素直さと姫君の願い
「ん、んんん?」
あたしは結局朝までクッションを抱きしめて寝台の横の壁に背中を預けて考えていた。
記憶の断片は確かに自分の脳内で再生される。だが、その記憶はどこか曖昧すぎた。いってしまえば、余計なことは覚えているけれど、決定的な何かが足りない。
冷たい口調で言葉を落としたアレが、いつの間にか微笑を浮かべている。
これは絶対におかしい。怯えを覚えた子供が、男から菓子を受け取り愉しそうに笑っている。つまり、仲良くなる何かがあった筈だというのに、それを考えると頭の中身がずくずくと傷むし、顔をしかめるしかない。
考えれば考える程、思い出してはいけないことが思い出されてしまいそうで自分でもイヤになる。
というか、大事な部分はすっぱりと抜け落ちているというのに、絶対に忘れていたほうが良さそうな記憶は無意味に出てくる。
――あのね、約束の印にボタンを贈り合うの。
無邪気な子供は自分のシャツのボタンをせっせと引っ張った。けれどその衣装は普段着ではなくて聖都にいる間はいつだって愛らしいつくりの綺麗な衣装。ボタンだってたやすく取れてしまったりしない。
男が微苦笑を浮かべてそっと手を触れさせると、ぽろりとボタンは外れた。
「花嫁さんになったらかえしてね。大好きっ」
背を伸ばして慣れた様子で相手の口唇に音をたてて口付ける。
ぎゃぁぁぁぁぁぁぁっ。
大好きって。大好きって、大好きって何ですかっ。
迂闊にキスとかしてはいけません。口と口はそんなお安くしては駄目だったら。
ちょっとそこの子供! そこに座りなさい。
勝手に何を約束しているの? そんなあやしい人間と親しくしてはいけません。約束なんてもってのほかです。
駄目ですってば。
あたしの卒倒など知らぬ様子で、記憶の欠片は次々に浮かんでは沈んでいく。
目の前でひょいっと出されるうさぎや子犬。
甘いお菓子に小さな子供は夢中だった。まるでお伽の国を訪れたように毎日が楽しい。黒髪の青年が見せてくれる不思議を楽しみ、笑い転げて、疲れればその膝で眠る。
男の手が頭をなでてくれる。
……母以外の誰かがそんな風に接してくれたのははじめてだった。
寝ぼけた子供がときおり「オネエサン?」と呟き、それに男は笑いながら否定する。
あたしはクッションを抱えて悶絶し。
ついでぱたりと寝台で倒れこんだ。
顔の筋肉がおかしい。ぴくぴく引きつる。
泣きたいのか笑いたいのか判らない。もうなんというか吐きそうなほど恥ずかしい。
両手でそっと頬に触れて、窓から差し込む朝日に目を眇めた。
あたしは数日の間あの男の元へと通った。
一日目に何か……約束をしたのだ。だから翌日もあの男の元へと行った。どんな約束だったろう。ただ、その時はまだあの男はあたしに対して冷たさばかりを向けていた。いつの間にか顔を合わせるのが当然になって一日のたいはんをそうやって過ごして――
――ぼくの魔法は、呪いなんだ。
ツキンと痛む。
あたしは泣きたい気持ちになった。
霞かかる記憶の中、けれどその言葉は――あの男にとって随分と痛みを伴うことを、あたしは知っていた。
理由より先にそれは理解している。
あたしはわしゃわしゃと自分の髪をかき混ぜて、鳥の声と羽ばたきを耳にいれながらすくりと立ち上がった。
なぜ、あたしはこの記憶を失ったのだろう?
確かに初対面の記憶はあまり良いイメージではないけれど、けれど――失うには辛い記憶のはずだ。当時のことを思えば、それは幸せな記憶。泣いてばかりいたあたしにとって、生きていたうちに一番幸せであったのではないだろうか?
「頭でも打ち付けたかしら」
あたしは思わず自分の頭を撫でてみた。
なにかの本で読んだ覚えがある。強い衝撃があると記憶を失うのだと――強い衝撃。別れはもしかしたら小さな子供には衝撃だった?
そう考えてあたしは撫でた手をそのままに頭を抱えた。
もぅ、なんと言っていいのか判りません。リドリー・ナフサートがアレと別れるのが衝撃! 今、たった今物凄い衝撃を受けてますよ。
あたしは深く息をついた。
ほんの少し、ほんの少しだけ素直になろう。
あたしはあの男が好き。
もうなんか良く判らない男だけれど。でも――あたしはもうちょっと素直に……
あの男が好きといってくれる言葉を、素直に聞こう。
あたしは窓を開けて新鮮な空気を吸い込み、少し寝不足な顔を水で洗いあげて朝食をすませ、きっと今日は笑って「おはようっ」と自分から声をかけようと意気込んで自らの部屋を出て螺旋階段をおりた。
もう少し素直に。
もう少し仲良く。
あの人を一人にしていた自分の、せめてもの罪滅ぼしに。
しかし相手はあたしの思いを上回る――アレだった。
いつものように二階の部屋の扉前に差し掛かる。あたしの心臓がとくとく言う。
ちらりと視線がそのドアノブを見つめ、まるでそれを判っているように扉は開かれた。
――とくん。
あたしは自分の胸元を抑え、笑顔を作って、それで、
「リトル・リィ! 昨夜の君はとっても素敵だったよ」
「頭イカレてるんじゃないの!?」
「えええ? すごく正常だけど……んじゃ、今日も美味しそうな匂い」
「余計な言葉は要らないのよ!」
なんでこう頭の悪いことばかり言うの。
あたしがせっかく素直に、素直に……
あたしはバスケットを抱きしめて一回深く酸素を吸った。
なんとなく頬があつくなる。
「おはよう」
「うん、おはよう」
「あのね――昨日はご馳走様でした」
「どういたしまして」
「お返しって訳じゃないけど、今日御昼過ぎにパン屋さんに来ない? あの、マリーも来るんだけど。一緒に昼食を」
ホントウにお返しなんていうワケではありませんが。
「行く! マリーも行くの? マリーは別にいらないけれど」
ぱっとその表情が更に明るくなり、両手が伸びてあたしを抱きこもうとする。それを一歩よけて交わし、あたしは引きつる笑みをおしかくした。
「楽しみにしてるから」
「ぼくも楽しみだよ。ああ、凄く嬉しいよ。リトル・リィ」
浮かれているアレに見送られたあたしだが、ほんの少しだけ胃が痛む気がした。
凄く、凄く喜ばれてしまった。
いや、不遜な言い方かもしれないけれど、喜んでくれるだろうとは予想していた。
もしかしてあたしってかなり――傲慢かもしれない。
傲慢で底意地が悪いかも……あたしはぎゅっとバスケットを抱きしめた。
もしかして、幸せ――いや、もちろんなんか色々と問題がある気がするけれど、もしかして、ちょっとこういうのもシアワセって、思っていいかしら。
「仕事は手伝う! 判ってるよ!」
可愛らしい【うさぎのぱんや】の店の中、怒鳴りつける少年の言葉にあたしは爽やかな青空を一旦見上げて苦笑した。
――そう、アジス君の問題。
神官を目指したいという言葉に、あたしよりもむしろ気を配っていたのはアマリージェだった。
まぁ、あの兄君を見ていれば誰だって同じ危惧を思うのかもしれないけれど。
「神官なんて駄目です。どうにか諦めさせて下さい、リドリー」
アマリージェはあたしの手を握り締めて懇願した。
ふわふわの蜂蜜色の髪、翡翠の瞳。
薄桃色の唇の愛らしい姫君にそんなことをされれば――誰だってどんな願いだってかなえてしまいたくなる。
そういうものだろう。
あたしは妹に対しても甘い自覚があったが、アマリージェにもちょっと甘い気持ちになってしまう。
だって凄い可愛い。自分が男だったらほうってなどおけない。
――あれ、魔術師よりもアマリージェのほうが好きかも。
あたしは口元が緩むのを隠し、大きく息を吸い込んで馴染みの職場の扉を開いた。