進む道と失われる道
久しぶりの大地だというのに、喜びよりも不安のほうがずっと大きかった。
アジス君がとんっと地面を確かめるように踏みしめる。くるりと振り返って当然のようにアマリージェに手を差しだして促すのを見ても――萌えない。
いや、本来だったらきっとすごくほのぼのとして可愛くてアジス君の頭をぐりぐりと撫で回してしまいたい所作なのだけれど、今のあたしときたらきっと誰の目から見てもいっぱいいっぱい。
港で待機していた差配と軽く言葉の応酬をしていたマーヴェルが振り返えり「ドーザ、リドリー達を部屋に案内して休ませてやってくれ」と声をかけてくれたけれど、あたしときたら始終無口になっていて、部屋に案内されてぱたりと扉が閉ざされるまでしっかりと記憶をとどめていなかった。
「リドリー」
案ずるような呼びかけに、はっと息をつめて視線を上げる。
先ほどまで海で、船で、港であった筈なのに――あたしの足は揺れない床板の上、あたしの腰は簡素な寝台の端に沈んでいた。
港から突然この場に放り出されたような感覚に、思わず動揺してしまう。自分の足で歩いて来た筈だというのに、その現実すらすっぽりと抜けてしまっているのだ。
まるで、転移の魔法にでもかけられてしまったように。現実味の無い感覚に動揺が走る。魔法なんて……今のあたしには決して触れられないのだから、確かに自分の足で移動したのであろうに。
「リドリー」
今度は少しきつい口調で問われて、慌てて「マリー」とか細い声でこたえた。
心臓がトクトクと早鐘を打ち、自然と右手が胸元を押さえてしまう。
「どうしたのですか?
さっきからずっと。話しかけても上の空で――何か、ありました?」
まるでこちらこそが幼子であるかのように、アマリージェは身を沈めてあたしと視線を合わせてくる。
彼女という存在に、あたしは救いを求めるように手を伸ばして引き寄せ、ぎゅっと抱きついていた。
今、触れられる確かな存在。間違えようの無い体温。
自分自身ですら信用できない現状において、おそらく唯一あたしが信じられる人。
「……あたしは、あたし……」
言葉はつっかえ、意味不明な音となる。
だって何をどう告げればいいのか、あたし自身でも判らないのだ。
あたしは――リドリー・ナフサート。
あたしは、あたしの心は、本当にあたしの知るあたし? あたしの感情はあたしのもの?あたしは、あたしの心は……
混乱が自らをぎゅうっと押しつぶして、ぺしゃんとおしつぶしてしまいそう。
自然と震えるあたしの背を、アマリージェはそっとなでた。
「リドリー?
どうなさったのです?」
「……あたしが、あの人を好きだという気持ちは、本当にあたしのものなのでしょうか」
つっかえつっかえ出た言葉に、アマリージェが息を呑む気配が伝わる。
泣き笑いのあたしの顔を覗き込むように、アマリージェは体を離してあたしをゆっくりと見つめ返した。
「何をおっしゃっているの?」
あたしは震える声で、つたない言葉で、それでもアジス君との会話をゆっくりとアマリージェと告げた。
あたしの知らない現実として突きつけられた記憶。
それと同時に浮上してしまった不安。
「あの人は好き勝手にあたしの記憶を改ざんして、あたしの知っている本当は全部嘘で、あたしは――あたしはあの人につくられているのでは……」
感情の高ぶりが声を荒げさせていく、それを冷静にさせるようにアマリージェはあたしの肩を押さえた。
「あたしの好きって気持ちを。あの人はあたしの意思に関係なくっ」
「尊き人を侮辱なさるのはそこまでになさって下さい」
すぅっと、アマリージェの眼差しが針のように細くなり、彼女のものとも思われない冷ややかな言葉がその唇から零れ落ちた。
「確かに記憶を奪うことはあったとしても、それは全てあなたの為。あなたに良かれと思ってしたこと。あなた自身の心までどうこうするような下劣な方ではございません」
「マリー……」
「一年前、あなたはあの方と面識を持ってすぐに恋に落ちられたのですか? 幼い頃のことは判りかねますけれど、あなたが私達の町に越して来てすぐにあの方はそれはそれは有頂天になっておられましたけれど、少しづつ面識をもたれていったのではありませんか? あの方があなたの心さえないがしろにして無茶なことをなさったのですか?」
ゆっくりと向けられるひんやりと冷たささえ感じられる言葉に、あたしの心は序所に冷静さを取り戻した。
まるで水がゆっくりと染み込むように、この一年を振り返る。
漠然と膨れ上がった不安をゆっくりゆっくりとなだめるように。自分の知っているものをなぞりあげていく。
出会い。
それすら、本来であれば再開であったのに、ユーリは根気強く「知り合う」為の努力をしてき……
「確かにあの方であれば無理やり人の心を思いのままにすることもできるかもしれません。ですが、できるからといってそのようなことをなさる方ではありません。
何より、リドリー。
あの方は心からあなたの心を大事になさっておりました。
幼き頃から身近にいる私が保証致します。
どうぞ――心まで疑って下さいませんように」
せつせつとアマリージェが訴える言葉を頭の上で聞きながら、あたしはずぶずぶと記憶の泥沼にはまっていた。
――ようこそ!ぼくの町へっ。
……
「リドリー?」
抱きつかれた。
ふいうちに尻をなでられた。
騙されて口付けを奪われた!
「なんであたしときたらあんな変態を……変態で変質者で痴漢で」
ぶつぶつと呪詛のような言葉が唇から零れ落ちる。
そう。あたしは当初あの人を毛嫌いしていた。毛嫌いしていたという記憶があることに何故かやたらと安心して、体の振るえがとまっていく。
嫌いだった。
大嫌いだったと言ってもいい。
むしろ害虫扱いだった筈だ。
毎日毎日、それはそれは呆れる程に繰り返していたあの忌々しい日々!
警備隊の方々に迷惑をかけたこともしばしば。変質者が出ると届けを出したことだってある。心をいじるような男であれば、そんなことにはならなかっただろう。嫌がるあたしにストーカーまがいのあれやこれやを繰り広げてくれて嫌い数値がどんどんと上がっていった。
頬がゆっくりと熱を取り戻し、ぎこちない笑みが口元に張り付く。
あたしの変化にアマリージェはほっとした様子で小さく息をついた。
「とにかく。あの方は自分の私利私欲の為に悪辣な行為をなさる方では――」
微笑んで言うアマリージェだったが、ふいにその言葉がびたりととまり、視線がついっと不自然に泳いだ。
二人の間に流れた沈黙は微妙な空気を作り出した。
二人の間にある沈黙を作り出しているのは、おそらくまったく違うものであろう。現状のあたしときたら、脳内であんのすっとこどっこい様をぎったんぎったんに踏みつけていたし、アマリージェはおそらく――悪辣な行為をなさる方では無いと言いきれない事柄を脳内に発見し、言葉を濁して視線を泳がせている。
おそらくきっと、二人の意見はある意味一致した。
「……いいの、マリー。判ってる。
というか、うん判った。
私利私欲の為に悪辣な行為をするけど、さすがに心をいじってあたしを手にいれようなんていう下種ではないわ」
それよりむしろ、変態を好きになってしまった自分こそが変態ではあるまいか。
ちらりと浮かんできてしまったもう何度目かの疑問を、あたしは必死で靴底で踏みにじった。この疑問は本当に時々むっくりと鎌首をもたげてくるからたちが悪い。
挙句、あたしときたら完全否定できないときている。
なんたって今は目指せストーカーもかくやであるし、それに……変態だのなんだのと鳥肌までたつくせに、嫌いになってないですし!
記憶を消されたとか改ざんされているのではと恐怖していたって、それでも愛想をつかしていない自分は絶対に変人だ。もうやだ。
それを誤魔化すようにあたしはひきつるように笑ってみせた。
「とにかく――問題を片付けて戻るのが先決ね。ここでうだうだしていても腹立たしさが増すばかりだし。
早く戻って、全部洗いざらい正直に話させる」
今までどれくいあたしの記憶を奪ってきたのか。
その理由と――何より、本当にあたしともう一緒にいたくないのか。
確かに手を離されてしまったけれど、それが本心であるのか確かめたい。しつこいと言われてしまうかもしれないけれど、あたしは……あの時まで、あの人の心を、あたしを愛しているというその心を疑ったことなど無かったのだ。
傲慢だろうけれど、あたしは断言できた。
あたしは愛されていましたよ、ええ、本当に。
まぁ、その前に会ってもらえるかどうかは判らないけど。
なんといっても腐っても相手はお偉いさんである。
あたしのぼやきに、アマリージェが元気を取り戻した様子で微笑んだ。
「私がおりますし――私では無理だとしても、ルティア様が力を貸してくださいますわ」
「あー、ルティアとも早く会いたいですねー」
あの能天気な気の抜けたような話し方が懐かしい。
あたしの護衛をはずされてしまって今回の帰郷に同行はしなくなってしまったけれど、言えば……ついてきてくれたのかな、ルティア。
それとも、やっぱりあくまでも竜公に言われたからルティアはあたしといてくれたのだろうか。
そう思うと、やっぱりちょっと、寂しい。
ふっと懐かしさに眼差しを細めると、部屋の扉がノックされてアマリージェの応えを受けて開かれる。
ひょこりと顔を出したのはアジス君で、アジス君は強張ったような表情で一旦唇を引き結び、ちらりとあたしの傍らに立つアマリージェを気にかけながら口を開いた。
「リドリー、思うんだけどよ。
あの人、リドリーの為にいろいろとやってただけだって。やってることはめちゃくちゃかもしれないけど、リドリーを守りたかっただけなんだって思うんだよ。少なくとも、リドリーには誠実だったって俺、思うんだ」
どう言葉にして良いのか判らない。それでもアジス君なりの精一杯で落ち込んでしまっていたあたしを元気付ける為にとせつせつと訴える言葉に、あたしとアマリージェの視線がちらちらとかち合った。
「だからさ、リドリー、俺うまく言えねぇけど――なぁ、俺きっとよけいなことを言っちまったんだ。俺が悪い。俺が謝るから、次にあの人に会うまで、もうちょっとあの人を信用してやってくれないか?」
ぎゃー、もうやだ。
ぎゅっと抱きしめてふわふわの髪をぐしゃぐしゃとかき回したいっ。
胸の前で指と指をからませて必死に言葉を操る少年の前で、ちらちらとこちらを伺うアマリージェに、あたしは小さな声で――「抱きしめてぎゅうぎゅうしていいと思う?」とたずねてみたのだが、アマリージェは怒ったような声で「駄目ですっ」と短く返した。
おそらくきっと……
アマリージェも同じ気持ちだったに違いないと思うのだけれど、アマリージェはきっと認めまい。
船旅の疲れか、翌日は寝坊した。
本来であれば朝一で出発の予定であったというのに、こともあろうにあたしの寝坊によって出発は出遅れてしまったのだ。
「ごめんなさい」
朝一で出れば、昼過ぎにはティナがいる自宅へと戻れる筈であったというのに、これでは夕刻過ぎになってしまう。思わず「明日にしようか」と口にしてしまえば、マーヴェルが苦笑して首を振った。
「会いたくない気持ちは、わかる」
その言葉にすぅっと血の気が引いた。
見透かされたような気がしたのだ。
今更――というか、このごにおよんでまであたしときたら臆病風を吹かせて、嫌なことを先送りにしようとしている。ぎゅっと拳を握り、顔色をなくしつつも乾いた笑いを浮かべた。
「そうだね。ごめん――行こう。
てか、ここまでしてもらってなんだけど……マーヴェルは付き合ってくれなくていいのよ?」
ここからは陸地。それも馬車だ。
海運業者に出番はない。
だからそう告げたのだけれど、マーヴェルは苦笑した。
「きちんと送るよ。それに、俺自身もティナには言わなければならないことがある」
きっぱりとした台詞に、あたしはマーヴェルの日焼けした顔を見返しつつはじめて気づいた。
今までちっとも思い浮かばなかったけれど、結局……ティナとマーヴェルの関係って、アレ?
アレ?
あたし、マーヴェルに甘えていていいんだろうか?
いや、本当に今更っていえば今更なのだけれど、えーと……アレ?
マーヴェルは微笑を浮かべ、すっとその手を差し出した。
「行こう、リドリー」
その笑顔は、ずっと以前――あたしが好きだった笑顔のままだった。
ズキリと胸が痛むような奇妙な感覚に貫かれ、あたしは差し出された手に躊躇する。
優しさを向けてくれる幼馴染にして元婚約者。マーヴェルは、あたしのことを……どう思って今この場にいるのだろうか。それを意識すると途端にかぁっと体温があがるような気持ちになる。というか、今までそこに気づかなかった程あたしときたら色々とまずかったのだろうか。
小首をかしげてみせる相手に対して、下心を感じてしまうのはきっとあたしの勝手な妄想?
傲慢さ?
自意識過剰?
あたしは、差し出された手を、友人として取るべきなのか。
戸惑うあたしの腕に、ぐいっと背後から重みがかかった。
後方にいたアマリージェが年齢相応の少女のように、あたしの腕にぎゅっと抱きついたのだ。
「リドリー、行きましょう」
弾んだ声音と無邪気な所作に、マーヴェルの笑みが苦笑に変わる。
くるりと身を返して、アマリージェの張り付いていないほうの肩に触れたマーヴェルは、とんっと押すようにしてあたしを促した。
今更、口付けられたことを思い出した。
今更「オレは今でもキミのことを愛している。
ティナじゃない。本当に心から愛しているのはリドリーなんだ」
切羽詰るように告げられた言葉がこだました。
今は――純粋に友人としてそこにいるのだと信じることは、傲慢なことなのか。それとも、信じないことは度し難い程のうぬぼれなのか。肩に触れる大きな手を、どうすればよいのかあたしは判らなかった。
こんな風に感じることはきっと理不尽なのだろうけれど。
肩に触れている僅かな熱を、できれば振り払ってしまいたい。
あたし、ああ、あたしって本当にいやなヤツだなぁ。
***
「お養父さま」
帰宅したユリクスの前に立つ娘は――このところ彼女御自慢の特注侍女服を着用してはいない。
華美ではないドレスを凜と着用し、普段はうそ臭い笑みを貼り付けている面は今は大人びた静謐さを湛えている。
美しい娘だ。世間では身持ちが悪く愚かな娘として名をはせているが、その実誰よりも冷静で聡い。今もまた、その眼差しは養父の心を見透かすように見つめ返してくる。
「お話がございます」
静かに告げられる言葉が、大事な話であると言外に訴えていたが、自身に残る色濃い疲れに「後にしておくれ」と言葉が落ちた。
頭の痛い事柄ばかりが多く、ルティアが更に上乗せすることは判っている。できれば心に余裕が欲しかったのだが、養い子は容赦というものを持ち合わせていない。
眼差しに強さを滲ませ、逃れることは許さないと突きつける。思わずふいと視線を逸らせば、彼女は息を呑んだ。
「まさか……竜公の退位をお考えですか?」
「――まだ、そこまでは考えていない」
今の現状で何故そう思ったのか。けれど彼女は確かに確信をついた。間違えることなく。
竜公の退位――ソレに線引きがあるのであれば、未だ逸脱はしていない。
先代竜公の悪行を百とするのであれば、当代の所業は未だ二十にも満たない。だが、今まで一度も当代の退位を考えていなかったことに対し――今現在、確かにユリクスはそのことを脳裏に描いていることは事実だ。
そして、面前の娘はそのことに気づいている。
ユリクスは視線を落とし、目と目の間をもむようにしながら息をついた。
「考えているのは、誰でない――公御自身だ」
――陛下に代替わりを申し入れるつもりです。
微笑を湛えて告げる言葉が耳の奥に残っている。
ルティアはその目を大きく見開き、あえぐように唇を振るわせた。