テノールと這い登る闇
「どこ行くの?」
にっこり。
――思うのですがね。あたしはこの面前の変態、もとい変質者にいちいち自分の行き先を言わなければいけないような理由はない筈なのですよ。
無関係ですからね!
無関係……自分からキスしちゃった件はもう忘れて。忘れ、うううう。
忘れられる程キヨウな人間じゃない自分が憎い。
「聖都」
……言わなくてもいい筈、です。
しかしあたしは思わず視線をそらし、あまつさえ言い訳のように「お母さんのところに顔を出してくるの」などと口走ってしまう。
「一人で?」
「一人で」
「ふーん?」
くるりと手の中でシルクハットを弄ぶようにした魔術師は、眉根をひそめてしばらく考えた様子を見せたがやがてゆっくりと微笑んだ。
「じゃあ行こうか」
「いや、あの?」
「どうりで早いと思った。朝一の駅馬車を使うつもりだった? 早くいかないとおいてかれちゃうよね」
うんうん、などとうなずき、ふと面前のあほんだら様は思い出すように顔をあげ、ぽいぽいっとステッキと帽子とを投げた。
ええ、あたしはもうそれが空中に消えようが気にしませんよ。気にしたら負けです。この男に負けっぱなしは気に障りますからね。もう何があっても気にしない。
軽く手を払えば今度はイカレ魔術師姿が極普通のシャツとスラックスに変わる。髪が随分と短くなって首の辺り。「ああ、忘れてた」というつぶやきに外套がぱさりと増えた。
気にしたら負け!!
すっと差し出された手に顔を引きつらせたあたしだが、この面前の不可解な男ときたらさっさとあたしのボストンバッグをひったくり、螺旋階段をおりようとする。
「聞いていい?」
「なに?」
「送ってくれる、ってコト?」
駅馬車の停留所、つまり中央広場まで?
疑わしい気持ちでそう尋ねれば、にっこりとまるで普通の人のように微笑んだ。
「うん。送るよ――聖都まで。駅馬車の旅ってはじめてだけど、大丈夫、ちゃんと君をエスコートするよ?」
「誰があなたと旅行に行くといいましたか!」
まてこら。
あたしは内心で随分とガラの悪いことを吐き出し、慌てて相手の手からボストンバックを取りかえそうと動いた。
「でも年頃の娘さんが一人旅なんて危ないよ」
「わたしはそもそも一人でこの町に来たのよ!」
「何事もなかったのは運がよかったよね。でも今回は運が悪いかもしれないじゃないか」
「自分の仕事があるでしょう!」
あたしはめちゃくちゃ焦った。
相手の傍若無人ぶりには多少慣れてはきていたものの、まさか一緒に行くなどと言うとは思わなかった。常識で考えて欲しい――って、常識が通じる相手じゃない。
「ぼくの仕事なんて楽隠居みたいなものだよ。とりあえず生きてればいいんだもの。何度も言ってるだろ、ただの名誉職。数日いなくなったって気にするのはジェルドくらいだよ」
へらへらと笑っていた魔術師だが、ふいに小首を傾けて囁いた。
「心配なんだよ、リドリー」
あたしはぐっとおなかの中心に力を入れた。
そうしないと体から力が抜けて流されてしまいそうになる。
さすがのあたしだって気づくのです。この男があたしを名前で呼ぶ時はあたしをたぶらかそうとしている時に違いない。
……柔らかなテノールでつむがれる自分の名前が、酷く優しく心の深い場所をなぞる。ただそれだけであたしの体温があがるのは、あたしのせいじゃない。
振り払えあたし。ここで負けたらいけません。
「とにかく、一緒に行くのは却下。あなたと二人で旅行なんて、そっちのほうが危ないわよっ」
「いやだなぁ、そんな期待されちゃうと腕によりをかけなくちゃって思うじゃないか」
なに照れてるのよっ。
あたしはばしりと相手の手からやっとボストンバッグを引ったくり、威嚇するように睨み付けた。
「あたしは自分の母親に会いにいくの! 一人で行きますっ」
魔術師は軽く肩をすくめてゆっくりと首を振った。
「そう、判ったじゃあ二択ね」
仕方ない、とまるであたしが悪いような口ぶりであたしの目の前に指を二本突き出した。
「一つはぼくと行く」
「わけないでしょっ」
「じゃあ、君の選択肢はもう一つのほうだね。あんまりすすめられないけれど、そうか、うん判った。仕方ないよね」
魔術師は心底仕方ないというようにゆっくりと首を振り、はーっと溜息を吐き出した。
「じゃあエルディバルトを連れていって」
「絶対にイヤ!」
あたしは即効で却下した。
髭を生やした明らかな騎士姿の男と二人旅? なにそれ、なにその悪目立ち。
あたしは背筋に寒いものを感じながらボストンバックをさらにぎゅうぎゅうと抱きしめる。
中の着替えはきっとしわくちゃだ。
「じゃあ、やっぱりぼくと一緒に行かないと。他の選択肢はないよ」
「一人で行くってば」
大前提でおかしいでしょう?
そんな選択肢を突きつけられる意味がわかりませんよ。
「それは許可できない。ぼくは君が心配なんだよ。リトル・リィ――それとも、君を説得する為にぼくは君を地下牢に入れたほうがいいのかな。言っておくけど、ぼくってば有言実行派だよ?」
……あたしはわなわなと身を震わせて面前の男を見た。
傍若無人の男ははっきり言って何をするか判らない。理解しているのは一つだけ。
やると言ったら、ヤる。
あたしは精一杯の気持ちを込めて相手を睨みつけた。
「へんなことしたら絶対に許さないから!」
「へんなことって何?」
「――」
「ぼくの考えるへんなこととリトル・リィの考えるへんなことが一緒だといいんだけど、そこの相違点はちゃんと照らし合わせたほうがいいんじゃないかな? で、君が考えるへんなことって、なにかな?」
魔術師はそれはそれは綺麗な微笑を称え、あたしの瞳を覗き込む。
あたしはたじろいでボストンバックを抱きしめた。どんどんと体温があがるのが判る。脳裏に色々と浮かんでしまうのは恋愛小説にありがちな恋人同士のシュチュエーションだ。
「あ、あの……」
「うん?」
「だから」
「だから?」
伸びた指先が耳たぶに触れるか触れないかの距離でなぞり、そのまま首筋をたどる。
細められた瞳からこぼれる奇妙な色香にこくりと喉の奥で唾液が溜まり、あたしは逃れるように一歩退いた。
「あの……」
指先が鎖骨の上をそっとなぞり、落ちた指をはねあげるように顎先に触れさせた。
ま、負けそう!
あたしは精一杯歯を食いしばり、ギッと睨みつけた。
「つまり、そうやって触ったり、キスしたりってコトです!」
強い意志を貫き通せ、リドリー・ナフサート。
流されてはいけません。
半泣き状態ではあるものの、あたしがきっぱりと言い切ると魔術師は瞳を二度瞬いて微笑した。
「ぼくは純粋に心配しているんだよ、リドリー。もしぼくがいない時に馬車が強盗に襲われたりしたらどうしよう? 若い娘さんに対して彼らはどんな暴挙に出ると思う? 彼らが紳士でいてくれるとは到底思えない。君のかわいらしい瞳が涙で潤んで助けを求めても、彼らはきっと残酷な笑みを向けるだろうね」
「――」
びくんっと身がすくんだ。
そういえば、最近そんな話があったな。強盗もほんかくてきな冬を前に大忙しかな? 可愛い女の子を捕まえたり?
相手の言葉がその状況をとろとろとこぼすたびに、足元から奇妙な震えがたちのぼる。まるで言葉が事実であるように暗い影のようにあたしに触れる。
顎先に添えられていた指先が、ふいに大きく動いて五本の指が首に触れる。決して力を込められていないのにあたしはボストンバックを抱きしめて体に力が入るのを感じた。
「細い首だね……ぼくのような優男の手でも片手でことたりてしまう。ねえ、リドリー? 強盗の手はきっともっと大きく強く、この細い首を捕らえて締め上げて、そして――」
もう片方の手があたしの腰に触れた。
びくんっと体が跳ね上がる。
まるで見知らぬ無骨な男が自らに触れているような奇妙な振るえが走る。
微笑を称える男は口角を引き結んで耳元にそっと囁いた。
「その後は――」
「判ったわよ!」
あたしは悲鳴のように言った。
背中がぞわぞわとあわ立ち、唇を嚙む。想像したくないのに想像してしまう。男の手が、しなやかなこの面前の男ではなく、無頼な男の無骨で大きな手が自分の首をしめあげる――まるでその様子を脳裏で再現されるような恐怖で歯がかちかちといいそうになる。
あたしの叫びに魔術師はふっと微笑み、ふわりと軽くあたしを抱いた。
「ね? ぼくがいれば安心だよ。ぼくこれでも結構使えるからね」
小刻みに震えるあたしの耳元で、優しくささやきぽんぽんっと背中を叩く。
安心させるように、この腕の中は安全だと示すように。
「さぁ、行こう」
体を引き離した魔術師は、実に楽しそうに言った。
あたしは強盗とこの男とを天秤にかけた。
――強盗よりはマシ。
強盗よりはマシってだけですっ。