粉屋の息子とあたしの攻防。
――リドリー、愛してるよ。
ふいに、そんな音が耳の中によみがえる。ぎくりと心臓がこわばった。
同時に深い藍色の瞳。優しい、優しい……冷たい。
「リドリー?」
「っ!――ごめんなさい、ぼぅっとしちゃって」
「疲れてるんじゃないのかい?」
マイラ小母さんの気遣わしげな声に笑い返し、あたしはぎゅっとゾーキンを絞った。
昼の一番忙しい時間が終わり、マイラ小母さんは新作のパンの構想を練る為に店の奥に入ってしまった。
あたしは店の番をしながら、焼きあがったパンの状態をみたり、これからどれくらい焼けばパンのロストを減らせるかと考える。
「パンが選べないってのはいやなもんさ」とマイラ小母さんは豪快に笑い、結局一通り焼いてしまうのだから、商売気というのがあまりない。
「どうせあたしみたいな年寄り一人、やっきになって働いても楽しいことなんてないのさ。だったら、近所に愛されるパン屋でいたほうが幸せだね」
――マイラ小母さんはとてもいい人だ。
からんっと、カウ・ベルが音をたてる。けれどこれは裏手にある銅のベルの音。店の入口のガラスベルとは違う音。
あたしはカウンターの縁に手をかけて体を逸らしてそちらの扉を見た。
こちらに向かって笑みを浮かべて手をあげているのは、粉屋のペギーさんの息子でトビーだ。今朝方のマイラ小母さんの言葉がちらりと浮かんで、あたしは苦笑した。
「今日の分、届けに来たよ」
と、トビーは言いながらついっと帽子をもちあげる。そうすると人懐っこい鳶色の瞳が見返してくる。頬にはソバカスが散っていて、トビーはどちらかといえば可愛い弟というイメージしか湧かない。
「ありがとう、トビー。いつもと同じ量?」
「うん。次の金曜日にはいつもの三倍届けるから」
収穫祭の為だ。
「トビーのところは収穫祭は何かするの?」
「うちはこれといってないよ。うちが忙しいのは、前日まで。あっちこっちの店に粉を届けないといけないからね」
「そう」
考えてみればペギーさんの店は粉を専門に扱っているけれど、それで製品をこしらえている訳ではない。
あたしが以前住んでいた場所では、粉屋がもっぱらパン屋も兼業していたものだけれど、このあたりでは違うようだ。
「それで……リドリーは」
何だかいいにくそうにトビーが視線を逸らした。あたしが思考を切り替えて視線を向けると、慌てた様子でその手が自分の服の袖を引っ張る。
「あの」
「なぁに?」
「収穫祭! 予定はどうなってるの?」
まるで叫ぶように言うから、おそらく奥にいるマイラ小母さんにまで聞こえたことだろう。ぷっと、小さく吹き出した音が聞こえた。
あたしは少しだけ赤くなって慌ててしまった。
「えっと、一応仕事が……」
「そう、ですか」
うわぁぁぁ、耳が、耳があるよ、この子。
あたしは幻の耳が垂れたのを感じたし、尻尾がくるりと巻かれるのも感じてしまった。奥のマイラ小母さんが何か言わないだろうな、と用心しながら「あ、お店のほうにお客さんかな? じゃあ、またねっ」と慌しく店舗のほうへと戻った。
彼の「しゅんっ」という気配そのままのカウベルの音がなんだか痛々しい。
「午後は暇だって教えてあげればよかったのに」
と、案の定マイラ小母さんが顔だけのぞかせて言ったけれど、あたしは「一人のほうが気楽ですもの」とそらっとぼけた。
意識したことは無いが、あんな風に言われれば嫌でも意識してしまう。
「そうだ、ターニャさんが来るってことは、アジス君も来るんですよね。アジス君がよければ、午後は付き合ってもらおうかな」
あたしが慌てるようにいえば、マイラ小母さんは溜息をついた。
「子供の御守のほうがいいなんて、まったく変わった子だね!」
うちとしては助かるけどさ。
マイラ小母さんの言葉にかさなるように、店舗のベルが来客をつげた。
「いらっしゃいませ!」