扉と馬車の旅
特徴的な長靴を叩きつけるような足音を耳に入れ、アマリージェ・スオンは軽く嘆息した。
「アマリージェ」
「お久しぶりです。エルディバルトさま」
地下牢に十日と数日の間暮らすことを余儀なくされた騎士は、五日ほど前には無事放免されて自宅へと戻っていた。普段であれば滅多なことでこちらに顔を出したりしないのだが、今日は理由ができたのだろう。
理由さえあればエルディバルトは嬉々として顔を出す。
まるで忠実な犬が飼い主を求めるように。
「……ああ」
ごほんっと決まり悪いというように咳払いをした騎士は、視線を軽くさまよわせてもう一度勇気を奮い起こすかのように咳払いをし、口を開いた。
「公はどちらだろうか。まだお見えになられないのだが」
「聖都に行かれました。さきほど、連絡だけは頂きましたが」
そちらには無かったですか? という言葉は口にしなかった。
――無かったのだろう。彼の主は彼が思う程には彼に対して心を向けていない。
確かに、エルディバルトという人物はあまり近くにいて嬉しい相手ではないのでそこは理解できる。でかい偉そう、邪魔臭い。
……勿論アマリージェはそんなことをおくびにも出さないが。
「いや、まだいらしていない」
困惑するようにエルディバルトは言う。アマリージェは辛らつに瞳を細めた。
「馬車で行かれましたから」
「……何故?」
エルディバルトは思わず振り返り、自分がたった今使った扉を遥か後方に仰ぎ見た。
そう、扉――この屋敷にはいくつもの扉があるが、その中には竜公の不思議の能力をもってすえられた扉がある。
それはすなわち――転移の扉。
エルディバルトはその一つを通り、たった今聖都からこの西の辺境へとおりたったのだ。
経由地を二つ程通りはしたものの、それでも聖都とこの辺境の屋敷とを訪れるのに必要な時間は四判刻もかかりはしない。
「深く考えると頭が痛くなる理由です」
アマリージェは端的に言った。
「は?」
「追求するとまた地下牢行きになると思いますわよ」
その言葉にエルディバルトは思わずぶるりと身震いした。
もうあんな場所に戻りたくは無い。
あんな場所を喜ぶのは――変人くらいだ。
***
「はい、あーん」
ぎゅむりと口に飴玉がおしつけられる。
――どこかでこんなことがあった。
あたしは極力隣の能天気な男のことを無視したいと願っているのだが、狭い馬車の中でそういう訳にもいかず、そしてヤツは果てしなくテンションが高い。
テンション――実はテンションは張るものであってあがったりさがったりするものではない、なんて現実逃避をしようにも、あたしの口には飴玉がまだしっかりと押し付けられている。
ぎゅむむむむ。
「とけちゃうよ?」
くすりと笑われ、あたしは屈服して力を込めて閉ざしていた口を開いた。
ころりと口の中に飴玉が転がり込む。
あたしの記憶が確かであれば、この飴は自分で舐めないとこの面前の男に舐められるのだ。あたしの唇に触れていたそれが!
「って、なに、苦っ」
「ふふふ、マイラさんを見習って体に良い飴です! 面白いでしょ」
あたしはじたばたと暴れ、慌ててポケットからハンカチを取り出し、口の中の飴を取り出した。苦い、苦すぎ。そして妙に粉っぽい。甘い飴だと決め付けて口にいれたものだから、その苦味のきつさに驚愕してしまう。あたしがわたわたしているのを見て楽しむ男は、自分の唇に指先を押し当てた。
「口直しに甘いチョコレートはいかが?」
完全に無視。
あたしは自分の荷物から皮袋を取り出し、さっさと口の中の苦味を洗い流すようにして飲み込むことに成功した。
――魔術師はこの調子だった。
あたしはおそらくまたしても失敗したのだ。エルディバルトさんが正解! 二択だったらぜひともエルディバルトさんを選択しておくべきでした。多少怖かろうが、騎士の格好だろうと喜んでエルディバルトさんの手をとるべきだった。
自然と幾度もこぼれてしまう溜息をまたしても一つ落し、あたしは胡乱に馬車の中を眺めた。
大型の箱馬車は総勢で十名程を載せることのできる地方特有の移動手段だ。四頭の馬に引かれ、また後方には乗り換え用の意味も含めた二頭の馬。それには二人の人間が乗っていて、一応護衛役ということになっている。
馬車の中はなごやかだった。
ええ、先程狭い馬車と言いましたが、この馬車の現在の乗車数はほんの六名程度。わざわざ引っ付いて乗らなくて良いだろうということだろう、各自離れて座っている。
あたしと黒いヒト以外。
――おそらくこの馬車の中で狭い思いをしているのはあたしだけ。
かろうじてヤツとあたしとの間にはボストンバックが挟まっている。
それだとてこの男は気に入らないのかはじめのうちはぐだぐだと言っていたものだ。
――各村や町を巡る巡回用の大型馬車の一番奥の座席についたあたしは自分の隣にしっかりとボストンバックを置いた。
隣、座るべからず!
その意図をしっかりと指し示すあたしに、アレはあきれたようにあたしとバックとを見つめ、やれやれというように肩をすくめて見せた。
「時々、リトル・リィは物事がわかってないんじゃないかって心配になるよ」
「どういう意味?」
「こうやってやられると男がどう感じ取るか考えたりとかしたことない?」
「だからどういう意味?」
「もえます! この垣根を打ち崩すやる気がでるよね! イヤダといわれるとなんというか追いかけたくなっちゃうんだよ。リトル・リィはそういうのが判ってないよね。ホント。こっちとしてはやらないでとか来ないでとか言われると、逆に期待されてるんだなってがんばりたくなっちゃう」
……そうなの?
そういうものかしら。
じゃあ、あたしはいつも間違えてる?
その時はつんっと無視したれど、あたしは心の中でこれについてはじっくりと考えてみることにした。
いやがるからヤツははりついてくるのか?
ならば平気な顔をするとか、喜んで受け入れるふりをするとか。
あたしは軽く眉間に皴を刻み込んで馬車の窓枠に寄りかかるようにして外を眺めた。
「あれ、疲れた? ぼくに寄りかかって寝ていいよ? それとも膝を枕にする?」
機嫌がいいのがまたむかつく。
せっかく人が考えているのにっ。
あたしは忍耐という言葉を幾度も頭の中で書き記す。
そして気づくのだ。
ときおり。ほんの時折りマーヴェルとこの男を比べてしまう自分。
それはもう果てしなく愚かしいことをしている自分に。
ヒトとヒトとを比べてしまうなんて本来やっていいことではない。元来からあのヒトとこのヒトは違うのだし、それに――
ふっと、魔術師があたしの肩を引き寄せた。
びくりと身がすくむ。
「もうふざけないから。本当に少し眠って――ね? 大丈夫。君の嫌がることなんてしないから」
穏やかな表情は神官としての顔。慈愛に満ちた瞳に嘘はなくて、あたしは居心地が悪い思いを味わいながらもそろりそろりと言葉に従って身を預けた。
嫌がるともえるならばその逆をためしてみるのは悪くないはず。
相手の肩口にもたれるようにしようとすれば、今日は普段着姿の魔術師が二人の間にある荷物を容易くどかして膝枕の体勢――うぎゃっと狼狽するあたしを気遣うように撫で、ばさりとあたしの体に毛布が落ちた。
ああ、この体勢は子供の頃にも体験した覚えがある。
あたしは心臓の音が相手に聞こえてしまうのではないかと危惧しながら、ほんの少し――悔しいことに幸せな気持ちで瞳を閉ざした。
ごとごとと揺れる馬車――
決して柔らかいとはいえない膝枕。
ゆるやかに届く振動と体温とで体が休息に眠りへと誘われる。
あたしの髪が緩やかに撫でられ、指に絡められる。
あたしは眠りの淵をふらふらと歩みながら無意識に囁いていた。
「もう、寒く、ない……?」
「――君がいるからね。大丈夫」
くすりと囁きが落ちる。
あたしが口にした言葉をこの男は理解しているようだけれど、あたしが口にした言葉をあたしは理解していなかった。
寒い?
寒くなんかない……だって、こんなに体温が、近い。
「いい子でおやすみ――怖いことなど何もありはしないから」
――ことりと眠りに落ちいくあたしの前髪をかきあげて、魔術師はクスリと微笑し囁いた。
「運が悪いな」
馬の嘶きが、遠く……遠く、きこえていた。