しさが流れてくるような気持ちがして、あたしは胸が締め付けられた。
どうしたの?
何がそんなに悲しいの?
ねぇ……あたしが、いるわ。
一人でそんな風に声を殺して悲しんだり……しないで――
小刻みに震える腕の中、何故悲しんでいるのか理解しようと身じろぎする。けれど、どう口をひらいてよいのかわからなくて、あたしは戸惑いの中にいたというのに、ふいに男の腕がきゅっと強くあたしを抱きしめて囁いた。
「発育不良かな……まあ胸は揉めば大きくなるっていうし」
あたしはがばりと体を起こし、思いっきり相手の首を締め上げた。
「な・に・か・し・ら!?」
「お、起きてた?」
「離せ、この女の敵っ」
あたしは力まかせに相手の腕の中を抜け出し、気づけばすでに夕刻近くだということに眉を潜めた。
箱型の馬車の中は薄暗く、窓からはオレンジ色の日が差し込んでいる。
昼食も食べることなくぐっすりと熟睡していたということだ。しかも、この男と一緒にいるというのに熟睡! なんという危険な真似を。
ああ、でもこの男は言っていたじゃないか。逃げられたり嫌がられると追いかけたくなるのだと。あたしが逃げたり嫌がったりしなかったから、追いかけるような気が起きなかったのかもしれない。
――男心って判らないけど、この手は結構いけるかも。
今度から逃げないで立ち向かうのよ、リドリー・ナフサート。
あたしの新たなる決断とは裏腹に、馬車の後ろで騒いでしまった為にほかの乗客の視線が胡乱気に向けられ、慌てて愛想笑いでやり過ごした。
それからそそくさと横を向いて窓の外を確認すれば、視界には放牧されている牛が見えてくる。放牧地があるということは、そろそろ町があるということだろう。
次の町で一泊して、翌日の昼にはその次の町――汽車が開通しているもっと大きな町へと入れる。それから一日かけて汽車に揺られれば聖都へと入る。馬車での移動が一番多くて、荒野を通るのは今日だけだから、案の定強盗なんぞばかげたものがでることもなかった。
今までの人生でそんなものに関わったことなんぞ一度も無い!
そんなのはただの新聞ダネだ。そうそうあるものか。
ただ、魔術師に言われていると何故かそれが本当におこるような気になってしまうのだ。もしかしてあたしって意志薄弱? もっと強くないと色々と危険かもしれない。しっかりしなさいリドリー・ナフサート。
あたしは心の中で拳を握り締めた。
――やっぱりね、そうよね、そもそもこの優男なんぞちっとも役にたつわけがないじゃないか。むしろ、そうむしろ……
「今日は一番良い宿に泊まろうね! なんと言っても婚前旅行の一日めだから」
完全無視を決め込むつもりで窓の外を眺めているあたしの両肩にやんわりと手を置いて、低いテノールで囁きかけられあたしは目を思い切り見開いた。
「婚前旅行、ああ、でもやっぱりそれはよくないかな。道徳とか倫理とか」
吐息のように囁くその言葉に、あたしはほっと息をついてこくこくとうなずく。硬直した体のままだったが、その意見は大賛成だった。
そうよ! 倫理とか道徳とか常識とか考えればそんな考えはよくない。
よくぞ言った。変態だと思っていたけれど、やっぱり腐っても神官――二次醗酵が終わっていても神官長。あたしは胸をなでおろし、ゆっくりと振り仰いで微笑んだ。
偉い!
一応の常識を持っていてくれたことにあたしは心からほっとした。
「そうよ、あたしもそう思うっ」
「だよね。じゃあ、今夜は初夜ってことで」
「――は?」
「婚前交渉が駄目なら、結婚しちゃえばいいんだよ。大丈夫、たいていの書類はどうとでもなるし、ぼくのサイン一つで何でもクリア。あれ、もしかしてぼくってめちゃくちゃ便利かも」
常識はどこにありますか!
そんな無駄な便利さは必要がありませんっ。
「あたしとあなたはまったくの他人です!」
「こんなに愛しあっているのにっ」
実は醗酵が進みすぎて異臭を放っていませんか!?
「おあいにく様っ、その愛は一方通行です。進入禁止っ」
自分でも何をいっているのか判らなくなってきてしまいましたが、もう動揺がすごすぎる。
結婚?
付き合った覚えもなければ、求婚された覚えもないわよっ。
……ないわよね?
あれ、あったかな――あたし自分の思考能力に若干自信がありません。
毎日のように色々といわれているから流しきっていたけれど、本気じゃないわよね?
結婚?
あたしとこの男が?
いやいやいや……いや、じゃ、ないけど。
イヤじゃない? え、あたしイヤじゃないわけ?
コレよ? アレよ?
確かに顔はいいけど、えええ?
あたし――あたし、病気? 末期?
駄目だあたし。イカレてる。待って、待ちなさいリドリー・ナフサート!
まずは付き合うとか付き合わないとかが先でしょうっ。あたし達はまだそういう段階ではないはずっ。正しい男女のお付き合いとか、世の中にはあるわけですよ。
少なくともこの現状はちっとも正しくありません。
……あたしマーヴェルとデートらしいデートした覚えもないけど。
「リドリー」
ふいに寂しそうに瞳を伏せて名を呼ばれ、あたしはうぐっと喉の奥で呻いた。
「ぼくと結婚してくれるって言っていたじゃないか」
「――」
「ぼくはずっとその言葉を信じていたのに。もしかしてぼくのこの男心を弄んでいたというのかい? ぼくは君の言葉を信じて強く生きていたのに。だのに……君は、純真なぼくの心をもてあそんで捨てるの?」
いつのまにか包まれた手のひら。
魔術師の細くてしなやかな手に包み込まれ、はみ出した指先にそっと口付けが落ちた。途端にあたしは居心地が悪くて身じろぎしてしまう。
「そ、それは……子供の頃のことで」
じわじわと訪れるなんとも言えない罪悪感。
確かに今ではきちんと覚えている。間違いなくあたしはこの男と結婚すると言いましたが。そんなのは子供の頃のことで……あの、離して下さい。
子供の戯言としてさらっと流して捨てておいて下さい。だって普通信じませんよ! 八歳児の「結婚しようね」なんて麻疹みたいなものではありませんか。
「君の為にぼくは婚約を破棄したというのに」
衝撃の言葉にあたしは目をむいた。
婚約を破棄!
――婚約、あれ……まって、あたしの婚約ってどうなってるんだろう? 今まで深く考えてなかったけれど、あたしとマーヴェルの婚約って、破棄されてるのよね? 今頃はきっとマーヴェルとティナは邪魔なあたしがいなくなって二人で結婚なんかしちゃって、もしかしたらティナってば子供とかいたりするかもしれないわよね?
あたしはがばりと顔を魔術師から背け、心臓がばくばくと音をさせるのを感じた。
会いたいなんて思いはしないけれど、すっごい気になる。
あたし……二人が幸せにしているのを見て、今はちゃんと笑えるのかしら。
もう吹っ切れたと思っているけれど、マーヴェルに笑って「おめでとう」って、言えるのかしら。
すごい、心臓が耳に引っ付いているかのようにばくばくと鼓動する。
「ああ、相手の女性のことは気にしなくていいよ? もともと政略的なものだし、彼女ははじめっからぼくなんて好きじゃなかったし。今は好きな男と一緒に楽しく暮らしているから」
能天気な男の言葉は右から左に流れていった。
あたしは眉をぐぐっと潜めて、この問題については一応母に会ったら聞いておこうと考えを収めた。
ただし、母があちらのことをどの程度把握しているのか判らない。なんといっても母は郷里のことを毛嫌いしているフシがある。それもこれも父さんが仕事人間過ぎて母を構わなかったからに違いない。
構いすぎるのも色々と問題がありそうだけど。
世の中はきっと程ほどが一番なのよ。
平和で平凡で程ほどにのんびりと!
それがきっと幸せというものであって、非凡なコレとかは幸せとはまったく間逆の生き物ではないでしょうか!
「君が心を痛めることなんてないんだよ」
微笑交じりの言葉に、あたしはやっと正気を取り戻し、
「え、なにが?」
と問い返した。
「式は町に戻ったらしようねって話」
「そんなこと言ってなかったでしょっ」
「聞こえてるじゃないか」
唇を尖らせて魔術師は言うや、ふいに顔を伏せてあたしの指――薬指の根元に軽く歯をたてた。
小さな痛みに身をすくめる。
文句をつけようと落とした視線の先に、銀色の指輪を認めてあたしは目をむいた。
「なにこれっ」
小さな痛みを伴って唇が離れると、そこには銀色の輪が当然のように残されていたのだ。
銀色に輝く、艶やかな指輪が。
「婚約指輪」
「何勝手なことしてるのっ」
「だって――君はぼくのものだもの」
爽やかに言い切る男は普通の男のように微笑んだが、あたしは慌てて自分の手を取り返して指輪に指をかけた。
銀色の指輪には細かい文様が刻まれている。文字を文様のように掘り込んだ綺麗なものだが、どれだけ引っ張ってもそれは抜けなかった。
「抜けないぃぃっ」
「抜く必要はないからね」
どんな呪いの指輪ですか!
「で、ぼくのリトル・リィは婚前交渉と正式なる初夜とどっちがいい?」
――これは、嫌がられれば追いかけるの法則にのっとってむしろ受け入れたほうがいいのか、それとも断固拒絶したほうがいいのか……
あたしの面前にはあたしの手を握りこんだまま幸せそうに微笑む――悪魔が一人。
あたしはだらだらと背中に汗を感じながら、いつもなら助けてくれるアマリージェを思った。
マリー、正しい解答を教えて。
いますぐ!