動揺と冷静の狭間
「リドリー」
少年の甲高い声が響くと同時、あたしはほっと大きく息をついた。
まるで時と思考回路が停止していたような違和感がゆっくりと解かれる。
そう、それまでまるで閉鎖的な空間に放り出されていたような心もとない気持ちが払拭される。
体全体のこわばりが、ゆるりと溶かれて――やけに緊張していたのだとあらためて感じた。
あたしは多少たじろぎながら問題の男から一歩距離をとり、戻ってきたアジス君に心から感謝する。
――なんか凄くいたたまれなかったよ、アジス君。
まるで自分が悪鬼夜盗の類かっていうくらい、すごーく!
「コーディロイ! これ、焼きたてのパンです」
「おいしそうですね。頃合も良いですし、いただいて宜しいですか?」
「勿論っ」
物凄い、アジス君が普通の子供のよう。
若干十一歳。むしろその精神年齢がもっと幼いくらいにも感じる。彼の心は今何よりも純真無垢だ。
なんだか大人ぶった彼はいない。
頬が蒸気して赤くなっているのがある意味微笑ましい――えっと、何故右側から微笑み光線がくるのでしょうか。
――いや、うん……判ってますよ。
無下にはできない。なんというか和解? したみたいだし?
自分でもなんだか不可思議なのだが、謝っちゃったし謝られてしまったし、なんだか私が悪いみたいだし?
引きつった笑みが張り付いてしまいます。
「こっちのパンはオレが作ったんです」
嬉しそうにバスケットを開いてパンを説明するアジス君。
「リィー」
ふいに呼ばれた。
「リドリー」
名を、呼ばれた。
あたしは瞳を瞬いてしまう。普段であればリトル・リィと呼ぶ男が、あたしを呼んだ。
うっ、なにこの恥ずかしい感じ。
……誰か助けて。
きっと今のあたしは絶対脳内に大事件がおきてます。
「あなたが焼いたパンは無いのですか?」
やんわりと問われ、ちらりとアジス君を見る。
そもそも彼がチョイスしたのだから、あたしは彼が持ち込んだバスケットの中身を知らない。
「こっちのがリドリーが焼いたやつだよ」
「では、こちらのパンとこちらのパンをいただきますね」
まるでこれで平等だといわんばかりの様子で、アジス君が作ったパンとあたしが作ったパンとをつついて見せる。さすが神官と褒めたほうが良いか。ここだけみれば彼は素晴らしく気配りの人のように見える。
あたしは自分の胸元に手をあてて息をつきながら、その二人の様子を眺めていた。
――そのパンにはあたしの気持ちがたっぷり入ってますよ。
ええ、貴方に対してのあれやこれや。
そんなことを思い出せば、あたしはやっと酸素を得た魚のように大きく息を吸い込み、落ち着いた。
よし、大丈夫だ。
うん――うん、何が大丈夫だかもあやしかったりするけれど、うん、大丈夫。
流されてはいけません!
謝って謝られて、よし! 立場は同等、イーブン。
よし、オーケイ。
がんばれあたし。後ろを見てはいけません。前を見るのです。
もうひたすら自分を鼓舞するあたしだった。
「ああ、人が増えて来ましたね」
そんな私とは裏腹に、ほのぼのと会話を交わす二人だったが、ふいに魔術師は辺りを見回した。
言われてみれば庭に一般観光客らしき人たちが増え始める。
これはチャンスと切り替え、あたしは笑みを浮かべて元気に言った。
「じゃ、アジス君。あたし達――」
もう行こうか。
という言葉を、やんわりと魔術師が遮る。
「私の館に行きますか? 飲み物を用意して差し上げましょうね――ゆっくり座ってパンをいただきましょう?」
アジス君にそんなこと言ったら貴方、
「はい!」
――それ以外の回答などでないではありませんか。
「え、あの……アジス君。パレードは? 終わっちゃうんじゃない? 祭りは?」
あたしはアジス君の袖を引いた。
今日は収穫のお祭り。
子供はお祭りが好きなものと相場は決まっている。甘いお菓子にスパイシーな焼き物。大道芸人に着飾った踊り子。
あたしの訴えに、アジス君が「この後は女神の祝福くらいだよ。女神よりコーディロイのほうが絶対にご利益あるって」
どんなご利益ですかー!
「なんたってコーディロイは竜守りなんだぞ、リドリー。
それがどんだけ凄いことか、きっとリドリーは知らないんだな」
まるで残念な人を見るように言われてしまい、あたしは落胆した。
――竜守りとやらが何たるかは確かに知らないが、その男がちょっとアレな感じであることは承知している。
先ほどはなんだか雰囲気にのまれて物凄い罪悪感に呑まれてしまったが。
思い出せ、リドリー。
笑って流せないコトだってある。
百歩譲って知り合いからはじめるのはいいだろう。千歩譲って古い知己であることも認めよう。謝って謝られたのだから、シェイクハンドを交わす用意があたしにはある。
だが――決してヤツとあたしは恋人でも婚約者でもありません。
よし、よく言った!
そうよリドリー。そこまで流されるのはいけない。
冷静さをよく取り戻したわ。おめでとう。
あたしは自らの脳内会議で満場一致で拍手を受けた。
清々しいほどだ。
「リドリー、私のお茶は飲めませんか?」
まるで傷ついたように切ない瞳を向けられ、
そしてその右隣では――あたしがさも酷い人間であるかのように責める眼差しで見ている若干十一歳。
「……いただきます」
脳内会議のメンバーが諦めたように溜息をつき、とんとんっとテーブルに書類をまとめあげ、会議の終了が告げられた。