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腹黒と腹黒

心臓がぎゅっと押しつぶされるように痛みを覚え、音という音がどこか遠い場所で――薄い膜の張った世界から隔たれたかのように聞こえていた。

 泣きたいのか、笑いたいのか、叫びたいのか判らない。

世界で一番孤立したような、誰もいないような不安。


ああ、どうか――どうか、どうか。

こんなことは嘘だと言って欲しい。

何もかもが間違い、目覚めれば小鳥の声と眩しい程の朝日に瞼をちかちかとさせて、いつもと変わらない毎日がはじまるのだと。


けれど足を踏みしめて、腹部に力を込めて、そうしてよりよい明日の為に人は自ら心を鼓舞して何かをしなければいけないのだ。


***


その顔を見たとき、ぱっとルティアの中で何かがはじけた。

養父から告げられた言葉に居てもたってもいられないような気持ちで自宅をとび出て、その足で不遜ながらも王宮へと駆けつけた。

 自分に何ができるのか、自分に何ができないかは承知している。

陛下への謁見をしようと思えばできる――何故なら自分は神殿官長ユリクスの養い子にして先代竜公の孫娘であり、陛下といえばユリクスと同じように自らを庇護しようと声をあけてくれた人物、その人であったからだ。ただし、それは純然たる優しさや何かでは決してないと承知はしている。何より、心の深い部分で畏怖が上回り、今までも幾度か優しい言葉をかけられていてもその眼差しを正面から受け止めるだけの勇気は持てなかった。

 それでも、そうしなければならないというのであれば助力を請い願う。心を叱咤して。

 強い決意にぶるりと身が震える。自分に許されている距離を間違えれば、あっけないほど瞬く間に全てを失ってしまうだろう。相手は誰よりも優しい祖父のような顔をしているくせに、その実自らの決断のもとにあっさりと相手の喉下を引き裂くことができる純白の獣。決して侮ることなどできぬ聖獣。

だが、だからといって何もせずには居られない。

何故なら――ことはルティアにとって看過できるものではないのだから。


 過去、遠い昔には魔法使いは幾人もいたのだという。

だが現在それはただ一人だけに許される。

代替わりをするということは、一人の魔法使いが新たにうまれ、そして一人の魔法使いが死ぬということだ。

 新たな竜公がたつおりに、自らの祖父が死んだように。

それはどこまでも作為的に。

 

「よぉ、嫁じゃないか」

 緊張で身の内が張り裂けてしまいそうな心を抱えているときに突然声を掛けられ、ルティアはぴたりと足を止めた。

王宮内の回廊という場で、上から落ちた言葉。通常であれば自分に向けられたものだとは思いもしない音だ。だが、その声音には覚えがあった。

 朗々とよく通る太い声は、遠くにいる者に命令を下すことになれた力強さを知らしめる。

絶対なる自信に満ちた声音。

「なぜ、こちらに?」

 王宮で滅多に遭遇することのない相手は、珍しく礼装なんぞに身をつつんでニヤリと口元を緩めた。

 純白の近衛服。襟元を軽く緩めて多少は崩しているが、その姿は本来の彼のものではない。

「仕事だよ、仕事。それより、どうした? いつもなら耳が痛くなるような甲高い声で厭味ったらしくオニイサマと呼んでくれる嫁が、珍しく眉間に皺なんぞ寄せて、随分と勇ましい――それにその格好。随分まっとうじゃないか」

 言いながら、吹き抜けの階上にいた人物は手すりに身を乗り出すようにし、何の躊躇もなく勢いをつけて落下した。

すたんっとルティアの眼前に着地し、ふぅっと息をついてみせる。

 貴族でそんな乱暴なことをする人間は滅多に居ない。王宮内でそんな暴挙に出る人間は他にはありえない。

何より、普通の貴族であれば面前の精悍な男のような日焼けなどしていないだろう。わずかに潮の香りをさせ、体を動かすたびに二の腕の筋肉が盛り上がり、逞しさを見せ付ける。何よりここは王宮内でも更に最奥へと通じる場。腰から剣を吊り下げることが許されるのはほんの一握り。

相手の腰には陛下より下されて一振りの細剣が無造作に揺れている。


「とうとう愚弟と別れたか? 

なんなら俺の嫁にしてやろうか?

まぁ、港々に女がいることには目ぇつむってもらわなくちゃならないけどな」

 いつも通りの冗談を口にして、自分で快活に笑ってみせる。

エルディバルトのすぐ上の兄にして王弟子息――エイバーフィス。その姿を間近で見つめ、ルティアはしばらくの間表情を無にしたが、やがてぎこちない微笑を浮かべた。先ほどまで崖の淵にいたような自分が、崖から数歩離れられたような気持ちになったのだ。

 それまで一つしか自分の中に道は無かったというのに、いまひとつの道を見出すことができた。

 彼は、王弟の次男にして東の竜公を名乗る海賊。

ルティアの面前に、まさに舞い降りた救いの手。とくとくと心音が高鳴る。彼はルティアが知る限り誰よりも力有す海の王。だがこのタイミングでこの人物を捕まえることができようとは、よもや考えてもいなかった。

 

 ただし、相手はエルディバルトとはまたまったく違う人物。遣り方を間違えれば、踏みにじられる。

ルティアはぐっと腹に力を込めて、嫣然と微笑んで見せた。

「エイバーフィス様。あなたが心より望まれますなら、本当にあなたの嫁になってもかまいません」

「は?」

 しかし、ルティアの提案にエイバーフィスは先ほどの自分の言葉など無かったかのように、片眉を跳ね上げた。

「その代わり、お腹の子の父親になっていただかなければなりませんし――もう一つ条件がございますけれど」

 ルティアはひたりと相手の眼差しを見つめ返した。

相手が不可解な表情をしていようと、ルティアは真剣であった。


「あなた様ご自慢の最速の船で、どうぞ私の大事な友人を探して来て下さいませ。行く先はわかっております。だいたいの行程も。リドリー・ナフサート――私の友人にして、竜公の愛しい方を。可及的すみやかに、いますぐ連れて来て下さいますのなら、嫁にでも妾にでも侍女にでも。あなたの望む者になってさしあげますわ」

 きっぱりと言い切るルティアを前に、エイバーフィスはエルディバルトと似通った眼差しを見開き、やがて「ああ」と返答した。


「ああ、リドリー・ナフサートっていうのはそういうお嬢さんかい」

「エイバーフィス様?」

「いや、んー……悪いな。

そもそも俺がここにいるのは、つまるところ――そのお嬢さんを連れて来いと命令されていた訳だが」

「連れて来てくださっているのですか?」

 相手の口からリドリー・ナフサートの名前を出され、ルティアが頬を上気させて詰め寄る勢いで言えば、エイバーフィスは一歩下がってルティアを抑えるように両手を前に突き出した。どうどうっとまるで牛でも抑えるかのように。


「いやいや、連れて来ようとはしたんたが、その娘さんにきっぱりと陛下には後で挨拶に行くからとお断りされてしまってな。あんまり堂々と言うもんで、そのまま置いてきちまったんだが、まずかったか?」

「……」

「いやだが、陛下が竜公の嫁に会いたいって? むしろ連れ帰らない方がほめられないか? 海原に沈めろとか。あの人はいったい何を考えて竜公の嫁なんぞに会いたいとか言い出したんだ? 血なまぐさい話じゃないよな?

まぁ、命令では召集だけだったしなー。殺せとは言われて無いし」

 愛しい人とは言ったが未だ嫁とは言っていない。

そんな訂正はエイバーフィスには無意味だろう。

ぶつぶつと独り言を呟くエバーフィスの前で、ルティアは額に手を当てた。

 陛下がリドリーを呼び戻そうとしたのは、ただたんにリドリーに会いたかったのか、それとも昨今の竜公の行動に何か思うところがあった為かはわからないが、リドリーにとってさほど心配するようなことでは無いだろう。ルティアは相手が一度心に定めたことを簡単に覆す相手ではないことを承知している。竜公の嫁として認めたからには、もうその命を脅かすようなことを考えることはないだろう。

 養父であるユリクスですら「女神のご在所で誓って頂いた。彼女を殺せとはよもや言うまい」とはっきりと言っていたのだから、それは除外していいだろう。

 陛下はこの国にあって神と祭られる竜を信仰してはいないが、竜を封印したという女神だけは心酔している。そのナトゥに誓ったという言葉は重い。

ただそれだけに、随分と頑固であるともいえるのだが。

「って、ああそうか。

なんとなく理解した」

 エイバーフィスは変わらずぶつぶつとひとりごちつつ困惑した様子で自らの前髪をかきあげたが、やがて一つ息をつくとふいに笑みを浮かべて見せた。


 すっと改めて向けられた眼差しは意味ありげにルティアを覗き込む。

「まぁ、色々と面倒くさそうだが。大事なことは忘れないうちに言っておく」

「何です?」

改めて緊張を覚えつつ促せば、エイバーフィスは口元に笑みを浮かべた。

「おめでとう。元気な子供を産んでくれ――なんだよ、愚弟に色々と先を越されたぞ。腹立たしいが、まぁしゃあないか。とりあえずめでたい。

それともうひとつ。良かったな。嫁の口から友なんて言葉、揶揄や皮肉いがいで聞いたことがないぞ」

 クツクツと笑う相手に、ルティアは何故か張り詰めていたものがあふれるように喉を詰まらせた。あまりにも自分に緊張を強いてばかりいたが、エイバーフィスに対して警戒しすぎていただろうか。何といっても、あのエルディバルトの兄なのだ。根本的な部分で甘さのある男であってもおかしくはない。

 張り詰めていた緊張が解かれ、ルティアは自分の気持ちが緩むのを感じた。

 何かをしなければいけないと大慌てで来てしまったが、あまりにも漠然としすぎて何をするべきなのかはっきりとした形がつくられていた訳では無い。冷静であろうとつとめながら、その実少しも冷静になりきれていない。

 そんな中でエイバーフィスと――最速の船を持つ海の守護者と会えたのはなんという幸運か。

 その気持ちがじわじわと自らの身にしみて、何故か下半身から力が抜けそうになる。

それでも、ルティアは必死に自らの足に力を込めた。


「リドリーのことは……親友だと、勝手に思っていますわ。

母のような気持ちにもなりますし、時には姉のような気持ちにもなりますけれど。どのような関係を望むかといわれれば、あの子の友でありたいと」

 エイバーフィスはニッと口元を緩めると、軽く身をかがめてルティアの頬に自らの頬を軽く寄せた。

ルティアの耳元に直にささやきかけるように。


「竜公は竜峰に篭ったとさっき報告を受けた。

代替わりを望んでいるそうだ。つまり、それを止められるとしたらリドリー・ナフサートだけだと嫁は思っているんだな?」

「判りません。無駄なのかもしれません。でも、できることはすべてしなければ。何より、こんなこと……あの方は未だ代替わりする程の非道に落ちてはいませんわ。何より、こんなことリドリーがどれだけ悲しむことか」

 どこか安堵する気持ちでせつせつと言うルティアであったが、ふいにエイバーフィスは一歩ルティアから身を引いて、口元に皮肉気な笑みを浮かべてゆっくりと口を開いた。 


「俺は、お前さんは竜公が生きようが死のうが気にしないもんだと思っていた」


 それまでどこか笑いを含んでいたエイバーフィスが、一転真剣な眼差しをひたりと見つめてくる。

その眼差しにさらされ、ルティアは居心地の悪さを感じてぎゅっと自分の両の手を握り締めた。

 エイバーフィスの持つ雰囲気ががらりと変わってしまったのだ。緩んだ緊張が一気に張り詰め、体温がさっと下がっていく。

陽気な海の男の姿を失せさせ、それはぞくりとする程の畏怖を撒き散らす。

 自然と身に力が入り、それによって体が震える。それをなんとか表に出さぬようにと勤めて、ルティアは喉を上下させてゆっくりと唇を開いた。


「長い付き合いですもの。

それに、公は……私の祖父とは違います」

――今、自分はためされている。

そう強く感じていた。

まるで前にも後ろにも、ほんのつま先程の足場しか残っていないかのように不安が襲う。竜公と違う――まったく違うものである筈だというのに、ソレに近しい何かが眼前に鎌首をもたげて舌舐めづりをしているかのよう。

東海の竜公。

面前に立つのは、間違いなく竜公を語る者。

偽者であって偽者ではない者。


「同じものになっちまっても?」

「なりませんわ」

「なっちまったら、結局殺されるんだぜ? 今か、後かの違いじゃないのか?」

 エイバーフィスの言葉は淡々と続く。

情も感慨もない、ただ事実として。冷ややかな笑みと共に。

少なくとも現在の主はすでに三人の竜公の主であった。それはそういう意味なのだ。二人の竜公を殺した。そして今、三人目は自らその命を返上しようとしている。

「自分の死くらい、選ぶ自由があってもいいんじゃないのかい?

オレとしては、死にたいっていう人間を無理に引き止めるのは野暮ってもんだと思うぜ? そもそも、あの人は今まで望みらしい望みなんてもっちゃいなかった。ただ生きていただけだ。ただ生きているのをやめて、ただ死ぬことにしただけだ。何をそんなに慌てる必要がある?」

「あの方は、あなたにとっても大事な方なのではありませんかっ」

 咄嗟に出た言葉であったが、それがまったく意味のないものであることだとルティアは自嘲した。エルディバルトの兄であったとしても、エイバーフィスはエルディバルトと同じ者では無い。竜公を名乗りながら竜公ではないのと同じように。


「代替わりするんだ。あの人であろうと誰であろうと変わらない。この国は未だに竜公を手放せない。何故なら竜がいるからだ。あの存在を押さえ込まないことにはこの国は立ち行かない。あの竜の魔力をこの国の護りとして発散しなければ、あいつはあっという間に目覚めてこの国に仇を成す。当代が死のうが、何もかわりゃしない。今日が明日になるのを問題にするのもばかげている」


「――手を貸してくださる気持ちはありませんのね?」

 緊張をはらむ台詞を無視し、エイバーフィスはとつとつと続けた。

「せっかくできた友達の為かい? 竜公の愛しい方? それは本当にそんなものなのかい? あの人が誰かを愛するなんて、それこそオレには信じられん。そもそも、そのナフサート嬢が勝手に惚れたとか? それなら判るんだ。竜公ときたら女子供が好きそうな見てくれをしているからな。で、その娘さんの為に竜公に生きていて欲しいのか? やっとできた友達の為?」

 エイバーフィスは先ほどまでは確かに優しさと親愛の情をもってルティアを見つめていたというのに、それすら嘘であったかのようにその心に刃をちらつかせる。

感情すら見せずに、ルティアの心の内の深い部分を探るだけのていで。

 ルティアは身を堅く縮め、唇を震わせ、そっと首を振った。


「なんて麗しいことだろうな?

友情というヤツか? それとも、竜公に対して情愛を感じて? 美しいじゃないか。嫁」

 言葉を操れば操る程、エイバーフィスの眼差しは冷たさを増していく。

ルティアはぐっと腹部に力を込めた。


「……何を言わせたいのですか?」

「言いたいことがあるのは嫁だろう?」

 小首をかしげて促され、ルティアはぷつりと自分の中で何かが切れた音を聞いた。

それは自らの腹に淀んだ何か。

張り詰めていた一本の糸。


 乾いた笑いがこぼれて、我慢ができなくて、ゆっくりと唇が開いた。

嗚咽とともに。


「何を言えばいいと?

誰かの為なんて嘘だといえば、良いのですか?

竜公の代替わりを阻止したいのは、私の身勝手からだといえば満足ですか?

ええ、そう。その通りです。

私よりも、子供よりも、竜公と共に死を選ぼうとするあの人を許すことなんてできないっ。身勝手に竜公と沿うことなど、絶対に許さない。

だから竜公が死ぬことも許さない」

 ルティアが引き絞るように告げた言葉に、エイバーフィスは離れた一歩をつめてルティアを引き寄せる。

 逞しい胸元に顔を押し当てられ、苦痛を漏らすようにルティアはゆるゆると首を振った。

眦に涙が溢れて頬を伝い落ちていく。エイバーフィスの白い上着に涙が染み込んでいく。


「そうよ。そんなお綺麗な感情ではないわ。それを許せないとあなたが思うのは無理もないことでしょう。でも、でも、公が死ぬことも、リドリーが悲しむことがイヤなのも……決して、嘘ではないのです」


 ただそれが全てではないだけ。

腹部にぐるぐるととぐろを巻くのは、純粋な善意では決してない。

良かれと思ってするのではなくて、ただ欲望のままに求めるのだ。

リドリーが居たら何かがかわるのか。

いいや、判らない。リドリーがいたからといって、今現在記憶を失っている竜公にどれ程の意味があるだろう。リドリーなどただの一市民の一人として、ただ庇護する民としてしか意味をなさないかもしれない。

 それでも、それでも一筋の光のようにすがるのだ。

今この場にいて欲しい。

誰の為でない、自分の為に。


不安で押しつぶされてしまいそうな自分の為に。

自分を忘れ去った竜公を前に――リドリーは絶望するかもしれないというのに。醜い己を吐き出し、ぐっと奥歯をかみ締めたルティアに、まるで幼子をあやすかのような声が掛けられた。


「よしよし、いーこだ。

ちゃんと言えるじゃないか。

他の誰かの為じゃない。嫁の為に――相手が泣こうがわめこうが、今度こそきっちりあの女を連れてきてやるよ」

 ルティアの引き絞るように吐き出されたどす黒い思いとは裏腹に、エイバーフィスは晴れやかに笑ってみせる。お前は汚い女だと嗤われると覚悟したルティアは唖然とした。エイバーフィスにそれみたことかと嘲笑われるのであろうと思っていたというのに、エイバーフィスは先ほどまで突きつけていた恐ろしい雰囲気を霧散させて笑う。


「ああ、でもなー、嫁。

オレはこれでも恋愛結婚を目指してるんでな。オレを微塵も愛していない嫁を嫁にするのはやめておく。その代わり、今回の依頼の報酬としてうちの愚弟を張り飛ばしてやってくれ」

 エイバーフィスはニッと口元を歪めて笑うと、ルティアのおでこより上にまるで実の兄がそうするように口付けを落とし、ぐるりと身を翻した。


「相手の行き先は判ってる。すぐに戻るから、嫁は赤ん坊の為にこんなところに居ないで自宅に戻って居ろよ。体を安静にして、あったかくして竜公やら愚弟のことなんぞで気をもむな。

それからな、泣きたい時はちゃんと泣け。言いたいことは溜め込まないで吐き出せ。

そんな切羽詰った顔してうろうろするなよ、嫁のほうこそ今にも死にそうじゃないか」

 ひらひらと手を振りながら遠ざかる背を見送り、ルティアはぐっと唇を引き締めた。

憤りのようなものが胸を過ぎる。

何故このようなことをするのだと怒りが浮かび、エイバーフィスの遠ざかる背を睨みつけながら、やがて吐息が落ちた。


――張り詰めていた何かが破壊され、自分の頬をなでる風の存在にふと気づく。そう、風。

回廊のどこかから流れる風にはじめて気づいた。

ふわふわと乱れた髪が頬をくすぐり、ゆっくりと瞼を伏せた。

 頬を流れた涙が乾き、引き連れるような感触を指先で拭う。

泣いたのは、いつぶりであろう。このところ苛立ちや憤りばかりが胸にくすぶり続けてはいたが、それは涙を誘うものではなかった。

 涙には浄化作用でもあるというのか、自分の内の熱がさらさらと流れていくようだ。


「ルティ、駄目なかぁさまですわねぇ」


 体の力がすぅっと抜けて、意図せずに普段通りの間の抜けた声音が落ちた。

どうにかしなければ、何かをしなければと焦りすぎて何をしてよいのか判らない迷路に陥っていたかのようだ。

 腹部に触れれば、そこには未だ平坦な腹。

竜公に子がいるといわれてはいても、未だそれを認識できるものではない。それでもそこにそっと触れて、深く深く息を吐き出した。


「……さぁ、リドリー。

帰っていらして。私の為に。そして……あなたの為に」


ふわりと浮かんだのは、憂いを解かれた柔らかな微笑であった。



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