甘い吐息と怨嗟の呟き
血の気が下がる。
背筋があわ立つ。
頭が沸騰する!
あたしの反応をどうとったのか、魔術師はクスクスと笑いながら彼の奥――すでにセッティングの済まされたテーブルを示した。
「用意ができたみたい。食事にしよう?」
な、な、何事も無かったように言わないでよ。
動揺しているあたしがおかしいの?
あたしはその同じ部屋で静かに控えている御仕着せの女性を見てしまった。
――彼女は変わらず一片の感情も示さずに静かに控えていて、あたしが一人でこんなに動揺しているのがまるで莫迦みたいで、さらに体温が上がってしまう。
まるで何かの病のよう。
不安を覚えるあたしに、魔術師は笑みを湛えながら椅子を引いて微笑んだ。
「どうぞ?」
あああ、なんだろうこの恥ずかしさは。
あたしは乱暴に席の前にまわり、座るのにあわせて魔術師が椅子を整えてくれる。
「食事を楽しんで」
耳元で囁き、身を引く男に――泣きたいほど心の奥が跳ね上がる。
……素直になれないのは、この男のせいで、あたしのせいじゃない。
でも、それって――卑怯な言い訳?
「どうかした?」
「――ご招待、ありがとう」
あたしが精一杯気持ちを落ち着かせて言えば、反対側の席に座った魔術師はいつもどおりの綺麗な笑みで、
「なんならここに住む?」
などと余計なことを言うから、あたしはいつも通り、
「それはナイ」
つっけんどんに返せた。
用意された食事は、考える程に豪華なものでは無かった。
――野菜と肉とをトマトベースのソースで煮込んだもの、パンは表面がかりかりとしているのに中はもっちりとしたタイプで、マイラおばさんの焼くパンとはまた違う。魚のマリネや香草を使った焼き物。カボチャのグラタンに、サラダに……
「好きだよね?」
「――まえも思ったのだけどね」
「うん?」
「……あたしの好きなもの、良くご存知よね?」
思わず語尾がへん。
以前、ここで飲んだ紅茶に焼き菓子。どちらもあたしの好きなものだった。これを偶然と捉えるのは、むしろどうかと思う。
魔術師は笑みを絶やさずに言葉を綴る。
「リトル・リィのことなら何でも知ってるよ」
どこまで知っているのか問い詰めたい。物凄く。
尋ねたいが、尋ねるのがちょっとコワイ気がします。
そのコワサときたら、なんというか、はじめてのキスの日付まで知られてそうで怖い。
そういうコワサだ。怖すぎる。
あたしは口元が引きつるのを必死に宥め、せっせと食事をすませた。
なんでしょう、この早食い競争のノリは?
あたしは現在好きな人と一緒に食事をしているはずだ、本来は。
なのに心は浮き立たず、できれば速攻で帰宅したいと望んでいる。
――好きじゃないんじゃないか、コレ?
勘違い?
絶対におかしい。
好きな相手といるというのにちっとも幸せな気持ちになれない。
好きって、どんな感情?
もっと幸せなものではなかったかしら? マーヴェルと一緒にいたあたしは……辛かったわ。幸せではなかった。マーヴェルがいつもティナを気にしているように感じて、それでもムリしてあたしに対してくれているように感じて、とても辛かった。はじめての口付けだって嬉しかったけれど、マーヴェルも微笑んでくれたけれど、でもなんだか後ろめたかった気もする。
ちらりと魔術師をうかがってしまう。
穏やかな調子で食事をしてて、いつものアレな感じが潜めていると身構えてるこちらが莫迦みたい。
すき?
好きって……どんな感情?
好きって気持ちは、幸せとはイコールではないのか?
スキって、辛いの? 幸せではないの?
理解ではるのは一つだけ。自分の胸の内がざわめいて、落ち着かなくて、苦しい。
ぐるぐると考えながら食事に専念するあたしの耳に、クスクスと笑みが届く。
ハッとして顔をあげれば、魔術師が――幸せそうにこちらを見ていた。
「美味しい?」
「……うん」
いや、実は味はそんなに判りません。
けれどそう言わせる何かがこの男にはあるのだった。
広い食堂にはあたしとアレと給仕の女性が一人。それ以外には人の気配が無くて、なんだか不思議な空間。
「おなか一杯になった?」
気づけば目の前に置かれているのはデザート。
こくこくとうなずく。
魔術師は食事の最中であるというのにおもむろに席を立ち、あたしの前へと来ると手を差し伸べた。
「デザートはあっちで食べようか」
示されたのは同じ室内にあるソファとテーブル。
あたしが返事をするより先に、魔術師はあたしの手を掬い取って導いた。
「夜の庭を眺めるのも悪くないよ」
……なんということでしょう。まともに見えます。
まるで普通の――ちょっと色気過多の、穏やかな青年に見える。
あたしの目に特殊な網膜でも張られているのだろうか?
あたし騙されてない?
結婚詐欺とか。
「どうかした?」
「……あたしのどこが好きなの?」
あたしは操られるようにその手に自分の手をのせ、立ち上がり窓辺へと向かいながら問いかけた。
かつりと音をさせて魔術師の足が止まる。
穏やかで優しいばかりの雰囲気は、あたしにとって馴染みのものではなくて戸惑うばかりだった。
……強引さは完全にナリを潜めていて、まるきり別人のようで不安さえ覚えてしまう。
魔術師はあたしを引き寄せて微笑んだ。
大事な宝物でも包むように閉じ込めて、耳元に唇を寄せてくる。
「知りたい?」
「……知りたい」
甘い、甘い何かを耳に注ぎ込まれるように甘い。
とろりとした粘着質な声音。ぞくぞくと背筋に何かが這い登り、自分の中で離れたほうがいいと警鐘が響くけれど、このまま全て身を委ねてしまいたい気持ちがあたしの行動を制御する。
――腰を抱く手が、背中をなぞる。
骨に沿うように、まるで形を確かめるように。
背骨をなぞり、肩甲骨を掠める。
耳たぶに触れる吐息が、吐息でなくなり熱へと変わる。
ほんの少し口に含まれて自分の中で甘いなにかに変化した時――ふいに魔術師の体重が重く自分の肩に掛かった。
「……っの、やろう」
は?
甘さの欠片もない呟きは怨嗟といっても過言ではない。
今、野郎とか言いました? その口からそんな単語が出たりしました?
それまでの雰囲気を木端微塵に砕くその忌々しい呟きと体内の何かを吐き出すように深く長く息をつく魔術師。唖然とするあたしが口を開こうとしたその時、乱暴な足音が廊下を響き、部屋の二枚扉が押し広げられるように無遠慮に開いた。
「竜公! 竜珠が落ちたぞっ、どうなっているのか! 御身は!?」
「……」
突然現れたのは魔術師よりも幾分年上と思われる男性だった。
大仰なマントをした姿。腰には重そうな剣を携えた目つきの鋭い鼻の下に鬚を蓄えた男。
あたしは魔術師の腕の中で固まり、魔術師はあたしを強く抱きながら冷ややかに相手をねめつけた。
「――今、ものすっごい殺意を覚えてますが」
「……スミマセン」
「戻ったら反省文でも書かせますよ、本気で」
「いや、そんなことより」
相手の男は怯んだ様子を見せたが、すぐにふるりと一度首を振った。
「竜珠が」
「判ってます。あなたに判ることが私に判らないとでも?」
深くため息を吐き出し、魔術師は腕の中で硬直しているあたしを見下ろし、緊張を解くようにあたしの瞼に口付けた。
「戻ったら続きをしましょうね」
いや、いやいやいや?
「マリーをよこします。くつろいでいて。
ちょっと出かけてきますから――」
「あ、あたし……かえ、る」
「居なかったら自宅に行っていい?
それよりはここで待っててくれたほうが嬉しいな。
マリーだって喜ぶよ」
いや、あのですね?
耳たぶに唇が触れてますからね、辞めて欲しいです。
あたしを腕から解放した魔術師は不機嫌そうに足音をたてて出入り口へと向かいながら入ってきた男を呼びつけた。
「あなたも来なさい――」
「私もですか?」
「当然です」
冷ややかに言う魔術師の口調は――神官長の声音になっていた。
ばたばたと慌しく人が去る。あたしは呆気に取られてそれを見送り、どうして良いものかと部屋を見回して、
――部屋の隅で控えている女性と目があった。
物言わぬ冷たい美貌。
あたしは先ほどの魔術師とのあれこれを完璧見られていたことを思い出してかぁっと体温があがるのに、相手は何事も無かったかのように淡々と言った。
「デザートをどうぞ」
……恥ずかしいと思う自分が恥ずかしい?
魔術師の唇が触れていた耳が絶対に真っ赤になっていて、それが余計に恥ずかしくて、あたしはそこをつかむように隠しながら示されたソファに乱雑に座ってしまった。
それからふいに先ほどの男性が叫んだ単語が耳の中によみがえった。
――リュウコウ・リュウシュ……
リュウシュが落ちた、というならそれはモノっぽい。
リュウコウ……こっちは、
「竜……公?」
その意味を拾い上げた時、あたしは前のめりに倒れそうになった。
――聖都の守護、第五の公爵位。見えない盾……姿無い騎士。
「嘘だ……――嘘だと言って!」
あたしの血の気が一気に引いた。
へんなひとがへんじゃないとなんかへん……