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思い出したことと忘れたいこと

――オネエサン。


ぱらぱらとめくられるページのように、幾つかの場面が脳裏を過ぎった。

激しい流れ、緩やかな会話。冷たい口調。

それらの全てを突然詰め込まれたような錯覚で、あたしは霞がかるような重たい頭をしてぼんやりと瞳を開けた。

――ああ、頭が痛くて、体も痛い。

自由にならないもどかしさで、ただぼんやりと瞼をあけたあたしはふと思考能力を停止させた。


「……」


なんだろうか、コレ。

面前にあるのは天井ではなくて、壁でもない。

身じろぎしようとすると、抑えられるように阻まれる。ゆるゆると鈍い思考回路がゆっくりと考えるという行動を示しだすのと同時、あたしはざっと血の気が引くのを感じた。

「ギ……っっっ」

ギッ、という音が奥歯の隙間からはみ出る。けれどその先は喉の奥が凍りついたように音を吐き出さなかった。


ただ口だけがぱくぱくと動く。瞳をめいっぱい見開き、自分の状況をやっと理解する。

男の腕の中だった。

しかも裸の!

温かな体温に抱き込まれて、二の腕を枕状態にして横たわっているのだ!

ありえないっ。


声は出なかった。血の気が引いた為なのか、それとも恐怖の為にか喉の奥がからからで音を発することが咄嗟にできない。あたしはじたばたと暴れてそこから抜け出そうとするのに、あたしを抱え込んだ二本の腕はぎゅむっと強く更に抱き込んでくる。

「まだ早いよ」

頭の上からとろりと甘い声が囁き、あたしはやっと声を吐き出した。

相手が誰だか理解するのは一拍だけおくれた。だが、こんなことをしでかすのは他にいない。

「このっ、変態!」

声は裏返ってしまった。

「ナニしてるのっ、どういう状況! どうなってるのっ、なんであんたは服を着てないのっ」

あふりと間抜けに欠伸を噛み殺す音が届く。あたしは相手の顔も見れずにじたばたと暴れていた。

「リトル・リィの寝顔を観察中。時々クーっていうの、スゴイ可愛い。状況? ここはぼくの寝台だね。君は気を失ったみたいだったから。服を着てないのはぼくの精一杯――せめて体温を近く感じたいじゃない」

意味判らないっ。

寝顔の観察? かん……

あまりのことにざぁっと自らの中で何かが引く。血の気だけではない。

「リトル・リィは服を着てるから問題ないでしょ。本当は脱がせたかったけど、脱がすならやっぱりおきている時がいいよね。ゆっくり一枚づつ脱がしていろいろ反応を楽しみたいでしょ。

まだ夜明けまで少しあるよ――暴れないでいい子で寝なさい」

「できるかっ」

「あばれるとね、ぼくもあばれたくなっちゃう」

は?

「結構自制心もってやってるつもりなんだけどね。大好きなリトル・リィが腕の中で暴れているわけでしょ? いろいろ当たるんだなー。そうすると、男としてちょっと困った事態に――」

だってほら、これで一応立派な成人男子なわけですしね?

 ぴたりとあたしは止まった。

固まったと表現してもいい。だらだらと嫌な感じの汗が背中を伝いそうだった。

おとなしくなったあたしを抱え込み、クスリとヤツは小さく笑った。

それが触れる場所から如実に振動して感じられて、あたしはくらくらした。

「どこが困るのか判る?」

「っっっ」

「ふふふ、イイコにしていてね。ぼくって紳士だけれど、リトル・リィに色々と、あんなことやこんなことをしたい気持ちはいつもアリマスよ? 舐めたりかじったり、あ、寝ている時はさすがにちゅーくらいしかしてないから安心してね? でも可愛らしくシテって言ってくれたら、このまま――」

 だめ、もう無理っ。

あたしは咄嗟に相手の顎にごんっと――それは容赦なく後頭部をぶち当てた。

さすがにこの攻撃は予想しなかったのだろう。ぐっと呻いて腕の力が抜ける。あたしは慌てて寝台から這い出て、這い出てっっ、この寝台莫迦みたいに広すぎるっ。

 やっと床に降り立つと、びしりと指を突きつけた。


「一生寝てなさい!」

「ううう、愛がいたい……」

ばかげたことを言いながら上半身を起こした変質者は前髪をかきあげた。

それが窓から差し込む月明かりに照らし出され、あたしは心の中でうっと呻いてしまった。

均整の整った体は生々しく眼前に晒された。さらりと流れる髪は今は首筋から少し長い程度。あの髪は自由自在か。

 柔らかな眼差しをこちらに流し、笑みを刻んでみせる。

「ねぇ、リトル・リィ」

思わず言葉を飲み込んでしまったあたしに切り込むように言った。


「思い出した?」


ずくりとそれは突きつけられた。

ぱらぱらと明滅した幾つかの景色。風景。情景。

広大で迷路のような庭。白い噴水。水の流れ、音。

そして……

「少し、だけ」

あたしは声が掠れるのを感じた。

喉がからからに渇いている。

面前の男はとろけそうな笑みであたしを見ていた。

とても、とてもうれしそうに。昨夜ちらりとみせた憂いなどもうその顔には見られない。


「あなたは――」

「うん?」

「あなた――」


あたしは何から告げようかと逡巡した。

おそらくあたしの記憶は一部だけ。ほんの一部だけ。幾つか覚えていない記憶が確かにある。

 冷たいイメージと温かなイメージとが交差している。

この男は冷たく、鋭利で、そして次の瞬間にはあたしへと今と同じように特別な視線を向けてくる。だから、きっとこの記憶はどこか断片的で、全てを覚えているとはきっといえない。

 もともと子供の記憶だから。

でもあたしは――この男を知らないとはもういえなかった。

あたしは間違いなくこの男と出会っていた。それだけはもう否定できない。

この男が言うリトル・リィはあたし。それは間違えなくあたし。

それを嬉しいと思う反面――

あたしは口元が戦慄くのを必死に宥め、ギっと睨みつけた。


「八歳児にキスしたでしょう!」

「――」

「しかもっ、しかもっ、し、舌入れたでしょう!

この変態っっっっ」


いやぁっ、変態です。

というか変態だとは知ってましたが。

それはもう駄目な感じの変態です。アレです。

もうどうしましょう。

あたしの記憶の中、鮮明に思いだしてしまった記憶の中で――それはそれはもういっそう色鮮やかに!

 この男ときたら八歳児を膝に抱き上げて!

しかも軽く触れるだけの口付けならば可愛げがあろうというのに、その口付けときたらっ。

いやぁっ、もしかしてコレってあたしの初キスですか?

マーヴェルとがはじめてだと思ってましたがっ、もしかしてっ、コレなんですか?

――この男はあたしの初キスの日付まで知ってるのですか!!!


「年齢なんて瑣末なことだよ?

だってぼくが好きなのはリトル・リィだもの。あの時のリトル・リィは本当に可愛かったよー。あ、もちろん今のリトル・リィも可愛いよ。小さなリスみたいで。それにあれだって随分と自制――」

黙りなさい!

あたしはギっとさらに力を込めた。眼力で殺せるものならやってやる。だが、それは穏やかで柔らかな眼差しに迎えられてしまう。


くぅぅぅっ。


「御邪魔さまでした!」

あたしは叩きつけるように言って身を翻した。

寝室の奥にある扉。

記憶が確かであればこの扉を開ければ――判っていたが、その扉を開けばそこはあたしのアパートの階段廊下。

 一瞬脱力しそうになったが、自分を奮い起こす。

ここは二階で、あたしの部屋は三階です。

「リドリー」

ぞくりと背筋をなぞる声。


寝台の上でくすくすと笑いながら、アレは小首を傾けた。

「おやすみ」

「……おやすみなさい」

あたしは扉を閉ざし、まさに逃げさるように自分の部屋へと入り込んだのだった。


それまでの豪奢な部屋とはまるきり違う質素な小さなアパートの一室。冷たい空気。粗末な寝台に置かれたクッションをがばりと抱いて、あたしは自分の寝台にべたりと倒れた。

心臓がばくばくいっていた。

コワレそうなほど。

自分の体温があがる。

――あの男の体温とか、匂いとか……自分の体にまとわり付く気がしてふるりと身を震わせる。そんなことでそれが払拭などされないことは承知していたけれど。

「……っっ」


――覚えてる。

思い出してしまった。

あたし……


呼吸が途切れるように不自然に口の隙間から零れていく。

断片的な記憶。

生垣の迷路。

白い円形の噴水に座る純白の衣装の艶やかな黒髪の人。

女性だと思ったのだ。とても綺麗な女性だと思った。

花嫁さんかとすら思ったのだ。

迷い込んでしまった公園の奥深い場所にいるその人に、小さなあたしはどきどきしながら声を掛けた。

「あのね!」

凄く嬉しかった。


迷子だったから。

広大な敷地内であたしは迷っていた。

「こんにちは!」

元気に言ったらその人は静かに微笑んだ。

口元だけを引き上げて。


「消えなさい。死にたくなければ」


……衝撃的な言葉だった。

まったく意味の判らぬ言葉を吐き出し口の端に笑みを刻むその姿に、八つの子供は驚愕した。


あれ、聖人君子はどこ?

あたしはきつく眉根をひそめた。

心のどこかで思っていた。疑いながらもそれでもちらりと考えていた。

――子供の頃の幼いあたしが好きだと思ったのはきっと素晴らしい人だった……んじゃないのか?

いくらその記憶を紐解いてもまさぐってみても、やっぱり初対面の時の記憶はこれだった。

冷たいイメージ。

笑みは湛えていたけれど、冷たくて拒絶的。


迷子の心細さで近づいた子供に対し、その相手は鋭利な刃物のように「死」という言葉を叩き付けたのだ。

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