臆病者と涙
「だれね、あんた」
訛りのきつい女中の第一声に、思わずぐっと言葉を詰まらせた。久しぶりに自分の産まれた生家へと戻ってきたというのに、その様子はなんだか随分とかわってしまっていた。
庭の手入れは明らかに行き届かずといった様子で、そして壁には枯れた蔦が縦横無尽に伸びている。
庭師のおじさんはどうしたのだろうかと思ったが、それより衝撃的であったのは玄関をあけて顔を出した女中だった。
あたしが家出をした後に雇い入れた様子の娘は、無遠慮にあたしの頭からつま先までを確認するようにじろじろと眺め回し――胡散臭そうに眉を潜めた。
相手の言葉に、マーヴェルが「リドリー・ナフサート。この屋敷の長女だ。聞いてないのか?」とむっとしたように言えば、女中はぎょっとした様子で目を見開き、思ったことをそのまま口にしたというように「幽霊!」と叫んだ。
……幽霊。
いや、死んでいません。すみません。
というか、本当に死んでいると思われていたんですね。
嫌われることには慣れているが、まさか死んでることになっているとは。ドーザやマーヴェルに先に言われていたことといえど確かに突きつけられると結構きつい。
今まで色々な悪口を向けられていましたが、オバケはなかった。
斬新ですね。
引きつった顔になったあたしの横で、マーヴェルではなくアマリージェが憤慨の声をあげた。
「リドリーは死んでなんておりませんわ。ちゃんと足もあります」
――フォローをありがとうございます。
でも、ちゃんと足はあるってちょっと微妙ですよね。
「いや、いや。あんたさんが本当にリドリー嬢さんかどうか判らないじゃないですか」
女中はハッと自分の失言に気づいた様子で口元を手でおおい、それでも混乱したように言う。
その表情は引きつり、ぶるぶると身を震わせた。その眼差しが戦々恐々といったようすであたしの足を確認していますが、ありますよ、足。
「だって、ティナ嬢さんがあんたさんは死んだってっ」
足をきっちり確認してほっとしたのか、女中は強気に言う。
「いいから。さっさと屋敷にいれてくれ。
本物かどうかなんて――そもそもこの家には他に使用人がいないのか」
「通いの人ならいるしがっ、泊まりのモンはあたし一人しかおらねしっ」
まるて怒っているような言葉の応酬。
その言葉の中には、人手不足の苦労が思わせた。少なくともあたしが居た時には住み込みの使用人が三人はいた筈だ。そもそも、アネットはどうしたのだろうか。ティナの世話をずっとしていた女中は。
ティナを親鳥がひな鳥でも護るように大事にしていたアネットが居ないというのはどういうことだ。
それに庭師のおじさんは通いではあったけれど、今はその存在も感じられない。
いったい何がどうしてこうなったのだろうかと眉を潜めてしまった。
――確かにランド商会との縁故は失われてしまったかもしれないが、もともと父はソコソコ手広く商いをやっていて、こんな風に一年足らずでがたりと没落することは想像ができない。
それとも、あたしが想像するよりずっと裏事情は芳しくなかったのだろうか。
あたしの家出が、結婚の破談がトドメをさしてしまった?
そうちらりと浮かんで、胸がちくりと痛んだ。
「とにかく。あたしはリドリー・ナフサートです。
妹のティナに会いに来たの――会わせてちょうだい」
胸の痛みを押しやって力を込めてきっぱりと言いつつも――
実はなかなかこの家に足を運ぶのには時間がかかった。実際、郷里であるこの地についたのは港を出て三日日。その昼ごろであったのにも関わらず、現在は夕刻も間近という有様だ。
あたしの気持ちを考えてか、ルティアもマーヴェルも急かすようなことは言わないでいてくれたが、痺れを切らしたのはアジス君だった。
「リドリー、覚悟決めろって。いつまでたっても帰れないだろ」
たんたんっといらだたしげに地面を右足の先ではたき、腕を組んで睨みつけてくる男前。アマリージェが窘めたが、アジス君は容赦ない。
「そういうけどよ、姫さん。ぐだぐだしていたらいつまでたっても問題は解決しないだろ。リドリーは結局、あのふわふわ髪のねぇちゃんに会って文句だか謝罪だかしたいっていう話だろ? オレだってあのねぇちゃんに好き好んで会いたいなんて思わないくらいだから、リドリーの気持ちはもっとだろうさ。でも、今日行かなければ明日だって行けない。さっさと帰ってコーディロイの頭ぶんなぐって来ようぜ」
はい、その通りですね。
……アジス君がアレの頭を殴ってこようなんて、なんということでしょう。どうした少年。昔は確かに尊敬していたではありませんか。緊張に頬を染めてかちんこちんで敬礼までしちゃいそうだった君はいったいいずこに?
誰ですか、その純粋な気持ちを踏みつけにしたのは。
なんて――ああ、当人ですよね。間違いなく。大丈夫安心してください。あの人間性を前にしてへこたれないのは忠実なる犬と書いて忠犬エルディバルトさんくらいのものだろう。
そのエルディバルトさんだって時々遠い目をしている。
しかし、そんな辛らつなアジス君に対してマーヴェルは賛同するでなく、むしろあたしの擁護に回った。
「リドリーにだって心の準備が必要だ。
じっくり時間をかけて覚悟を決めたほうがいい」
その言葉には重みと優しさがあった。
――ティナの心が壊れている。
そう言われた言葉が耳に蘇り、マーヴェルはそれに対面するあたしのことを心配しているのだろう。それを思い出せば、心はまたしても躊躇した。行きたくない。前に進まなければと思うのに、基本姿勢は相変わらずの後ろ向き。ぐだぐだです。
ぐっと喉の奥で何かが詰まる。
マーヴェルの眼差しは優しくあたしを見下ろし、極自然にあたしの腰のあたりに手をまわし寄り添おうとするのだが、アマリージェがとんっとあたしとマーヴェルの間にぶつかるようにしてあたしの右腕に抱きついた。
「リドリー、ここまで来たのですもの。
そんなに思い悩まないで下さいませ。自分のタイミングでよろしいのですよ」
にっこりとアマリージェは微笑んで、にこにことあたしを見上げている――天使のかんばせがどこか怖い。
あたしはちらりとアジス君を見て、マーヴェルを見た。
……アジス君は大仰に肩をすくめ、普段から優しいマーヴェルは平坦な眼差しでアマリージェを見ている。
――うすうす気づいておりましたが、アマリージェが無邪気を装ってマーヴェルがあたしに触れるのを邪魔している。間違いない。
いや、いいのです。
触れられたい訳ではありません。
ちょっと縋りたいというか、頼りたいような気持ちを抱いたりしてしまいましたけれど、それは駄目だと判っている。友人としてなどと言っているけど、マーヴェルはちょっとなんだかべたべたしすぎているし。
だからといって「友達よね?」と再度確認したら、更に墓穴を掘る気がしている。
……あたし、言いましたよね。
他の人が好きだって。
マーヴェルはそれを理解してくれて――友達としてと助力を申し出てくれたけれど、こうなんとも落ち着かないというか、居心地が悪い。
こういう時なんて問えば良いのか。
自分の恋愛経験値がド底辺で、何をどうすれば良いのか判らない。
ただ優しいだけだと笑いかえして友人として触れ合いたいのに、相手がもともと優しい人だけに線引きがわからない。
友達としてと助力を申し出てくれたマーヴェルに対して、あまり変な色眼鏡で見るのも失礼だともんもんとしてしまっている。事なかれ主義の平和主義、争いごとはもともと嫌いで――あたしのこの優柔不断さが嫌われる要員の一つであろうと、あたしはすでに気づいている。
ふふふふ。
大嫌い選手権、未だに参加者がぼろぼろといそうで自分の性格が憎い。
あたしだってこんなうじうじとした自分が大嫌いですよ。本当にね。
アジス君がこの微妙な関係を眇めた目で眺め回し、ぼそりと……おそらくあたしにだけ聞こえるように小さく呟いた。
「めんどくせぇ」
……うん。子供にも判る面倒くささで御免なさい。
この面倒くさい空気を打開すべく、あたしはとどまりたいのを叱咤し、一歩を踏み出す決意をしたのだ。もたもたしてはいられない。成すべき事を成して、自分の直面している事柄に専念したい。自己中と嗤わば笑え。
ユーリのゆるゆるとした顔がみたい――会いたい。あたしの変態っ。
つまるところ、このマーヴェルとの面倒くさい空気を棚上げにしたとも言うのだけれど。一歩進んで二歩下がっているような気がしないでもないけれど、ソコの辺りは今は勘弁して欲しい。あたしはいくつもの問題をあっという間に解決できるような処理能力は持ち合わせていない。
そんなこんなで、果てしなくぐだぐだとどうにか重い足を丘の上にある馴染み深い屋敷へと向けたのだが。
「お嬢さんは誰にも会わんし」
と、新人女中は冷たくばっさり切りつけてきた。
久しぶりの自宅だが、自宅に入れず。
どうしたものかと思っていると、背後に立つマーヴェルが冷ややかな口調で言った。
「親父さんはいないのか?」
「旦那さまはずっと商談で――もう半年近くももどってきやしなんし」
「オレはマーヴェル・ランザート。海運会社であるランド商会の人間で、親父さんの仕事関係にも精通していて、リドリー・ナフサートの婚約者」
語尾にざっと周りの視線が集まった。
それに気まずさを覚えるようにマーヴェルが「だった」と訂正する。
「親父さんから聞いてないか?」
「あんたさんのことは……でも、あんたさんはティナ嬢さんの婚約者だって」
「そんな話は一切無いっ」
マーヴェルは畳み掛けるように言い切ったが、やっぱりなと内心うなずいた。
――自分がいなくなれば必然的にそういう話になっていると思っていたのだ。
女中に噛み付くように否定しているが、別にそんなに慌てなくてもいいのに。それに、その言葉は逆に自分の心を少しだけ軽くした。
そういう立場にいるのであれば、マーヴェルの優しさもきっと「友達」という範疇で間違いはない。マーヴェルはなんといっても家の事情でもって結婚を決める青年なのだから。親同士の決め事に対して言葉では否定しても最終的にやっぱりティナと一緒になるのだろう。
認めてしまえば、きっと楽になれるのに。
あたしの手前意地になっているに違いない。
どう言えば前向きになってくれるだろうか。
ほぼ後ろ向きなあたしの言葉では説得力が壊滅的に足りないか。
「とにかくっ。中に入る――ティナと会わせてくれ」
マーヴェルは女中とのやりとりの挙句半ば強引に言い切ると、あたしの手をぐいっと引いて扉をくぐらせ、そのまま廊下へと押し込んだ。
そこはなつかしい自宅。
という様相ではまったくなかった。なんとなくさびれたような、不思議な他人行儀さ。床に敷かれたカーペットも、壁も、何もかもがどこか陰気さをかもしてさえ見える。
鼻につく匂いもわずかにかび臭い。
……突然この場に連れてこられて「はい、ここがあなたの家よ」といわれても、納得できないような有様だ。
確かに自分の足で歩いてここに来たのだから、間違えようもないが。まるきりよそよそしくて、居心地が悪い。
まぁ、もともとそう居心地の良い家では無かった訳だけれど。
困るだの何だのと未だ言っている女中を尻目に、あたしは一歩入り込むと――なんともいえないせかせられるような気持ちに陥り、一息に廊下を駆けた。
「ちょっ、何するんっ」
階段をかけて、二階。
中央の分岐から右奥があたしの部屋で、本来であれば母さんの部屋もある右翼。そして左がティナと父さんの左翼。
どうして部屋が離れているのかと子供の頃に不満を言えば、ティナは病がちでうるさくしてはいけないのだからと窘められた。
母はあたしがティナを気にかけることを嫌っていた。
だから、こっそりと良く通ったものだ。
一番奥――日当たりが悪いのも病の為か。全体的に薄暗い廊下。
突き当たりの扉に手をかけて、ぎょっとした。
「鍵……」
外側から掛けられた鍵。
まるで部屋の主を閉じ込めているかのような――いや、まるでではなく、真実閉じ込めているのだ。
一瞬ユーリの屋敷の地下牢が浮かんだが、それよりもずっと酷い。だってあの牢には実質鍵など無い。清潔で、そしてほのかにあたたかかったのはユーリの心遣い。
まぁ、だからといってそこに入れられた御領主様やエルディバルトさんには同情するけれど。
それでもここよりはぜんぜんマシであったはずだ。
すぅっと深呼吸すると、なんとも鼻につく――清潔さとはかけはなれた匂いに腹部がはねた。
カッと怒りのようなものが体温をあげていく。乱暴に蝶番につけられた単純な鍵をはずしてもどかしげに扉を開くと、薄暗がりの奥に、何かが動いた。
こちらの物音と開かれた扉にびくんと身をはねさせ、そして確かめるようにこちらを振り向く。
びくりと身をちぢ込めて、あたしはぐっと吐き気をやり過ごした。
薄汚れた寝台の上で、ティナが人形を抱いてそこにいた。子供程の大きさのくったりとした人形は、病気がちであったティナの横によく寝かされていた人形で、もうずいぶんとぼろぼろに擦り切れている。
ティナ――あたしの知る彼女は、きらきらとお日様に輝く髪をふわふわと揺らして、大きめの瞳を悪戯に輝かせ、少し強気で、時々甘えるように小首をかしげていた筈なのに。そんな面影など少しも感じられないやつれたその姿に、自然と首を振ってその姿を否定した。
「ティ……」
「リドリー」
ティナはあたしをじっと見返して、笑った。
おちくぼんだ眼差しで、病に臥せっていた時よりもずっと不健康に見えるのに、それが極普通の日常の一コマだとでもいうように、彼女は嬉しそうに口にしたのだ。
「リドリー、リドリー、今日は何をして遊ぶ?」
――これが、あたしが身勝手に家出した結果だと。
心が壊れているというドーザとマーヴェルの言葉をあたしは軽く受け止めすぎていたのだろうか。
体から血の気が音をさせるように引いていく。
立ちくらみのように意識にもやがかかり、ぎゅっと目をつむったというのに――その現実は逃れることもできずに冷ややかにあたしに突きつけられた。
***
氷室の静けさは耳に痛みすら与える。
けれどその静けさは、心を落ち着けさせるのには最良のものだ。
誰の邪魔も入らず、誰の思惑も存在しない。
氷付けにされ眠らせられた竜は、変わらずそこに眠り続ける。
「――」
何も考えることはない。
何も憂いはない。
自らの内に芽生えた凶悪な獣の存在も、竜公爵としての責務を手放してしまえば必然的に滅びさる。
このまま在位すれば、必要以上の殺戮に手を染めてしまいそうで許しがたい。
あとはこのまま――新しい候補者の選定が終わり、迎えがくるまでこのまま竜と共に居れば良いのだ。
そう思うのに。
ここに居れば恐ろしいことは何もないと判っているというのに。
「……なぜ」
つっと頬を伝わる涙を感じて途方にくれた。
何故――命に縋っている筈はない。
何故なら、竜公として名を受けたその時から自らは死んだものと思っていたのだから、今更自らの命を惜しんで辛さを覚えよう筈はない。
不思議な気持ちで頬に触れれば、氷室の冷たさに涙はすぐに氷つき、触れれば雲母のようにぱりんと割れる。
その不思議な感覚に眉間に皺を寄せれば、面前の竜が――氷の向こうからじっと見つめ返していた。