過ちと悪魔の囁き(マーヴェル)
物心ついた頃には知っていた。
――リドリー・ナフサート。
それが自分の妻となることを。
ナフサートの家は貿易を生業としていたし、自分の家は船長の家だった。だから、いってみればそれだけの関係だ。
つながりは元々深く、更に深くするための結婚は必定だった。
リドリーはその家の中でも萎縮して見えた。
母親には溺愛されていたものの、父親からは少し距離があった。
家人は病気の妹のほうにかかりきり、リドリー自身、ティナを気にして自分を抑えているようにみえた。
ティナは甘えん坊で、可愛くて、誰からも愛されていた。
「ティナはマーヴェルの御嫁さんになる」
数日寝込んでいたティナがそんなことを言う。
「オレはリドリーと結婚するんだよ」
小さく笑って言えば、ティナが泣き出した。
仕方ないから「判ったよ。ティナが元気になったらね」と軽く言う。
――ティナは体が弱いから、きっと長く生きれない。
誰もがうすうすそう感じていた。
そのティナが十を越えれば、誰もが喜んだ。その頃には病気がちだった体も元気になって、快活な彼女は可愛くてやっぱり誰からも好かれていた。
きっと焦ったのはオレだけだ。
「マーヴェル大好き」
そう言うティナにどう返事をして良いのか判らない。
けれどティナだって判っている。オレの結婚相手はティナではなくて、リドリーだということを。
「リドリー」
――愛してる。
言葉はまるで砂や水のように流れて、落ちた。
届かない。その言葉はまるで彼女には届かない。
幾度告げようと、彼女の心に触れることはできない。
まるで、リドリーの心はここにないように。
やっと彼女にキスをした時、オレがどれだけ有頂天になったかなんて誰もしらないだろう。
ティナがいなければいいのに。
そう思うことが罪だろうか?
ティナの後ろで控えめに笑う彼女を愛してる――いつかこの手でもっと自由に快活に笑わせて、守っていきたい。そう思うことは罪ではないはず。
もどかしくて、抱きしめたくて、でも彼女との間には見えない溝があった。
それでも口付けに応えてくれた彼女は控えめに頬を染めて、拒絶しなかった。
それを思い返せば、その先を求めたくなるのが男ってものだろう?
『水車小屋で待ってます』
無記名のカード、けれどオレの心は喜びに震えた。
他の誰とも思わなかった。
彼女自身、オレを欲しいと想ってくれている。
ティナとは……――思わなかった。
彼女がオレを好きだと知っていたというのに。
「どうして?」
「一度でいいの。マーヴェルがリドリーと結婚するのは判ってる。親同士の決めた許婚同士だもの。仕方ないと思ってる」
仕方ないって何だ?
親が決めたことだとしても、それでも――自分がリドリーと結婚することを望んでいる。
「莫迦なことはよせよ」
半裸の姿で瞳を潤ませるティナは怒ったようにいう。
「莫迦なこと? マーヴェルは意気地が無いだけよ」
「ティナっ」
「もしあたしがここで悲鳴をあげて飛び出したらどうなると思う? リドリーは許すかもしれないわ。でも父は許すかしら? いいえ、もしかして結婚相手を思いなおしてくれるかもしれないわ。あたしとあなたが一緒になるのが一番いいのだって」
「ティナっ」
「でも、ここであたしを抱いてくれるなら……諦めてもいい」
そんなことできる訳がない。
そう思うのに、その時……悪魔が囁いたのだ。
耳元で、いや、脳に直接。
――そうすればいい。それが正しいのだと。
そうすれば幸せが手にはいるのだと。
抱いてしまえば諦めてくれる!
耳に心地よいテノール。小さな笑みすら添えたその言葉は、全てを覆した。
「あたしのこと……愛してる?」
ぎこちない笑みで、愛しい娘から愛しているかと問われた時。
――いつだってティナの笑みがちらついた。
あの小さな口が、いつか全てを話してしまうのではないかという恐怖と絶望が、抱きしめる手にふるえをよぶ。
オレは間違ったのだ。
――悪魔の囁きなど振り払い、あの場所から立ち去り、リドリーに幾度でも愛を囁けばよかった。
それでもまだやり直せる。
結婚してしまえば――四六時中抱きしめて、君を誰よりも幸せに……