竜公爵とお伽噺
「何を呻いていらっしゃるの?」
あたしの低い声に、応えた声――あたしは前のめりになっている体を引き起こし、挨拶さえも口にせずに問いかけた。
丁度入り口である二枚扉から現れた少女へと。
「マリー! あの人が竜公なの!?」
咄嗟に出た言葉には配慮が足りない。
相手はお姫さまだというのに、敬語すら出ないほどあたしは動揺しまくっていた。
――魔法使いも尊い人も知らない。
けれど、竜公を知らない人間などこの大陸のどこにもいない。
「……あの方が自ら言うなんてことはありませんわね? エルディバルト様ですか……ああ、色々お気の毒ですわ」
そっと吐息を落とし、アマリージェは苦笑した。
座ってよろしい? とあたしに求め、あたしが返答するのをまって彼女はドレスをさばいて反対側のソファに腰をおろす。
ほんの少しだけ、彼女は面白がっているようにさえ見えた。
「竜公、って実在したの……?」
「まぁ、表に出ませんから。ただの牽制だとか御伽噺だとか色々言われてますけれど――いるみたいですわね」
「みたいって……」
「それだってあの方に言わせればただの名誉職で終わりますから」
第五の公爵位――竜公はむしろ御旗だけの存在だ。
王城に掲げられている六つの御旗。竜に盾と剣とをモチーフにした旗の前に立つ人物はいない。その代替わりなどは公式に発表されるが、その姿を現すことは無い。
王座の周りに控える四公爵と同様に席が設けられてはいるものの、そこに姿を現すものはない。
だからこそ、ただの儀礼だと一般人は思っているのだ。
存在しない架空の公爵位。
子供達の間では様々な物語として伝わっている。
姿無き竜公に守られる王家。姿が無いのは代々醜い獣の姿であるからだとか、そもそも不可視の精霊なのだとか物語だけが伝わっているのだ。
「どうかなさって?」
「あんまり雲の上の話しすぎて、できることなら気を失ってしまいたい、です」
というか幕引きはいつかとか、夢はいつ覚めてくれるのかとか、すでにそういう次元だ。
「わたくしなどは物心ついた時にはあの方がいましたから、あなたの感覚はちょっと判らないですけれど」
アマリージェは言いながらもう一つ溜息を吐き出す。
「わたくしにとっても確かにあの方は偉すぎて雲の上の存在ですけれど、困ったことに実在していますし……実害もあります」
実害があるんですか。
ってか、どんな実害?
「それに、竜公は代々尊き人の役職ですから。わたくしにとっては疑問など沸きようも無いのですけれど」
「――」
「竜守りであるから、竜公なのですわ。竜公だから竜守りではありませんのよ?」
その違いが理解できないです、お姫様。
あたしは小刻みに震える自分を宥めて、引きつる頬を何とか引き締めて、アマリージェを見た。
「どうしてあの人、あたしなんでしょうね?
あたしは……一般人ですが」
何ゆえあたしをスキだとか言うの!?
ただの遊びですかっ。
遊戯ですか。そういうのは一切辞めて頂きたい。
あたしの引きつった表情に、アマリージェは瞳をまたたき小首をかしげた。
「あなたが今何を考えているか、駄々漏れですわ」
このお姫様ときたら時々言葉がとってもフランク。
どうやら下町言葉を面白がって使っていらっしゃる。
「――」
「身分なんて言わないほうがよろしいですわよ? それこそ、あの方は身分などどうとでもしてしまいますもの。身分違いだと言った翌日にはあなたはわたくしより高みにいそうですわね? あら、それは愉しいかも」
なーにーを言ってらっしゃいますかお姫様っ。
「9年です」
くすりとアマリージェは笑った。
「あの方があなたを想い続けた年月は9年ですわ。その間も、それ以前も、あの方があなたいがいの何かに執着したことはないそうですよ。良かったですね」
「良いんですか!」
「――よろしいんじゃないですか? わたくしには手にできないものですもの」
静かな言葉とひたりと向けられた瞳。
あたしは息を飲み込んでお姫様を見つめた。
「欲しくてもわたくしには手にできないものですわ」
「マリー」
……アマリージェ様は、あの人が、好きなの?
あたしは心臓を摑まれたような衝撃を受けた。
確かにそうなのではないかと考えたこともあるけれど、それを突きつけられるとずきりと何かが痛む。
目の前の愛らしい姫君が、どう見てもあの男と似合いのこの姫君が――
「あ、もう要りませんけどね?」
真面目な顔を破顔させ、お姫様はころころと笑い出した。
ずきりと痛めた胸が、ぴしりと音をさせる。
「諦めるとかそういうものではありませんよ? なんと表現したらよろしいかしら。うんざり? もうむしろ好きだったという感情がすでに汚点です。忘れて下さい」
「……」
「口をひらけばあなたのことばかり。口を閉ざして座っていれば誰よりも美しく高貴だというのに、口を開けばだらだらとあなたのことばかり! 年を経るごとにその病は進行なさいますし、いきなり妙な格好はなさいますし、知ってます? うちの兄は一度石牢に三日程いれられたことがありますのよ。ああ、勿論知りませんわね。
理由は簡単ですのよ? 兄があなたを無礼だと言ったからです」
は?
「あの方、兄に飴を出してくださったそうなんですのよ。そうしましたら、兄が普通にお礼を言いました。あの方からの賜りものですから、礼節を守ってお礼を言いましたのよ?」
「はぁ」
「それに対してあの方、リトル・リィ……この名称は言ってはいけませんわね。リドリーは魔術師みたいだってもっと喜んでくれたのに、とおっしゃったのです」
「……はぁ」
「その言葉を聞いて、兄は血相を変えて言ったのです。尊き人になんて無礼な! 道化のように言うなどっ」
アマリージェは愉しそうにその時のことを再現して話したが、あたしと彼女の間を一瞬シンっと静寂が満ちた。
「兄は三日の間石牢で過ごしました」
ころころと笑うが、
「笑えません……マリー。嘘ですよね?」
「嘘を言ってどうします?」
あたしは「ははは」と乾いた笑みを落とした。
……ごめんなさい。ごめんなさい。ご領主さまっ。
頭を抱えてうずくまってしまう。
あの優しそうなご領主さまになんてことをっ。
「大丈夫ですよ。あなたが絡まなければあの方は聖人君子――自分の一言で他人の人生を狂わせてはいけないとただ悠然と微笑だけを浮かべて時に身を任せていらした。本来でしたらとても素晴らしい方なのですから」
ああ、あなたが絡むと他人の人生など欠片ほども気にしませんけどね。
付け足される言葉がずんっとのしかかる。
……粉屋のペギーさんは現在御引越しの準備中です。なんだか慌しく……はい。
大きな街に行くそうです。良かったですね。
アレ以来トビーと顔は合わせてません。トビー……もしかしたらもう町にいないのかもしれません。
「なんていうか、生きててすみません」
低い呻き声が漏れてしまいます。
「やぁ、愉しそうに何の話しをしているんですか?」
軽くノックをし、開きっぱなしの二枚扉から姿を見せたご領主さまの姿にあたしは慄き、
「もう本当にすみませんっ」
と、ひたすら頭を下げてしまい、ご領主さまに更に「どうしたんですか!辞めて下さいっっ」と悲鳴をあげさせてしまった。
「あら、あなたって歩く有害」
アマリージェは実に愉しそうに呟いたが、あたしはちっとも笑えません。
聖人君子なあの男など知らない。
それとも……出会った当初、あたしが「スキ」だと言ったあの男はそういう人だったのだろうか。
あたしはちょっとばかり想像してみた。
お嫁さんにして欲しいと言った相手はとても素晴らしい人。
でも再会を果たした相手はアレだった……
記憶、なくなって良かったかも。
あれ、でも今こうしてアレな感じのあの男を好きって――あたし、趣味悪い? あれ?
記憶があれば絶対にスキになったりしなかったかも?
でも記憶が無くてもスキで……
あああ、頭が煮えそう。
――竜公爵。
西方の守護者。醜い獣の姿を持ち人の前に現れない彼の人の物語は、数多伝えられている。
その物語はまさに統一性がなく、聖人君子とも、また……数多の命を喰らい、その引換えに王家に忠誠を誓っているとも言われる。
ただその全ての物語の中で、唯一統一されているのは――悪鬼にしろ聖人君子であろうとも、王家の守護であることに変わりは無い。
それは古から伝わり続ける御伽噺。
もっと早く竜公爵のお伽噺はどこかにいれたかったですが、あからさま過ぎていれられませんでしたーっっ。入れたらすぐにあのあんぽんたんだと判ってしまう。