砕けるものと新たな道
アジス君は手負いの獣のように神経をぴりぴりとさせていた。
若干十一歳という年齢とは思えない厳しい眼差し。
祖母にまで反対されたのだ。神官という職種を。
そしてまた、同じパン屋で働いているあたしに小言を言われるのではと思って瞳をきつくしている。
あたしは仕事をこなしながら、時々客の来ない時間にちらちらとアジス君の様子をうかがっていた。
「アジス君」
「……なんだよ」
「そこのトング、とってくれる?」
咄嗟に言われた意味が判らないというように瞳を瞬いて、それからアジス君は唇を尖らせた。
「聞かないのか?」
「なにを?」
「……神官のこと」
「やりたいならやればいいと思うよ?」
――嘘だけれど。
あたしは完全に反対です。いや、普通に神官になりたいというのであれば良いと思う。けれど、アレに仕えたいっていうのはまったくもって駄目だと思う。
何が駄目って、もう色々と駄目だ。その駄目っぷりは類を見ない。
注釈をつけると、これでもあたしは自分の好きな相手のことを言っています。本当です。
本当に好きなんですよ。人生投げていいですか?
アジス君の顔が嬉しそうにぱっと明るくなった。
それまでのきつい表情がやにわに解けて年齢相当の可愛らしい子供になる。
ちょっとどきりとさせられる表情だ――なんというか可愛い。
「リドリーは賛成してくれる気になったのか?」
いや、反対してます。
「尊き人って、そんなにスゴイ?」
「そりゃあスゴイよ。だって竜守なんだぞ? 竜が起きないように見守ることができるんだぞ。その為に一杯不思議なことができるんだ。尊き人は。北の竜峰の凍土をずっと凍らせているのも竜守の大事な仕事で、他の誰にも真似できないすごいことだろ?」
怒涛の尊き人賛美は、だがどこか曖昧な単語で埋め尽くされていた。
お伽噺なのだ。この辺りで語られる――それはそれは微笑ましい。
それだけ聞くと「ああ、竜公も尊き人もやっぱり一緒なのね」となんだか納得できた。どちらも古くからあるお伽噺。
――竜、なんて存在あたしは未だにあんまり信じていないのだけれど。
お昼の混雑が終わり、休憩時間が近づく。これから一刻程、パン屋さんは休憩時間に入る。にこにこと機嫌を良くしたアジス君が店の入り口の開店の札をひっくり返し休憩中に切り替え、自分が食べる為のパンを物色していると、店のガラス・ベルが軽快な音をさせた。
「あ、もう休憩だよ」
とアジス君が言いかけた。
現れたのはあたしが招いた相手――アマリージェと、そしてその背後から魔術師姿のアレだった。
「やぁ、リトル・リィっ。御招きに甘えて来たよー」
ぽんっとパン屋という場所柄もわきまえずに帽子から色とりどりのリボンと花とを引き出した魔術師の姿に、アジス君は硬直した。
その口が呻くように「コーディ……ロイ?」と小さく動いたのだが、誰もそれに応えるものは無かった。
よし、いい登場の仕方だ。
あたしはにっこりと微笑んだ。
「いらっしゃい、コーディロイ」
あたしは言いなれない言葉で相手に言った。
けれど変態魔術師の姿をした男はその顔を途端に真面目なものへと切り替えて真摯にそっと首を振った。
「その言い方はしないで。君は――いつも通りでいいんだ。魔術師でも、魔法使いでも……そんな言葉は君から欲しくない」
ふいに寂しそうに言われ、あたしはどきりと心臓がはぜた。
その顔は傷ついた顔をしていたから。
「魔術師」
慌ててそう呼べば、途端に、魔術師はアジス君を視界にもいれずにぱっと両手をひろげてあたしを抱きしめにかかる。
普段通りの莫迦まるだしの所作に戻れば、あたしは安心して息をついた。真面目な顔など見せないで欲しい。辛そうな顔とかは駄目。
少なくとも今この時は。
力一杯抱きしめられていつも通り首筋に顔を埋められる。軽く唇で吸われる感触に小さく呻いたものの、今日のあたしはすでに色々と覚悟を決めていた。
そう――アジス君の憧れを木っ端微塵に打ち砕く覚悟を。
「すごく、すごく、すごーく嬉しい。
リトル・リィ。どうしよう、ぼく今日は興奮して眠れないかも。君に誘ってもらえるなんて、絶対もう色々と無理。我慢できない。というか我慢も限界。ぼくと一緒に寝ようよ?」
意味がまったく判りませんが、もういいです。
今日はその頭の悪い言葉の羅列は大歓迎。
あたしはちらりと固まっているアジス君を見て、それからその一歩後ろで笑いを堪えているお姫様を見た。
「マリー、外で食事にしましょうか?」
「ええ。チキンとか持ってまいりました」
そういいながら姫君はバスケットを掲げて見せてくれた。
あたしはべったり張り付いているソレを無視して、アジス君に微笑みかけた。
「アジス君も一緒に食べよう」
ほーら君の大好きな尊き人も一緒だよ?
にっこりと言いながら、自分でもちょっと――あたしってば鬼かもしれないと心の片隅で思っていた。
しかし、アジス君は男だった。
立ち直りが早かったのだ。
明らかに頭のおかしい憧れの人を前に、果敢に立ち直ってみせた。
あたしの匂いをかいだり、うっかりすると髪にキスしたりとやりたいほうだいな挙句、口からだらだらと流れる言葉はお子様に聞かせるのにはちょっともう――辞めろと云いたくなるような言葉の羅列。
アジス君は涙目になっておりましたが、彼の心はまだ健在であったようだ。
パン屋の裏手にある小さな庭。そこに敷物をひいてパンとアマリージェが持ってきてくれたチキンやサラダなどで昼食。その間もあたしが怒らないことをいいことにべたべたとしてくるアレへと向けて、アジス君はやがてゆっくりと言った。
「おれ、神官になりたいんです」
コレを見てもそういえるアジス君はやっぱり立派で、また頑固だった。アマリージェがふっとその瞳を暗くする。何事か口にしようとしたが、それよりも先に魔術師が口を開いた。
「神官はつまらないよ?」
「……」
「一般的な神官だと結婚とかできないし。キスもできないし、子供もつくれないし。あ、ぼくはね、平気。ぼくただの名誉職だからね。これからも一杯リトル・リィとキスするし、一杯舐めるし、かじるし、リトル・リィの匂いが僕の匂いになるまでしまくって子作りもする予定。でもぼく以外の神官は結構かわいそうだよ? 知ってる? 戒律がどうたらって訳からないこと言って神官見習いの男の子に手を出したり、えぐいよねぇ?」
上機嫌の魔術師……
激しく殴りたい。もう、殴って黙らせてしまいたい。
「君は可愛いからちょっとあぶないと思うよ? 可愛くて頑固っぽそうな子はね、組み敷きたいって変態が結構いるからさ。ああ、変態は怖いから。ホントだよ?」
変態の分際で変態を非難した挙句に、トドメを刺した。
真っ青というよりも真っ白に成り果ててずんっと沈んだ少年に、アマリージェがフォローするように言葉をかけていた。
「神官などよりも、もっと別の……たとえば騎士を目指してはいかが? あなた、手が大きいですし意思も強そうですもの。そういった方面が向いていそうですわよ」
「莫迦だろっ」
咄嗟に言ってしまってからアジス君はあわてて自分の口をふさいだ。
「いや、あ、すみません……」
「莫迦って、どういう意味です」
アマリージェが低く言う。
「あの、本当に失言でした」
アジス君がしどろもどろに口を押さえ込んだまま言う言葉を、アマリージェは冷ややかにねめつけた。
「どうしてわたくしが莫迦なのです」
「――騎士なんて、平民のオレがなれる訳ない」
苦しそうに言う少年の言葉に、アマリージェは思案するように見つめ、微笑んだ。
「愚かですわ」
「っっ」
「騎士を目指すつもりがあるのであれば、手はありますのよ? 神官を目指すよりもずっと現実的ですのに」
「なんっ」
「領主が認めれば良いだけです。従騎士の資格を貰い、騎士のもとで働き、学び、聖都で騎士を目指せばよろしいのですわ」
「簡単に言うなっ!」
その言い方に、あたしは気づいた。
アジス君はきっと騎士を夢見たことがある。
騎士といっても昔程厳格なものでは無い。なんといっても今は列車が走るような時代だ。だけれど騎士は憧れであることにかわりがない。
「えっと、もっと簡単にもなるよ?――ぼくの」
ひょいっと魔術師が口を挟もうとしたのを、アマリージェがぎっと睨みつけて留めた。
「黙ってなさい!」
「……はい」
うわっ、アマリージェ強い。
一瞬で魔術師を黙らせて、アマリージェはアジス君へと向いた。
「わたくしが兄に言っておきます。従騎士の更に見習いとして兄に仕える気はありますか? やがては騎士となるために」
その言葉に、アジス君が唖然とアマリージェを見つめる。
「え、あの……」
「どうなさいます?」
「いいのか? いや、いいんですか?」
「わざわざ言葉を直さなくてよろしいですわ。むしろ気持ちが悪い――」
アマリージェはすっと視線を逸らした。
「騎士なら、一代限りといえども立派な爵位ですわね。結婚もできますわよ?」
おそらくアジス君はそんなことは気にしないのだろうが、とりあえず神官の道は忘れたようだった。
「頼むっ」
勢い込む言葉に、アマリージェはそれはそれは綺麗に微笑んだ。
「頼まれましたわ」
「あのね、リトル・リィ」
あたしの横で寄りかかるようにしてパンを食べていたアレは顔をしかめて言った。
「もしかしてぼくってばダシ? なんか策略を色々と感じる」
「重いからそろそろどいてくれない?」
すでにあたしの素直さと忍耐は底をついてしまった。今日の許容量は終了。
離れて下さい切実に。
「やっぱりそうなんだ。ぼくを誘ってくれたのは純粋な好意じゃなかったんだ。リトル・リィってばぼくを騙したんだ」
いじける相手にあたしはそっと言った。
ほんの少しの同情を込めて。
「なんだかあたしもダシっぽいわ」
それでもってアジス君もダシ。
だって……こうやって寄り添って話しているのってちょっと、普通っぽくない?
なんて、なんて――うわっ、どうしよう恥ずかしいんですが!