かわいいメイドと檻の人
町のパン屋さん、【うさぎのぱんや】の裏手、庭にテーブルと椅子とを出して騎士になる為の勉強に励むアジス君の姿は、最近では見慣れたものになった。
その前で「愚かですわ」と教鞭をとるアマリージェの姿も。
「なんていうか、申し訳ない気がするんだけどねぇ」
マイラ小母さんははじめこそおろおろとしていたものだが、そのうちに慣れたのか諦めたのか、最近ではあまり気にしなくなったようだ。
「って、お前だって間違ってるじゃないか。偉そうにすんな」
「わたくしのどこが愚かなのです!」
……あれは果たして勉強なのだろうか。時々心配になりますが、まぁ、ほほえましいといえばほほえましいのでほうっておくことにしています。
アジス君は十二歳になったら領主の城館にあがることに決まった。それまでは色々と勉強をしなさいと言われたようで、今の彼の崇拝の対象は御領主さまになっている。彼は結構思い込みが激しいのかもしれません。
アレの姿を見ると引きつるようになりました。
――なんだかごめんなさい。
カランっというガラスベルの音に、あたしは店舗にお客が来たことに気づいて店舗のほうへと顔を出した。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
にっこりと微笑んだ女性を前に、あたしは――引いた。
白のレース付きのシャツに黒いふんわりと広がるスカート。その上につけられた真っ白いレースのエプロン。頭にはヘッドドレスという、いわゆるメイドさんの姿のお嬢さんは、にこにこと小首をかしげた。
「パンをくださいな」
「えっと……どうぞ?」
あたしは並んでいるパンを示す。
けれど彼女は並ぶパンを一度眺めて、小首をかしげ、
「パンをくださいな」
とまた言った。
「……」
あたしはしばらく考えてカウンターを出て彼女にトレーとトングとを渡し、
「好きなパンをトレーにのせて、カウンターで精算します」
で、いいか? 理解してくれましたでしょうか? あたしどきどきしてしまいました。なんと表現したらよいでしよう。未知との遭遇? 会話は通じるかしら?
かわいいメイドさんは持たされたトングとトレーとをじっと見つめ、
「判りました!」
と、まるで戦場に挑むかのようにくるりとパンに向き直った。
かわいらしいのですが、なんだろうコレ?
「ここのパンが美味しいと教えてもらったのです。でもいろいろあってどれがいいかわからないわー」
「えっと、こちらのパンは比較的甘いんですが、こっちは」
あたしがひとつづつ説明すると、メイドさんは熱心にそれを聴いて、にっこりと言った。
「エディ様はあまーいのがお好きですから、あまーいのがよろしいですわぁ。常々昆虫かしらって私思ってるのよぉ」
ふふふ、と幸せそうに彼女は言う。
「ご主人さまですか?」
あたしに話しかけられていると理解し、そう返すと彼女は実に幸せそうに微笑んだ。
「そうです。エディ様はぁ、ルティの旦那様なのですよぉ。とっても素敵なのです。今は猛獣みたいでとってもかわいいの」
……昆虫だとか猛獣だとか、ある意味すごい単語が飛んでますよ。
「檻の中でうろうろしている姿がもぉ最高にかわいいっ」
「檻……?」
あたしは呆気にとられてしまった。なんだろう、関わってはいけないひとなのかしら、この人は。檻って、どんな……ふと、あたしはぴたりと動きをとめた。
「どうかなさって?」
「えっと……あの」
「はい?」
「旦那様のお名前は?」
「エディ様ですぅ」
「……もしかして、エルディバルトさま、とおっしゃる?」
「まぁ、ご存知ですか? だめですよお、エディさまはルティのですからあげません」
いや、いりません。
あたしは彼女を放置し、裏手の扉を開いてそこで勉強といいながら舌戦を繰り広げているアマリージェへと叫んだ。
「マリー!」
「もうお昼ですの?」
「違います。マリー、あのっ、もしかしてあのエルディバルト様って、もしかして、まだっ」
あたしは自分の血の気が引くのを感じた。
しっかりと忘れていたが、確かアレに命じられて地下牢に入れられた人がいたではないか。
「ああ、まだ地下牢にいらっしゃいますけど」
いやぁぁぁぁっ。
「あたしアレのとこ行ってきます!」
アレという単語にアジス君がびくりと反応する。その反応にかぶせるように、アジス君に自分のエプロンを預けた。
「アジス君。お店おねがい」
「お、おぅ?」
「今店内にかわいいメイドさんがいるから」
その言葉にアマリージェが瞳を瞬いた。
こんなに走ったのは久しぶり。
あたしは中央広場を抜けて細い街道を走り、丘の上にある城館を左手に見てその裏手にある白い館までたどりついたころには心臓を吐き出してしまいたい程気持ち悪くなった。
ううう、心臓でる。むしろ吐き出したらすっきりしそう。
こんなにアクティブに自分が動けるとはちっとも思っておりませんでした。
「お水飲む?」
すいっと差し出されたグラスを受け取り、あたしはそれを一気に飲み込み「ぷはーっ」と勢いよく息をついた。
「もう一杯!」
元気よく言えば、空になったグラスの中身がとたんに満ちた。
「……」
あああ、まだ慣れない。慣れません。魔法。
というか、あたしはちらりとそこで微笑んでいる男の姿に「うっ」と呻いた。
「落ち着いた?」
「まぁ、うん。ありがとう」
手の中のグラスが霧散する。とたん、神官服だというのに、アレはぎゅむりと両手を伸ばしてあたしを抱きこんだ。
「あああ、ぼくに会いに来てくれたんだね。ハニーっ」
「ちがぁうっ」
「えええ、違うの? 違うの?」
「あたしはエルディバルト様にっ」
「エルディバルトに?」
耳をなぞるその音に、あたしはびくんと反応した。今、今明らかに声のトーン落としましたね。何か不快な気持ちになってますね!
「いや、ちがくて」
冷静に、冷静に、あたしは一生懸命言葉を捜した。
言葉は選べとアマリージェにきつく言われている。
「あのですね、あなたに会いに来たで正解です」
白旗。
はたはたと心の中ではためく旗をイメージすれば、がばりと魔術師はいったん体を引き剥がし、ついであたしの瞳をじっと覗き込んだ。
「したくなった?」
「違うわよっ」
「ぼくはいつだってしたいのに。リトル・リィの首筋にゆっくりと舌を這わせてその甘い香りの正体をじっくりと確かめたいよ。今の君はきっとほんの少し塩気が――」
腹部の一撃は手馴れたものですよ、ええ、本当にね!
ぱんぱんっと両手を打ち鳴らし、あたしはうずくまっている男に言った。
「エルディバルト様、まだ地下牢にいるんですって!?」
「だってまだ反省文が書けてないんだよ」
「もう十日近いじゃないのっ」
十日ですよ、十日! 御領主さまだって三日だったというのにっ。
「あの子ってば不器用だよねぇ」
そういう問題かっ。
「大丈夫、大丈夫。ルティアが面倒みてるし」
その名前は先ほど遭遇したメイドさんだ。
あたしは額に手を当てた。
「とにかくっ、もう出してあげてよっ」
「だから、反省文まだ書けてないんだ」
「魔術師っ」
くすりと微笑み、魔術師は小首をかしげた。
「リトル・リィからキスしてくれたら、出してあげてもいいよ?」
にんまりと口角をあげた唇を、あたしは凝視して自分の体温があがるのを感じた。
自分から……
なに、なに、これは何の罠?
言っておくけどしたくない訳じゃありません。いろいろ興味はあるお年頃なんですっ。
それに、相手は好きな人な訳だし。
ただ、ただ勇気がっ。
あうあうと口が開いたり閉じたりを繰り返す。
あたしは勇気をふるいおこし、よろよろと手を伸ばして魔術師の胸元に手を当てた。上目遣いで相手の唇を確かめて、ぎゅっと魔術師の神官服を掴んだあたしの前で、アレはのたもうた。
「なんかむかつく!」
低く唇の間から言葉を漏らし、アレはあたしの腕を掴んで館への道を歩き始めた。
えええええ?
ちょっと!
あたしのこの勇気と期待をどうしてくれんの!?