デジャブとイタミ
しまった。
失敗した。
どうして戻って来る前に逃げ出してしまわなかったのか。
完全なる失態だ。
あたしは慌しく戻ってきたあげく、座っているあたしに突如として抱きついてきた変態、もとい――もうなんだか判らないアレを前に狼狽した。
すでにその地位は雲の上のはるか高みに押し上げられ、一般庶民の自分などが逆らえば簡単に処分でもされてしまいそうだ。いや、さすがに処分は無いけれど、石牢はどうも簡単に入れられてしまいそう。
だからといってぎゅうぎゅう抱きしめられたあげくに、首筋を吸われておとなしくしている乙女がいようか――イヤ、いまい。
だから咄嗟に殴ってしまったあたしは不可抗力。
「なっ、なんてことをっ」
魔術師の後について室内に入った騎士姿の人が咄嗟に声をあげるのに対し、慌てた様子でご領主さまが駆け出し、その肩を押し留めた。
「駄目です、駄目ですからね、エルディバルトさまっ」
「竜公になんたるっ」
その後に続くべき言葉を、必死にご領主さまが押し留める。
「駄目です!」
「いけませんわ、エルディバルト様」
アマリージェも言葉を添えるが、どこか面白がっているように見える。そう、これってアレだわ。
――先ほどアマリージェが話して聞かせてくれた【ご領主さま三日間石牢事件】に酷似している。
「うるさい」
ぎゅっと首筋にすがりついている魔術師が、ふいに低くうなり、振り返った。
「もう帰っていいよ? ぼくはこれからリトル・リィとあんなことやこんなことをするんだから」
「しないわよっ」
「えっ、しようよ!っていうか、どんなことするか想像したの? あれ、リトル・リィ、顔が赤いよ? ねぇ、なにを想像したのかな? 教えて?」
耳元で囁かれ、泣きたい気持ちで必死にアマリージェを見たのだが、彼女は困ったように微笑んだ。
「ね、リドリー?」
低く囁かれる言葉に限界を感じた。
名前を、呼ぶなぁっ。
「竜公! 王宮に行きましょう。医師をっ」
は?
慌てたように声をあげる騎士の言葉に、はたりとあたしは動きを止めた。
「……具合悪いの?」
「誰が?」
「――あなたが?」
「さぁ? 僕は絶好調だけど。三日三晩寝ないで励める自信もありますっ。あ、でも自信だけで実際どうだろう。そんなことしたことないし。
駄目だった場合はリトル・リィが――」
普通殴りますよね?
もう無礼とかそういう問題でなく殴っていいと思います。もういい。私は悟りました。無礼とか相手がどうとかではなく、このイキモノは有害です。
やられる前にやれ――先人はきっと良い言葉を残しました。
「無礼者っ! そこの女っ、竜公になんたる無礼をっ」
唾を跳ね飛ばす勢いで鬚の騎士が怒鳴り上げ、ご領主さまは真っ青に血の気を引かせ、アマリージェは口元を歪めて必死に笑いを堪えるように横を向いた。
「エル」
「竜公、ご無事かっ。お怪我は」
「判っていないね、エルディバルト。これは彼女の愛情表現なんだよ。おまえはもういいから下がりなさい。反省文はごめんなさいを五千個でいいから」
まてまてまて、何が愛情表現?
絶対に違います。
「とりあえず書く場所が欲しいなら地下に石牢があるから入っておく? 食事くらいはでるよ」
「……公?」
「いっておいで」
言葉と同時、信じられないことにご領主さまに腕を押さえられていた騎士の姿が――その場から綺麗に消え去った。
突然押さえていた存在を失ったご領主さまがバランスを崩してたたらを踏む。しんっとした静寂がその場に流れ、アマリージェが「ああ、お気の毒……」と小さく呟くまで、あたしの思考能力は動き出そうともしなかった。
「え、え、えええ?」
何か今、とてもサラっと流せないような事態がありましたよ。
何の脈略もなくその場から人が一人消えたというのに、アマリージェなどは吐息を落としただけだ。
「反省文が書けたら出してあげて」
「かしこまりました」
ご領主さまは一礼し、苦笑するようにあたしを見た。
「リドリーさま、愉しい歓談の時をありがとうございます。今宵はこれにて失礼させていただきますが、どうぞまたいつでも当家にいらして下さい」
えっと、えっとですね。
「ではお休みなさいリドリー、またパン屋に寄らせていただきますね」
ちょっと、
「マリーっ、あのっ」
「お休みマリー、ジェルド」
肩に、肩に背後霊が乗っています。
あたしはギギギっと顔をめぐらせ、ひきつきながらやっと口にした。
「じゃ、じゃああたしも帰ります、よ?」
「もう少しいいでしょう? 別に泊まっていってもいいよ? ぼくの寝台大人が五人くらい使っても平気な広さだし、多少暴れたところでびくともしないから」
「結構です! あのね、それにねっ、聞きいたいことがあるのっ」
あたしはぐいっと相手の体を押しながら訴えた。
「僕の応えられることであればどんなことでも」
「どうしてあたしなの!」
絶対におかしい。
ありえない。
「もしかして勘違いなんじゃない? 違うリィなんじゃないの? あなたが、尊き人で竜公なあなたが、なんであたし?」
――だったらヤだ。
だって好きなの。
好きなんだもの。勘違いで好意を向けたりしないで。あたしを捕らえないで。あたし、あたし――あたしは!
両の腕を精一杯伸ばして相手との距離を作りながら、あたしはやっぱり……最低だった。
結局あたしはいつだって自分のことしか考えてない。
逃げたい。
逃げ出してしまいたい。
……一年前に逃げたように。
ふっと、魔術師は腕の力を抜いた。
「好きだよ、リトル・リィ」
「っっ――っ」
「リドリー・ナフサート――ぼくが何者かなんて関係ないよ? 今、目の前にいるぼくを見て?」
一歩開いた距離、その距離を無理に詰めたりしないで淡い笑みを浮かべ、すっと手を伸ばしてあたしの手首を捉える。
一旦持ち上げた手のひらにそっと唇を押し当てて、そのまま魔術師はあたしの手のひらを自分の胸へと押し当てた。
とくとくと心音が、熱が指先に触れる。
あたしは戸惑いながら相手を見上げた。
その柔らかな眼差しを。
愛されていると――勘違いする程の眼差しを。
「君が、君だけが……ぼくに言ってくれた」
「何を?」
問いかけに、ふっと皮肉に息をつく。
「ぼくの魔法はね、先天性のものじゃない。無理矢理に継げられたものなんだ」
真摯な眼差しを注ぎ込まれ、ゆっくりとした口調で告げられる言葉。それはきっと、彼にとってとても――苦しい何かだった。
触れた胸から心音が伝わる。
とくとくと、とくとくと。
「ぼくの魔法はね――呪いなんだよ」
――呪いなんだ。
カチリと何かが動いた気がした。
どくりと心臓が音をさせる。
その心臓の鼓動が相手のものか、それとも自分のものであるのか。
あたしは息をつくのを忘れたように相手を見上げ、ふるりと首を振った。
つきつきと頭の内側が傷む。明滅を繰り返すように何かが頭をかすめては消えていく。
――病気じゃない。呪いだよ。
「オネエ、サン……」
「いや、だからぼく男だから」
思わず出てしまった言葉に面前の男は苦笑する。
この男は、確かあの時もそう言ったのだった。
あたしはすがるようにその胸に額を預け、痛む頭に意識を飛ばした。