彼女の想いと彼の想い
――姉さんは、好きだった。
うちの家族は元々どこか壊れていた。
母さんは私を疎んじていた。父さんはあたしを腫れ物のように扱った。
使用人はただあたしの世話に明け暮れて、そして姉は――目をあけると覗き込み、冷たい手を額に当ててくれた。
だから自分が酷い人間なのは承知している。
姉さんの婚約者を――好きになるなんて、どうかしてる。
でも、知らなかったのよ。姉さんの為の人なんて。だってそんなの……ずっと昔から決められていたなんて、誰も言わなかったし、あの人も――マーヴェルも、あたしの病気が治ったら結婚してくれるって……言ってくれたの。
「大丈夫――ティナはちゃんと元気になれるよ」
そう言ってくれたのは姉だった。
あたしはずっと病気がちで、自分はあんまり長くないということも知っていた。そう親が願っているのも知っていたし……それはつまり、あたしは父さんの娘ではあったけれど、母さんの娘では無かったからで、要らない子というのは判っていた。
空気が――違うのよ。
父さんは寝込むあたしを心配しながら、それでもこのまま息耐えてしまっても構わないと思っていただろうし、母さんはあたしを視界にいれるのも嫌がった。
姉さんがあたしの枕元でイロイロ話しをしてくれるのを、母さんは良い顔しなかった――ある年なんて、姉さんだけを連れて聖都に長いこといってしまっていた。
聖都から戻った姉さんは、不思議な飴をくれた。
「すごーく、美味しい飴だよ。毎日一個づつ舐めるんだよ?
そしたら来年は一杯元気になれるんだから」
あたしが七つの頃――もう少しで八つになろうという時に戻った姉がくれた飴は、とろけるように甘くて、そして彼女の言葉の通り、あたしは十になる前にはそれまでの病気がちな体が嘘のように元気になっていた。
お医者様のクスリで完治したのではなくて――きっとあの飴が、私を治したのだと今でも信じている。
「あの飴は聖都で買ったの?」
いつだったか尋ねた時には、姉は不思議な顔をして「なんだっけ? 覚えてないわ」と言っていたけれど、彼女にとってはさほど重要なことでは無かったのかもしれない。あたしにとっては、とてもとても、重要なことだったけれど。
元気になると人間はきっと欲深くなる。
姉が好きだし、そしてあの人も好き。
それはきっと両立しない想い。
大人になればいやでも理解できる。姉はあの人が好きで、あの人は姉が好き。それを認めたくないだけ。
――二人が一緒にいるのは、親が決めた婚約者だから。
そうやって自分が傷つかないようにする自分はきっととても自己中心的。
諦めなければいけなくて、諦め切れなくて……たった一度だけでいい、そう願った。
たった一度、あの人に触れられるなら。
きちんと諦めて二人のことを祝福しよう。
卑怯で矮小で、最低――あの人が姉に触れていないことも承知だった。
だって、随分と大事にしていることを……知っていたもの。
「あたしと結婚したほうがいいって、思いなおしてくれるかも」
うそぶいた。
――父がそんな結論を出さないことは承知しているのにね。
だって姉だから意味があるのだ。
あの母と父との間の娘。
父が事業をしていく上で、それはとても大事な布石。使用人に手を出してつくられたあたしとは違う。
冷え切った家庭だった。
姉は良く一人で泣いていた。冷たいこんな家だから――誰もが泣いていたんだろう。
「どうして!」
引き裂かれたウェディングドレスを前に、まったく理解できなかった。
結婚式は間近だった。
幸せそうな姉を毎日見てきた。
その姉が――ゆっくりと沈んでいくのを知ってはいたけれど、結婚すればきっと幸せになるんだろうと思っていた。
……あたしの裏切りなど気づいていないと思っていた。
あたしの気持ちも、あの人の気持ちも気づいてないなんて――馬鹿げた妄想だった。
血の気が一気に下がって、意味が判らなくて叫んだ。
たった一度だけで良かったのに。
諦めたのに。
どうして姉が消えてしまうの!
あたしはやっぱり自分勝手なのだろうけれど……本気だったの。
そこに嘘は無かった。姉の人だと知っていたもの。たった一度手に入れられれば、それだけで良かったのよ。
壊れた家は更に崩壊した。
マーヴェルはあたしと目を合わせない。何かの拍子であたしと目が合えば睨みつけ、怒鳴ろうと口を開きかける。
憤りがひしひしと体を苛む。
町の人たちの視線が生あたたかく向けられる。
嘲りながら「これで二人は一緒になれる」と嘯くのだ。
自分の中の感情は怒りなのか悔しさなのか、罪悪感なのか判らない。
ただ姉を探さないといけないと思った――探して連れ戻して、あの人と一緒になってもらわないといけないと……ああ、違う。何故!どうしてあの人を悲しませるの!
いいえいいえ、悪いのはあたしで!
あたしが姉を苦しめた!!!
どうしてあの人が冷たくあたしを見るの? どうして!
姉さんのせい! 姉さんさえっ。
謝らなければ。
いいえ、いいえ! あの人を苦しめた姉を責めたいの。
あの人を悲しませる姉をっ!
違うっ、あたしはっ。
見つけ出して、そして……
死んだなんてうそよ。
死なんて、死んで……――いや、いやよ……姉さん、
「リドリーっ」
頭の中がぼぅっとする。
霞がかかるように鈍痛が繰り返す。
記憶が曖昧で、何が真実で何が嘘なのかも判らない。
……ぎゅっと、手を握ってくれたリドリーのひんやりとして、でも優しい手を、離したのは――あたし。
「リドリィ……」
死んだなんて、悪い夢……悪い、夢よね?
***
「戻ってから、あの調子なんだ」
呼び出されたナフサートの屋敷で、マーヴェルは覚めた眼差しでティナを眺めた。
寝台の上に座り、壁に向かいただ姉を呼ぶだけの娘。
この辺りで一番可愛いといわれた娘の面影は今は無い。こけた頬に、落ち窪んでしまった瞳は涙のせいだろう。時々ぶつぶつと何事かを呟いてはまた涙を零す。
「ティナを支えてやって欲しい」
「――ナフサートさん」
マーヴェルは深く息をつくと開かれていた扉を閉ざした。
「オレはリドリーを探すので忙しい。たとえリドリーの妹のことだとしてもオレには何もしてやれない」
「マーヴェルっ」
「オレはもう間違ったことなどしたくない!」
――たった一度。たった一度だけの過ちのはずだ。
何が悪かったかといえば、それだけで、だがそれが一番大きな罪で、溝を作った。
目立つ妹の後ろでいつだって物静かにしていた愛しい娘。
母親を気遣って、妹を気遣って、自分を押し殺して満足に笑いも怒りもしなかった。
自分が更に彼女を追い詰めたのだ。
理解している。
嫌われたのかもしれない。
呆れられたのかもしれない。
捨てられたのかもしれない。
――けれど、自分はしなければいけない。
彼女を見つけて、愛してると何度も告げて、過ちを認めて。
まずはそうしなければいけない。
他のことなど何もできない。してはいけないのだ。
許されるとは思っていない。
それでも――幾度でも頭を下げなければいけない。
たとえ、もうその心が閉ざされているのだとしても。
もう二度と間違った行動は取れない。
「リドリーの居場所、エレイズさんは知っているんじゃないんですか?」
ナフサートの家の独特な雰囲気が嫌いだった。
どこか刺々しいような。なんだか冷たい雰囲気。この辺りでは珍しい豪商でありながら、心はどこかすさむような寒々しさ。
この屋敷の女主人が屋敷を離れたのは、リドリーが十のころ。
あやうくリドリーすら連れて行かれそうになった男主人は、慌ててリドリーの婚約を整えた。
――この男は長女を失う訳にはいかなかったのだ。
聖都に強いコネを持つ男爵家の娘を嫁にした男は、その血を失う訳にはいかなかった。たとえ妻を手放したとしても。
実際、今はがたがただろう。
妻側の支援はいまや無いといってもいい。離婚という強硬手段にはでていないが、リドリーの結婚式の為に訪れていたエレイズ婦人は娘の姿が無いことに半狂乱になった。
エレイズのリドリーへの愛も、どこか偏ったものだ。
おそらく夫へと向けられないものが全て娘へと向かった。自分の身を不幸だと信じた女は、ただ盲目的に娘を愛し、最終的に手放したのはリドリーがティナを見捨てられなかったせいだ。
ティナを、そして突然突きつけられた婚約者を。
壊れたこの家から彼女を救い出すまで数日だった。
あと数日で……――
彼女は消えてしまった。
「……幸せに、なれるかな」
抱きしめると体を強張らせて、少しだけ戸惑うように見上げてきた瞳。
「ティナは、エレイズに会いに行ったんだ」
苦いように言われた言葉に、マーヴェルは眉を潜めた。
「そこで冷たく扱われでもしたのだろう。かわいそうに」
父親の溜息に、マーヴェルは閉ざされた扉をちらりと見た。
「ああ、エレイズさんはティナを憎んでいるから」
ずばりとマーヴェルが言ったのは憎しみが腹をなぞるからに相違ない。男の鋭い視線が向けられたが、どう思われようと構わなかった。
今更だ。
「帰ります――」
ティナに何があったかなど感知する気も起きない。
だが、ふと何故いままでエレイズのことを考えなかったのだろうと首をかしげた。
いままでの捜索は港付近ばかりだった。
聖都を欠片も思わなかったのは不思議だ。あそこはリドリーの母方の親族がいる。母親だって暮らしているのだ。
普通の娘が母を頼っておかしいことは無い。
エレイズはアレ以来こちらに顔を出すことも無かったが、もしかしたらリドリーがいるのかもしれない。そうでなくともリドリーの情報が何かあるかもしれない。
「……内陸を考えないのは迂闊だよな」
――港ばかりを探したのは自分が船長の息子で探しやすかったせいもある。
そして、心の片隅で思っていた。
探しやすい場所にいて、今も見つけて欲しいと願ってくれているんじゃないかって。
求めたのはささやかな「幸せ」だった筈だ。
彼女だって多くを望んでいた訳じゃない。いつだって、そうだった。
ささやかな幸せを築いていけると信じていた。
「……リドリー、今……幸せか?」
雨が降っていた。
傘を差し向けてくれるナフサートの屋敷の使用人に首を振って歩き出しながら、ぽつりと言葉がこぼれおちた。
見知らぬ誰かの隣で、その腕の中で、彼女は……笑っているのだろうか。
笑っていて欲しい。
笑って、幸せでいて欲しい。
そう思いながら辛くて涙が落ちた。
泣いたところでこの雨だ。誰も気づかない。
そう思えばその涙を放置できた。
――会って、謝って……本当は君が欲しい。
「オレ……最低だ」
幸せでいて欲しいと願いながら、今このときも一人で泣いていて欲しいと願ってる。
憎んでいてくれていい。むしろずっと憎んでいてくれればいい。
オレを忘れてしまわないで。
この手が届く、その日まで。