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歪んだ記憶と見知らぬ自分

 船首の左手、遠く彼方水平線の間際には大陸が見え隠れする。

起伏が激しく見えるのは、リアス式というのだと遥か昔に教えてくれたのはマーヴェルであった筈だ。

もともとこの航路では、それほど海岸線から離れることはなく大陸の淵を南方へと進んでいく。水深や海底の岩などの問題を排除しつつ、外海すれすれを航行するのだというのも、やはりマーヴェルが教えてくれた。

 遠い、遠い、過去。

その当時を眺めるように視線を細めてぼんやりとあたしは遠くを眺める。

 見え隠れしていた大陸が消え去り、時には視界の全てが海原へと変わるがそれもわずかなこと。船首の左手にはやがてまた大陸が見えて、また時には視界の隅に他の船が通りかかり、港から荷物の受け渡しや食料の積み込みの為の中型船が近づいてくる。

 そんな船の動きを眺めるともなく見つめ、やがてふるりと一度首を振った。


浮かんでは消えるような思考――考えたくもないのに、それはやがて一つのことに帰結する。


――気がふれてしまったというティナ。

あたしが死んだと思い込んで、心を壊してしまったという妹。

あたしが、あの子をそんな風にしてしまった?

あたしが、自分勝手に故郷を捨ててしまったから?

あたしの、せいで?


「あたしは……生きているわよ」

 死にたいくらい辛かったけど。

だからって、死んだりなんてしない。

自らに満ちた罪悪感は、やがてゆるゆると――むかむかとした腹立たしさに変化した。


 あたしのせいだなどと自己憐憫になど浸っていてたまるものですか。

あたしの家出で心の病になったですと?

そんな風に罪悪感にとらわれてしまう程に弱いなら、そもそもあんなにも大胆に人の婚約者を寝取るな、馬鹿妹っ。

 あたしも悪かったかもしれないけど、ティナだって悪い。六対四くらいでティナだって悪い。絶対に自分のほうが悪かったなどとは思ってあげない。

考えれば考えるほど、あたしの心は真っ黒にぐずぐずと腹をたてはじめてしまった。

 あたしは人間が小さいし、イジケルし、性格だって悪いのですよ。

何でもにこにこと笑って許せてしまえるような人間では決してない。相手がたった一人の妹であったとしても。

 ひとしきりティナの悪口が体内をめぐり、けれどそれはやがて沈静化して溜息とともに悲しさに満ちた。

 

「夕刻には港にたどり着ける。今夜は港の商会で休んで、明日の朝には内陸にむけて出発しよう。小型の船で川を遡上するほうが幾分早く帰れるけれど、揺れが激しいし安定も悪いから酔いやすいリドリーにはきついと思う。多少時間はかかるけれど、馬車を手配するから。

それでいいよね?」

 マーヴェルからはこの先の行程としてそのように説明を受けていたが、どうにも気が重い。


もともと 気の重い旅だったというのに、更にずっしり肩の上にいやな重石が乗っているようだ。

まるでユーリがのしかかっているみたいに重い。

思い返せば、あのすっとこどっこいは良く背中にはりついていたものだ。そう思った途端、

「リトル・リィっ」

 ふわっと耳元にささやかれた気がして、ぞわりと鳥肌がたった。


鳥肌……むしろ悪寒。


恋しい相手を思い出す態度ではないが、そこはもう、相手がアレなので仕方ない。思わずそんなことある筈も無いのに、本当に張り付いているのではあるまいかとがばりと勢いをつけて振り返ってしまい、丁度木製の無骨なゴブレットを手にしたアジス君が通りざまに「うわぁっ」と焦ったような声をあげてたたらを踏んだ。


「ごめんっ」

 変態は当然のごとく居なかったが、自分至上人番男前少年が大きな眼を更に大きく見開いてそこにいた。


 咄嗟にかぁっと頬が真っ赤に染まるのがわかる。

だって、ありえない。たとえアレが魔法使いであったとしても、こんな場所に来るなんて。未だにあたしのところに来てくれるなんて、ありえない。

 先ほどまでのちょっと人としてどうなのよな妄想に恥じ入って、慌てて謝罪の言葉を口にすれば、アジス君は一旦顔をしかめたが、嘆息を落とすようにしてゴブレットをずいっとこちらへと差し向けてきた。


「ほら、まだ気持ち悪いんだろ?」

 どうやら船べりでぼんやりとしている姿を目にし、気分がいまだ悪いのかと勘違いさせてしまったようだ。


 さすが自分至上人番男前――少年は騎士教育に触れて更に男前に磨きをかけている。

あたしは自分の内心など相手に判りようがないというのに、とりつくろうような半笑いを浮かべてゴブレットを受け取ると、簡単な礼を述べてからゴブレットの中に満たされた果実酒を人口飲み込んだ。

 あああ。なぜかもう恥ずかしい。

どうしようもなく、恥ずかしい。

いつまでもあほんだら様のことばっかり考えている自分が猛烈に恥ずかしい。


だって好きなんだものっ。

あたしの馬鹿っ。


「マ、マリーは?」

「姫さんは疲れているみたいだから横になれって置いてきた」

 何気ない口調で言うが、アマリージェの騎士をかってでているアジス君としてはこの時間だって本来はアマリージェの部屋近くにいたかった筈だ。船が出港して数日の間は、周り中が荒くれの男達だということもあってぴりぴりとアマリージェにはりついていたくらいだ。

 それでもあえてこうしてあたしのところへと来てくれたのは――どうやら随分と心配させてしまったらしい。

 ものといたげな眼差しに冷静さを取り戻して苦笑を返す。


「妹がね。ちょっと病気みたいなの」

――ゆっくりと口火を切って、もう一口果実酒を口にする。

酒といったところで勿論そんなに強くないし、船上では貴重となる飲み水の代わりとしてアジス君やアマリージェも口にするものだ。酔っ払うようなものでは決してないのだけれど、それでも口は饒舌になってしまうようだ。

 他に弱音がはけないからといって、果たして十一歳の少年にぼやいてしまうなんてどうかしている。

 自嘲するように口元をゆがめると、アジス君はあっさりと言った。


「ああ、あのねぇちゃんか」


 まるで知っているという口ぶりにあたしは目をまたたいた。

何かが引っかかる口調。それと同時に、この感覚を味わうのは二度目だと思い出す。

――以前にも確か、アジス君はティナの話題を口にした。

「あたし、以前にもアジス君に妹の話をしたっけ?」

 そう、あれは確か聖都でのことだった。

馬車でアジス君とアマリージェに母の家へと送ってもらって――別れるときに、アジス君は突然あたしの妹のことを口にしたのだ。


「そういえば、リドリーの妹ってここに住んでいるのか?」

 母親の家の前で、確認するかのように。

それにたいして、あたしはここには居ないと告げた筈だ。そしてアジス君は「良かったな」と口にした。

 妹がいないことを、良かったな、と。


あたしの何故か思考のめぐりが悪くなるような奇妙さを覚えながら、顔をしかめているアジス君を見下ろした。

「そっか。あのねぇちゃん病気なのか。

オレはあのねぇちゃんあんまり好きじゃないけど、まぁ、リドリーにとっちゃ妹だもんな。妹が病気なら心配だよな」

 うんうんというようにうなずくアジス君に、どんどんと意味の判らない不安がつのってくる。喉を潤したというのに、どんどんと乾いていく。

「あの、アジス君?

あたし――アジス君にティナのことどう言った、のかな? ごめん、覚えてないみたい」

 まさか酔っ払って暴言を吐いたのではあるまいか。


――婚約者を妹に寝取られたのよー。

それが原因で結婚式三日前に家出してきたの!


 包み隠さず口にしていたら最低すぎる。

相手はまだ子供だというのに。そんなことをべらべらと言ってしまったのか?

のたれてしまうべきではありませんか、あたし。

その辺の草むら――って、今は海だから、海原にでも飛び込むべきですか、あたしっ。

 ぎゃぁぁぁぁと嫌な羞恥が体内を駆け巡っているあたしの前で、アジス君はぐぐぐっと眉間に皺を刻み付けて、胡乱な眼差しを向けてくる。


「言うも何も、会ってるし」

「はい?」

「会ってるだろ。つか、またアレか? 大人の事情ってヤツ? あー、大人っていちいち面倒くせぇな?」

 ちっと舌打ちせんばかりの様子に、あたしは唖然とし、ついで目が飛び出るのではないかというくらい見開いて叫んでいた。


「ちょっ、嘘っ。

いつ? いつどこでどうしてアジス君とティナが会うなんてことになるの? ていうか、あの子とアジス君がいったいどこで? はぁっ?」

 頭の中がまさに混乱し、どうしてよいのかわからずにゴブレットを両手でひしと握り締める。右へ左へ体が揺れて、ゴブレットの中身がぴしゃりと指をぬらした。

 アジス君は固い表情を更にきつくして、あたしの手からゴブレットを取り上げてゆっくりと口を開いた。

 まるで腫れ物にでも触れるように。


「まてまてまて、リドリー、本気で言っているのか?」

「本気って、何が?」

 アジス君が何に対して言っているのか判らずに逆に問いかけると、アジス君は生真面目な眼差しをじっとあたしに注ぎ、やがてゆっくりと――首を振った。

「ああ、本気、なんだな」

「アジス、君?」


「あの日――あの日は確か、収穫祭の前日だ。

ばあちゃんのパン屋でオレ達は翌日の仕込みをして、遅くなったからオレはリドリーをアパートに送って行った」

 ゆっくりと確認するように告げられる言葉に、あたしはその当時のことを思い浮かべた。

収穫祭の前日。

確かにあたしはアジス君に自宅アパートまで送ってもらった。

 街には収穫祭の為に色々な人が入り込んでいたから、危ないとアジス君が言っていた言葉も思い出される。

 飾り付けられて活気付いた街中。遠くで祝いの楽団の練習の音すら響く。

石畳の上を、何か話しながら岐路についていた。

「覚えているよ?

二人でアパートまで行ったけど、それが――」

「行ってない」

 アジス君はあたしの言葉を鋭くさえぎった。


「オレ、確かに途中まではリドリーと一緒だったけど、途中までだ。

リドリー、本当に覚えていないんだな?」

 アジス君はまるですがるかのようにあたしの手首に手を伸ばし、ぎゅっと握って真剣に続けた。


「あの日――リドリーはリドリーの妹と二人でアパートに帰ったんだ」

「嘘っ。そんな馬鹿なっ。

だって、えええ? あたし、そんなっ」

 アジス君の真剣な様子と、告げられる言葉が何故か怖くて――あたしは咄嗟にアジス君の手を振り払って人歩退いた。


どんっと背中が甲板上に置かれている木箱に当たる。

あたしはそれ以上下がれないのを承知で更に下がった。体が、わけもわからず小さく震える。自分の体にぎゅっと力を入れれば入れるほど。


「あのねぇちゃんは道端でリドリーを待っていた。ふわふわの髪で、リドリーよりちょっと小さいねぇちゃんはリドリーの頬を理不尽に叩いて。その後、リドリーは自分の妹だってオレに紹介してくれて、それで、リドリーは自分のアパートに妹を連れ帰ったんだよ!」

「……」


 ぎゅうっと、心臓が掴まれたかのようにきしんだ音をさせた。

アジス君の眼差しがどこか辛そうに変化し、強く吐きすられた言葉を打ち消すように、アジス君はゆっくりと、幼い子供にでも告げるように続けた。


「なぁ、リドリー。

オレはこんなにはっきりと覚えている。リドリーがもし本当に、ほんの僅かにも覚えていないというのなら。

それはきっと、コー」

「ごめん、言わないで」


 アジス君がその結論に到達したように、あたしもまたその回答をほぼ同時に掴んでいた。咄嗟にさえぎってしまったのは現実として自分以外の誰かにソレを突きつけられるのを恐れたからだ。


判っている。

アジス君が言いたかったこと。

あたしが結論づけたこと。それは間違いなく、間違えようもなく、どうしようもなく一緒に違いない。

体が前かがみにうつむき、肩が小刻みに震える。


「リドリー」

 労わるように向けられるアジス君の言葉に、あたしはぐっと拳を握りこんだ。


「ねぇ、アジス君……」

「お、おう?」

「あたし――怒っていいよ、ね?」


――ぼくを、嫌いにならないで。

脳裏に蘇る切ないささやき。

あたしの言葉は低くふるえ、かすれた。


ソレと同時に耳を劈くような汽笛が二度、響き渡る。

あまりの大音響に体がびくりと跳ね上がり、うつむいていた視線が上がる。甲板の後方で汽笛の合図に応えるように男達が声をあげてなにやら指示を出し合っている。

 船の船首がゆっくりと方向をかえ、風がふわりとあたしの髪をさらった。

あたしの視線もゆっくりと海原の向こう――見えてきた港へと向けられる。一度も外洋からこの光景を眺めたことは無かったけれど、そこがどこだかあたしはよくわかっていた。


あの向こうに――ティナがいる。


「ああ、ついた」

ぽつりと無機質な言葉が落ちて、あたしは唇を引き結んだ。


ああ、ついた。ついてしまった。

もう船の旅は終わり、あたしは過去のあたしと向き合うのだ。

ティナに会うのが怖かった。今だって、わずかに恐れる心が無い訳ではないけれど――あたしの心にはまったく別の疑問が芽吹いていた。

 ぎりぎりと浮かんだ怒りが、一瞬のうちに冷水をぶちかけられたようにその思いにとらわれてしまった。


失われた子供の頃の記憶。

失われたティナとの再開。

あたしは気づいてしまったのだ。


ユーリ、あなたはどれだけあたしの記憶を操作しているの?

人の記憶を自分の都合で好きにいじくり倒して、あなたはいったい何をしているの?

記憶をそんなにも操作できるというのであれば――


あたしの、この感情は本当にあたしのものなの?

あたしの怒り、あたしの悲しみ、全てをひっくるめたあたし。

あたしが……あたしは、本当に、あなたを、好きなの?

それとも、あたしのこの全ては――あなたによって好きに作られてしまったものなのかしら。


引き結んだ口腔に、血の味が滲む。


 あたしは、あたし……きっぱりと断言のできないおぼつかなさに、あたしはぎゅっと自分の体を抱きしめた。

「リドリー」

 ふいに背後から掛けられたのはアジス君の声ではなく、甲板の上をゆっくりと近づく幼馴染。

穏やかな微笑を湛え、軽く差し出された手。

「もう少しで港につくよ。

荷物をまとめておいて」

 優しい言葉に、あたしの表情は歪んだ。


――今、マーヴェルにすがり付いてしまいたいと身勝手にも感じた自分は、誰?


ユーリ、ユーリ。

全ての感情をぶつけてしまいたいのに、感情のままに泣き叫んでしまいたいのに、あなたがいない。


***


 繰り返し、繰り返し、繰り返し。

することはいつも変わらない。

だから記憶に欠落があったところで、何かが変わるものではないのだ。

 起きて、身を清めて祈りを捧げる。

眠り続ける竜を更に眠らせ、その魔力がその身に溜め込まれることの無いように国の守りへと返還させる。

 ただただ、それだけの日々。

ただ生きて、屍のように、生きているだけ。


だというのに、何故だろうか。

 突然、世界は変わってしまったのかもしれない。

自分の姿を改めて見ることなどしたことが無かったというのに、姿見の前に立つ。

 身長は、外見は、何かが変わっているだろうか。

こうであったのかもしれない、こうではなかったかもしれない。

あやふやな記憶の中で、自分の姿などどうでもよすぎて――見たことを後悔した。

 こわばったような表情で控えているエルディバルトに「下がっていて構いませんよ」と声をかける。

 もう長い付き合いの筈の護衛騎士であるエルディバルトさえ、どこか自分の中であやふやだ。

「エル」

「はい」

「……私は、病気だろうか」

 病か、それとも――竜公とはそういうものであろうか。


自分の中には幾つも記憶がある。

それは、遠い過去の「自分」。魔法使いであったもの、竜公であったもの、そして、竜公によってその精神を奪われたもの。

 それは心の中の深い場所にしまわれて、本来は意図しなければ引き出されない。その引き出しが決壊し、私の中の「自分」は混ぜ合わせられてしまったのだろうか。


私は――誰であろう。


 ぐるぐるとした奇妙なものが腹の中でわだかまる。それはともすれば激しい怒りのように、苦しい悲しみのように自分を覆いつくしてしまう。

 伏せた半眼の先、控えていたエルディバルトふいにその口を開いた。

「私は――あの女が嫌いです」

 それは突然の告白で、まったり意味が判らないものだった。

何を言い出すのかと、問いかけるように視線をあげればエルディバルトは心底嫌そうに顔をしかめた。


「まったくあの女は度し難い。

私の公をこのように苦しめる」

「エル?」

「しかし、私はルティアを愛している」


まったく理解できない。

エルディバルトは何を突然言い出すのか。

このような下世話な内容の言葉に、自分の心が沈んでいたことを一瞬忘れ唖然と自らの護衛騎士を見つめ返した。

「それを手放すことは、まさに断腸の思い。今までいたものを失うことが、どれだけ我が身を苛むものか、私は一度たりと考えたことなどなかった」

――愛していると返すことよりも、愛していると注がれるもののほうが多く、ルティアが我が身から離れることなど無いと思っていた。

 手放さなくてはならなくなることなど、まさに。

とつとつと無骨な騎士が続ける言葉の意図がつかめずに、自然と眉間に皺がよった。

 思い返せば確かにエルディバルトは多少うっとおしい――いや、かなり問題の感じる男だが、このように自らの女性観のようなものを語られた覚えはない。


「ですが、私はルティアを忘れようとは思わない。

どんなに辛くとも、私はルティアが共にいた過去を手放そうとは思わない。願えば、あなた様がそうしてくださることを理解していても」

「何が――」


「忘れてしまいたいくらい、お辛かったのであれば――何故、言って下さらないのです。

いいや、あなた様がどれ程あの馬鹿女……いえ、あの女性を愛しんでおられたのか、私は知っていた。認めたくなかっただけで、十分に知っていたのです」

「――」

 意味が判らずに眉間に皺をよせるようにしてエルディバルトを眺めれば、護衛騎士は達観したような眼差しで見返してきた。


 そっと息をつき、その面に貼り付けたのは薄い笑み。

「私は――どこまでもあなた様と共に」


 一礼して下がる男を見送り、そっと息をついた。

歪んだ記憶、ルティアとの婚約の解消――自分の知らぬ物事を前に、どの道を辿るべきなのか、自分が一番理解している。


「それでも、あなたは共にいると言うのか」


 ぽつりと落とした言葉にかぶせるように、どろりとしたものが腹部でうごめく。それは飢え。何かを求める衝動。

 怒りにも恨みにも似た腐臭を放つ淀み。


何かを思い切り破壊したい欲。


他人を引き裂き、真っ赤な鮮血すら楽しみたい。

何もかもを投げ出し、何のタガもなく。

心の赴くままに。

ぞくぞくと這い登るものに吐息が落ちた――これは、誰かの感情なのか。自分の感情なのか。それとも過去の誰かの記憶であるのか。

 混ざり合って、溶け合って、そうして今までの竜公と同じように破滅へと向かうのか。


私は……いったい、何者であろうか。


伏せた瞼の裏で竜が誘う。

空腹を満たして、何が悪いのかと。

「公――」

 ふいに掛けられた呼びかけに、つっと視線があがる。

エルディバルトがいた場に立つのは、神殿と王宮とを結ぶ者。


視界に入り込んだ途端、まるで昨日のことのように若かりし日の彼自身がその姿に重なった。

平然とした表情で、先代を欺いたその姿。

先代竜公を裏切り、陥れ、その命を奪うことに尽力した一人。


「公、よろしいか」

厳しい視線を向けながら問いかけられる言葉に、自然と口元に笑みが浮かんだ。





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