郷愁と思慕
――つらいのかい?
そろりと、繊細な部分に触れるように問いかけられる言葉に心臓が鷲掴みにされる程の衝撃を覚えた。
穏やかな眼差しと、柔らかな声音。
ふらりと心が惑わされてしまいそうなソレを、発しているのは間違えようもなく眼前の存在であった。
分厚い氷の中、封じ込められた。
三百年の昔、この国を破滅へと導こうとした竜が――眠り続けていた筈の竜が、その眼を向けて問いかける。
まるで、神そのもののように慈愛に満ちた声で。
――泣くでないよ、愛しい子。
くらりと心の深い場所から揺さぶられるような温かな波動に、勢いをつけて一歩退いた。
自然と身が震える。
恐怖よりももっと深い、もっと根底の何か。
「竜よ――眠っておいで。誰もお前を求めていないのだから」
――嘘はおよし。
お前の心が揺れねば、私は起きぬよ。お前が望めば、私はここを出てやろう。そうして、そうしてきっと愛しい子。お前の望みをかなえてあげるのに。
くつくつと笑うその言葉に、とっさに反論するかのように言葉を繰ろうとしたが、言葉は一旦喉の奥で凍り付く。つらくはない、望みならば――もうすでに下地はできている。今頃は新しい竜公の選定に入っている筈だ。
あの隔離された神殿奥で、ただ生贄として育て上げられた子供達の中から。過去の自分がそうであったように。毎日毎日竜へと祈りを捧げながら、ただただ魂を捧げるための存在。
そのすべてはこの竜の為に。
かぁっと体温があがったのは、憤りであろうか。
それとも羞恥か――
「眠れ、眠るがいい」
体内に巡る魔力を言葉に込めて突き付ければ、竜は穏やかに微笑み眼差しを伏せた。
――眠るさ……ここには、もう……ユ……リアは、いない。
その囁きに、遠い遠い自分が体感したのとは別の、過去の記憶が揺さぶられる。
女神が女神と言われる由縁となった事柄に、胸が痛む。激しいほどの愛しさと衝動が体を突き動かし、とっさに手を差し伸べてしまいそうになる。
その想いに気持ちがずるりとひきずられそうになる。
深く、激しい情愛。
自分には決してないはずのその感情に。
あえぐように息を繰り返し、すべてをふりきるようにゆるゆると首をふる。
「眠っておいで――もう、お前が求める者は、いないのだから」
しぼりだした言葉は、竜へと向けた言葉か。
それとも、自らに向けたものなのか判らなかった。
胸がぎゅっと締め付けられる。
今までの竜公はなぜこの竜に引きずられることは無かったのだろう。なぜこの役割を黙して続けられたのか。
こんなにも、こんなにも……竜は哀しい生き物であると知っているのに。
国は、民は竜を眠らせよという。
災いの種を決して目覚めさせてはいけないと。
だが、竜公は――代々の竜公は願うのだ。
竜の、安らぎを。
彼のまどろむその夢が、決して乱されたりせぬようにと。
「公っ。公っ」
静寂をつんざくような声に、ふっと過去から現実へと引き戻される。
耳なじんだ男の声に、もう一度目を閉ざした竜を見つめた。
願わくば……次の竜公が、あなたが求めるものであるといい。
***
よろりと体が一歩退いた。
きしっと乾いた板の音がして、体がわずかに震えていることに気付いた。
自然と自分の体を抱きしめたのは、不安の表れだろう。
「ティナ……」
問いかければ、落ちくぼんだ眼差しが――顔ごと向けられる。まるで人形のようだ。遠い昔、子供の頃に聖都で見た操り人形。あれは胸躍らせたものであったけれど、当然これはそれとはまったく真逆に心臓をぎゅっと締め付ける。
ぎこちない動きのティナは、それでも嬉しそうに口元を緩めた。
「リドリー、何をする?」
「……お腹は、すかない?」
何故、そう問いかけたのか。
震える声で問えば、ティナはかくんと首をかしげた。
「すこ、し」
「そう。じゃあ――何か食べよう。その前に、お風呂に入ろう。きれいにして、着替えて」
怒るとか。
謝るとか。そんな次元の話ではなくて、もうどうしようもなくいやだった。
このカビなのか汚物なのか判らない匂いが充満した部屋も、淀んだ空気も。
走って逃げたいけど、もうそれは決してできない。
こくりと喉を鳴らすと、ぐっと背後から手をつかまれた。
慌てて振り返れば、やけに真顔のアマリージェが「空気の入れ替え、いたしますわね」と口にした。
いつの間に来ていたのか、アジス君がこくりとうなずく。そうしてあたしに言った。
「この部屋は俺がやるから、姫さんとリドリーは風呂やってやれよ。あ、リドリー、下におりたら兄ちゃん呼んで」
兄ちゃんというのはマーヴェルのことだろう。
ぎこちなくうなずき、ゆっくりとティナに近づく。骨と皮だけになったような姿のティナは、棒切れのような手を伸ばすけれど立てないのか、困惑する。
「あれ、どうしたのかな」
かすれる声で戸惑いを口にする。アマリージェが「呼んできます」と駆け出していった。
駆け抜ける感情を、どう表現したら良いだろう。
憎んだし、嫌ったし。
悲しかったし、つらかった。
様々な感情が駆け巡るのに、今は喉の奥からぐっと何かがせりあがって、泣き出してしまいそう。
どうして、こんなことになっているのだろう。
こんなこと……誰も望んでなんていないよ。
浮かぶのは、幼い頃。
――こっそりとティナの部屋に来れば、ぱっと笑顔を浮かべて「リドリー」と両手を伸ばすティナ。
ねぇ、いつからだろう。
あたしと、あなたは……いつから、すれ違ってしまったのだろう。
「リドリー、泣いてる?」
オロオロと骨と皮だけのティナが不安そうに言うから、あたしは慌てて「泣いてないよ。お風呂入って、ご飯食べようね」とぺったりと張りのない、ティナのくすんだような髪をなでた。
すると、今度はティナが驚いたように目を見張る。
「リドリー?」
「なぁに」
「迎えに来たの?」
迎えには来ていない。
謝りに来たのだ。何も言わずにすべてを投げ出して逃げ出してしまったことを。ティナと、マーヴェルと向き合うこともなく投げ出してしまったことを。
言葉を飲み込んだあたしに、ティナは唇をゆがませる。
「いいよ、一緒にいく。
もうずっと、離れない……」
ティナは嬉しそうに口元を綻ばせた。
「一緒に、天国にでも、地獄にでも行こう」
「行かないよっ」
ってか、死んでませんからっ。
あたしの焦りを、ティナはきょとんっと見返した。
あー、びっくりした。驚いた!
あたしはティナの細くなってしまった両手首をつかんで、その顔を覗き込んで、ゆっくりと噛んで含めるように口にした。天国はともかく地獄って、ナニ。
「あたしは、死んでませんからっ」
「……どうして?」
「どうって、どうしてあたしが死なないといけないのっ」
「だって、リドリー……あたしの前で、死んだじゃない?」
不思議そうな問いかけに、あたしはひくつきながらもう一度口にした。
「生きていますが?」
最近ちょっとこの台詞言い過ぎな気がする。
「……死んだのよ?」
なんだろうね、この押し問答。
頭痛を覚えて額に手を当てたところで、背後からマーヴェルの近づく気配を感じた。おそらく、ティナの視界にもマーヴェルが入り込んだのだろう、ティナはその顔をゆがませた。
「マー……」
「リドリー、下に風呂を用意させるように頼んで来た。今アジス君と下女だか女中だかが用意している。で、俺に何を――」
「マーヴェルなんて嫌いっ」
突然、ティナは金切り声をあげた。
悲鳴のような声に、あたしの耳がキーンと痛みすら覚える。驚くあたしにお構いなしで、ティナはどこからそんな力が出るのかといいたいくらい強い力であたしの腕を引いた。
「マーヴェルがいたからっ、マーヴェルがあたしからリドリーをとったから! だからリドリーは死んだのよっ。
返してよ、かえしてっ。あたしの姉さんをっ。あたしのっ、あたしの姉さんなんだからっ」
……だから、もう一度確認しますが、あたし死んでないし――
何より、その言い分は……どうなのよ。
まるで、ティナとあたしが仲良し姉妹のようだけれど。
仲良しでなかったとは言わないけれど、なんでしょうね、この蟠る感じは。
「いやだ、嫌いっ。嫌いっ、だれも、彼も、嫌いっ。大嫌いっ。どうして? どうして昔と同じじゃないのっ。あたしは寝たきりで良かった。他の世界なんて、知らなくてよかった。ずっと二人だけで良かったのにっ。
リドリーのバカっ。リドリーなんて大嫌いっ」
悲鳴をあげたティナは、ぱったりとそのまま気を失って――その場に残されたあたしと、マーヴェルと、そしてアマリージェは困惑の眼差しで視線を絡ませた。
「だから、あたし、生きているってば」
ぼそりとあたしは呟いて、そっとティナを汚れた寝台に横たえようとしたけれど、そこがあまりに汚くて、マーヴェルに視線を向けた。
「マーヴェル、ティナを運んでくれる?
お風呂は無理でも、体はふいてあげたいし――寝かせるなら、せめてあたしの部屋にしてあげたい」
果たしてあたしの部屋が機能しているかは判らないが、すくなくともこの部屋よりはマシだろう。マシであってほしい。
複雑な気持ちのまま口にして、あたしはそっと吐息を落とした。
――リドリー、リドリー。
昔、寝台の中で両手を伸ばしてあたしを呼んでいた妹。
その寝台から彼女を解き放ったのは、あたし。
魔法使いからもらった不思議な飴を与えて、かわいそうな一つ違いの妹を外の世界に引き出したのはあたし。
ティナとあたしは、いったいいつどこで間違ってしまったんだろう。
――寝たきりで良かった。他の世界なんて、知らなくてよかった。
……ティナは、本気でそう思っていたのだろうか。
自分の問いかけに、すぐにふるりと首をふった。
でもきっと違う。
ティナってね、結局そういう子なのだ。
その時その時でころころと意見を変えてしまう。今マーヴェルを嫌いといったところで、明日好きだと笑い、今日あたしを好きだといったところで、明日はつんっと横を向く。
でも、あたしは知っている。
つんっと横を向いて、それからそっとこちらをうかがうのだ。
嫌いとつきつけた相手がどんな表情をするのか見ている。
その時、あたしが泣いていれば、慌てて抱き着いてきて「冗談じゃないのっ」と怒り出す。無視をすれば意固地になって、そっぽをむけば逆切れする。
だから今彼女が叫ぶ言葉をすべて鵜呑みにして考え込むのはばかげている。
マーヴェルが嫌いというのも。
あたしが好きだというのも。
天気予報とたいした違いはないのだ。
マーヴェルに抱き上げられて行くティナを見送るあたしの腕に、そっとアマリージェが腕を絡めた。
「大丈夫ですか?」
「……なんか、考えがまとまらない」
ティナの本心は、本当にどこにあるのだろう。
嫌いだと、憎しみに近いものを向けながらも――あたしと一緒に地獄にまで行こうというのか。
その心境が複雑すぎてあたしには計り知れない。
長いこと姉と妹として生きていたのに。近すぎていっそ解らない。
「どうなさるおつもりです?」
「え?」
斜め下からかかる声に、あたしはアマリージェを見返した。いつだって冷静な年下の友人は、真摯な眼差しであたしを見上げてくる。
「彼女との話し合いがすめば、リドリーは戻るおつもりでしたでしょう?」
「そりゃ、まぁ」
「このまま、残して行けますか?」
その問いかけに、あたしは詰まってしまった。
確かに、あたしはティナと対面して――色々な事柄を清算して終わりのつもりだった。自分が投げ出してしまったものを、きちんと受け止めて終わらせる。それだけのつもりで、ティナとはきっとここで――ぎこちないながら姉妹に戻って、また笑うことはできなくとも、今度はきちんと別れられると思っていた。
先ほどのティナの目が忘れられない。
切実で、せっぱつまっていて、おそろしく強い目。
天国でも地獄でも、もう離れないと告げた言葉。
果たして、目を覚ましたティナは――いや、今のティナをほうって行くことが自分にできるか?
ぐぐぐっと眉間に皺がより、正直な気持ちがぽろりと落ちた。
「どうしましょう?」
「……――ここにお医者様がいらっしゃいますか? その方にお任せできます?」
「薬剤師のお婆ちゃんがいますけど、心の病については、正直どうでしょう」
心の病と口にして、ああそうだと納得する。
心の病。そう、それはこういうことなのだ。言葉で耳にするのと現実に対面するのとでは大きく違う。ティナは確かに心を病んでいて、あんなに憔悴している。
あたしが彼女を放置してしまったことで、ティナは心を病んでしまったのか。そうして居なくなったあたしを死んだと認識したのか。
胸に痛みを覚えた時に、ふとあたしは動き出そうとした足をびたりと留めた。




