壊れた少女と壊れたあなた
自分の身に不可解でけったいな事象が発生しているという――むしろ慣れっこになっちゃったわ、などと現実は笑っていられる程豪の者ではありません。
海原から随分と高い場所にある甲板上はシンと静まり返り、まったくもって誰も収拾ができないような空気が充満中。そんな中で、十七歳の脳味噌が煮え立っている小娘に何ができるかといえば、もちろん当然の如くの現実逃避。
「マリーっ」
年下の友人に抱きついてしまったあたしは、本当にどうしようもない大人で、ええ結構ですとも。
「もうこんな人生イヤですっ」
さすがに涙は出なかったが、本音は口から飛び出した。
心底言いたい。
神様はいない。
少なくともあたしの範囲には。
神殿や神官長が存在していようとも、まったくのマガイモノに違いない。
そんなあたしの背に手をまわし、深々とため息を吐き出したアマリージェはどこか遠くを見つめるようなまなざしで「強く生きてください」とぼそりと告げた。
「まったく心がこもっていませんよ」
「そんなことはありませんわ。私は本当に、心のそこからリドリーには同情を禁じえません。かわれるものであればかわってさしあげたいのはやまやまなのですが、生憎と私は身の程を熟知しておりますから」
今度の台詞はめちゃくちゃ実感がこもっている。しかし、身の程を熟知していると言いたいのはむしろあたしのほうだ。
達観した様相で、ふーっと息を吐くアマリージェに抱きつく腕に力をこめたあたしは、ふと――別の方向からなんだか痛々しいまなざしを向けられていることに気づいてしまった。
ぐっと唇を引き結ぶようにしてあたしをじっと見つめる鳶色の眼差。
視線があったとたん、ぐっと唇を引き結び、まるで痛みでも覚えたよう眉間に皺を寄せた。
マーヴェルは一旦口を開きかけ、ついで何かを振り払うかのように身を返して怒号をあげた。
「碇をあげろっ」
その言葉を合図に船上の水夫達の止まっていた時間が動き出す。
掛け声をあげて船を動かす為の準備をはじめる彼らとは別に、あたしと――アマリージェ、そしてアジス君とはその場に取り残された。
マーヴェルの背が甲板から船室へと続く扉へと飲み込まれ、困惑の混じった眼差しでマーヴェルとあたしとを交互に見たドーザが同じく扉に消えていく。
あたしの背をマリーがもう一度叩いた。
「わたくし達には何もできませんわ」
その言葉が、全てだった。
***
薄暗く狭い船の廊下を、半ば乱暴に足音をさせて歩いていたマーヴェルは船長室へと続く角を曲がったところで一際高く足音をさせて立ち止まると、力任せに木製の壁を拳で叩き――比較的薄い内板の壁を思い切りぶち抜いた。
音をさせて割れた木片が拳を傷つけ、鈍い痛みが血流に合わせるように主張する。
噛み締めた奥歯の間から、血の味が滲んだ。
「おいっ」
ドーザが声を荒げて壁にめり込んだ拳を引き抜く、それを鬱陶しげに振り払い、怒りのままに声を吐き出した。
「なんなんだよっ」
「って、こっちの台詞だって」
「ったい、どうなっているんだっ」
――意味が判らない。
まったく意味が判らない。
海賊だの、貴族だのっ。
わかっているのはただ一つだけ。
マーヴェル・ランドートは最愛の女を海賊に売り渡そうとした。
結果として思っていたこととは違っただけで、その事実は変わらない。
この船を守る為。船員達を守るために、リドリー・ナフサートを引き渡そうとしたのだ。船の持ち主として、雇い人としてけっして間違った判断では無い。ひとりとその他、預かっている積荷とを天秤にのせればおのずと答えは判りきっている。
言い訳をさせてもらえるのであれば、自分の命とリドリーの命とであれば、考えるべくもないというのに。
自分以外の自分に責任のあるものとを引換にした場合、自分はあっさりと彼女を切り捨てる。
「っきしょうっ」
完全においてけぼりになってしまっていた状態などどうでもよく、体内を占めているのはただただ一つのことだけであった。
――今、自分の中のリドリー・ナフサートは完全に死んだ。
自分が、この手で、殺したのだ。
それは間違え様のない事実として。
「おいおい、らしくないなー」
呆れたようなドーザの言葉に、思わずぎろりと相手を睨みつけていた。
勿論、わかっている。こんなのは八つ当たりで不当なものだ。わかっていても触れて欲しくないことはある。わかっていても感情は発露を求める。
「っかねぇなー。
そんなことよりも、考えるこたぁあるだろ? あいつ、随分と困ったことになっているんじゃねぇのか? ちゃんと話を聞いてやったほうがいいんじゃねぇの?
こんなところでがなりたててたってどうにもならんだろ。お前の気持ちなんざ二の次なんじゃねぇの?」
がりがりと後ろ頭をひっかきながら言う男を見返し、マーヴェルは奥歯を噛み締めた。
「……自己嫌悪で死にそうになっている人間に、ムチを打つなよ」
「生きているだろ」
「なぁ、リドリーは……」
いつも通りあっさりと返す友人の言葉に、ゆっくりと体内の熱が引いていく。泣き笑いの顔で問いかけた。
「リドリーは、もう、オレの手なんて必要としていないんだな」
普段からティナの背にいた女性であったけれど、困った時は救いを求めるようにその眼差しを向けてくれた。言葉にできずとも、その眼差しが求めてくれた。
儚くて、守ってあげないと立つことすらできないのではないかという少女は、もういない。
海賊を前にしても、自分の足で立って対処していたリドリーは、自分の知るリドリー・ナフサートとは、少しも重ならない。
「なんてぇ顔してんだよ。
お前の手? 一応船の船長だろ。送ってやるんだろ。ティナの元に。十分必要としているだろ」
ドーザは嘆息混じりに言葉にし、どんっとマーヴェルの肩を乱暴に叩いた。
「おまえさ、もうそろそろ対等に見てやれよ。今現在のあいつをさ。
守らなくちゃならない庇護者じゃなくて、こどもの頃からの婚約者じゃなくて、傷つけちまった相手じゃなくて――リドリー・ナフサートっていう個人をさ」
ぐりぐりとドーザの拳がマーヴェルの胸を押した。
胸を押しているのに、ドーザの言葉はマーヴェルの背を押し続ける。
「何より、これからあいつにはちっときっつい現実がくるからな」
「ドーザ?」
「……ティナと、まともに会話ができるかどうか」
ぼそりと落ちた言葉には鎮痛が滲み、しかめた顔を緩く振った。
「お前も、覚悟がいるぞ」
一度ふるりと振られた顔が、今度はひたりとマーヴェルへと向けられる。真摯に向けられた眼差しの強さに、その覚悟とやらの重さを測りかねた。
ドーザが対面したというティナと、そして自分が最後に見たティナとを重ね合わせる。いや、正確に言うのであれば、ティナとはあれ以来――リドリーが家出をしていらいまともに会ったこともない。幾度か偶然に顔を合わせはしても、完全に無視を貫いていた。
一度だけリドリーとティナの父親に呼び出され、ティナが塞ぎ込んでいるという話をされたが、その時もあえてティナと顔をあわせようとはしなかった。
会う必要を感じていなかったし、ティナがどうなろうとそこに自分の責任が発生するなどと思うことじたいが腹立たしかった。
――ティナの支えになってやってくれ。
そう言われる意味が判らなかった。
ティナだけが悪いのではない。もちろん、自分が悪いのだ。それでも、唯一大事に想う相手を失ったマーヴェルに、誰か他のことを気にかける心の余裕など欠片も無かった。
自分以外の誰かに罪を擦り付けたいという、浅ましい心も否定できないし、しないだろう。誰かをただひたすらに憎みたかった。ときにはリドリーにさえ矛先が向いた。
何故、一言も告げずに行ってしまったのかと。
何故……怒って、詰め寄って、詰ってくれれば良かったのに。
身勝手にそんなことまで思っていたのだ。
「正直、リドリーと会うことでティナが少しはまともになれるんじゃないかという気持ちもあるが、ヘタすると逆にもっと壊れるかもしれない。
それくらい……今のティナは危うい」
未知の覚悟をずいっと突きつけられ、マーヴェルはゆっくりと唇の間から呼気を落としてドーザの脇をすり抜けた。
「おい?」
「リドリーのところに、戻る。
わかっているよ。逃げてちゃダメだ――昔の彼女じゃなく、今の彼女と、きちんと向き合わないと、ダメだって」
幾度も深呼吸を繰り返す。
船の狭い廊下の臭いは、酒と男臭さとが混ぜあって、あげくすえたような微妙な香りが充満している。深呼吸するには決してむかず、自分を落ち着かせようとしているというのに、おもわずむせた。
むせたのと同時に握った拳に鈍い痛みを感じて、苦笑が落ちる。
先ほど叩き割った壁の破片が未だ残り、おもむろに口をつけて木屑を吸い出し、唾と一緒に吐き出す。
一歩一歩、甲板へと戻りながら――今の彼女について思いを馳せた。
儚い笑みを浮かべて、いつでもティナの後ろにいた彼女。軽く伏せた眼差しは、どこか浮世離れてさえいた。
その場にいるのに、どこか遠くにいるようなもどかしさを身にまとっていた彼女。妖精のように、ふっと消えいってしまいそうな危うさ。
音をさせて甲板への扉を開くと、外光の眩しさに目元をすがめた。
すがめた視線の先に、幼い少女に慰められているリドリーがいる。
決して贅沢とは言えない、シンプルなワンピース姿。一見すればあの頃と何もかわっていないようにさえ見えるのに。
少女にすがっていた手を離し、すくりと身を立て直してリドリーは拳を握り締めた。
「ああっ、もぅっ。
矢でも鉄砲でも持って来いってなものですよ。あたしは強く生きますっ」
「はい、ご立派です」
少女の賛同に、少年が「雑草並みに強いよな」と投げやりに相槌をうつ。リドリーがそれまで見たこともなかったような意地の悪い微笑を浮かべて「マリー、アジス君がいじめます」と告げ口していた。
先ほどまでの緊迫感など完全に拭い去り、すでに三人で笑い合っている姿にも愕然としてしまうが、何よりその笑顔に――ころころと変わる表情に、突き上げられた力強い拳に、以前のリドリー・ナフサートを見ることはとてもできなかった。
不安そうに、困ったように、泣いてしまうのではないかという微笑を浮かべていた彼女は、もう、いないのだ。
「リドリー」
声をかけると、びくんっと体が跳ねて、少し気まずそうにこちらを見返すリドリーに、マーヴェルはもう一度その名を呼びかけた。
「リドリー」
儚くもない、ただ確かな君。
彼女とは違う、君。
彼女と同じはずの君。
「な、に?」
マーヴェルへと向けられる眼差しは、以前のように眩しさをにじませたりはしない。照れすらない。
ただどこか不安そうに。
「このあとの運行予定と、あと――さっきの船について、この船の主人として少し聞いておきたいんだけど、いいかな?」
ゆっくりと問いかけると、リドリーはちらりと少女へと視線を向けて、けれど先ほどまでの不信なものではない、しっかりとした眼差しを返してよこした。
「正直に言えば、あたしにも説明、ちゃんとできるかどうか判らないけど。ええ、判った」
すっと片手を差し出すと、以前の彼女であればおずおずとその手に自らの手の平を重ね合わせてマーヴェルに委ねてくれたであろうに、彼女はかるく首をふるだけで跳ねのけた。
心のどこかがつきりと傷んだ。
こんなことを言ったら、リドリーはどんな風に言うだろう。
こんなことを言ったら、オレは正気を疑われるかもしれないけれど。
君は――今、生きているんだね。
「マーヴェル? あの、手、ちょっと怪我していない?」
眉間に皺を寄せてみあげてくるリドリーに、マーヴェルは泣き笑いの顔で軽く首を振った。
「それはいいんだ。それより、まず、謝らせてくれ」
「……いや、もう色々といいんだけど」
「ちがう。
さっきのことだ。さっき、海賊に君を差し出すように言われた時、オレは最終的に君を差し出す決断をした。この船の船員や積荷を守るために、そうするのが船主としての義務だと思った」
淡々とした言葉に、しかしリドリーは傷つく様子もなくあっさりと微笑んだ。
「それは、間違っていないと思うわよ?
マーヴェルはこの船に責任があるのだし。あの場合はむしろ当然だと思う――だから、謝ったりしないで?
というか、むしろアレが来たのはどちらかといえば不本意ではあるけれど、あたしのせいみたいだし」
リドリーは言いながら表情を曇らせ、嘆息すると、勢いよくがばりと頭を下げた。
「ホント、さっきのはまるきりあたしの事情です。
大変な思いをさせてしまって、むしろ謝るのはあたしのほうよ」
「リドリー、何か困ったことになっているのなら言ってくれないか?
オレにできることは微々たるものかもしれないけれど、君の力になりたいんだ」
マーヴェルはじっとリドリーの眼差しを見つめ返した。
「君の、友人として」
――元婚約者でも、婚約者でもなく、友人として。
きっぱりと告げられた言葉には決意があった。
二人の間の関係を新しくするという決意。
呆れる程にきっぱりとその言葉を向けられたリドリーは、相手のあまりにも真摯さに喉の奥を引きつらせて空笑いを浮かべてしまった。
――リドリー・ナフサート大嫌い選手権の優勝者が陛下で、優勝者から面会を求められてしまいました、テヘ。
……優勝賞品でも求められているのでしょうか?
それってナニ?
まさか首とか言わないデスヨネ?
なんて言ったら、まず間違いなく頭悪い人に思われるだろう。
「それと、もう一つ大事な話がある」
リドリーの懊悩など気づかぬマーヴェルは、一度唇を引き締めてじっとリドリーを見下ろした。
「あとでドーザから話を聞いて欲しいんだ。
少し、君にとって酷な話になるかもしれない」
そう口にするマーヴェルの眼差しは、痛ましいものを見るように眉間に皺を寄せた。
「なに? 何の話?」
酷な話?
相手の真剣な調子に胃の腑の辺がよじれるような気持ちに襲われる。
はっきりいえば、この一年というもの酷な話の連続だ。
婚約者と妹には裏切られるし――まぁ、これはもうどうでもいいけど。
変態には付きまとわれるし。
変態が初恋の相手だし、変態が恋人だし、変態に捨てられますし。
ずんずんと頭の上に重石が乗せられ、だんだんとやさぐれはじめてしまった気持ちに被せるように、マーヴェルは続けた。
「ティナは、君が死んだと思っている」
「――まぁ、そんなこともあるかもしれないけど」
一瞬意外な気持ちできょとんとはしたものの、その言葉に驚く要素はあまりなかった。
手紙一つ残さずに失踪したのだ。純白のウェディングドレスをずたずたに引き裂いて、婚約指輪を暖炉に放り込み。
そんなふうに人がひとり消えたのだから、そういう風に結論づけられても仕方ない。
だから何をそんな深刻に言うのだろうかと眉を潜めたのだが、相手はさらに淡々と続けた。
「君が、ティナの目の前で自殺したと言っているらしい」
「……いや、それはさすがにナイですよ」
さすがにそれは嘘だ。
ティナと最後に会ったのは、失踪する当日。
朝食の席であった筈だ。
夜のうちに逃げようかとも思ったが、夜の内に抜け出したことが知られたら、逆に乗合馬車が抑えられてしまうかもしれないと、朝食をしっかりと食べてから逃げたのだから。
当たり障りの無い会話を交わし、喧嘩すらしなかった。
ティナが出かけた頃を見計らったのだから、抜け出すところも見られていない筈だ。
混乱するあたしに、マーヴェルは尚も続けた。
「少なくとも、ティナは本気でそう思っているみたいなんだ。
ドーザの見たティナは、それが原因で――とても言いづらいことだけれど、どうやら正気を失っている」
彼自身戸惑うような、けれども嘘など見えないその言葉に、あたしは言葉を失った。
あたしの中のティナはいつだって、天真爛漫で、悪気はなくて。
ただただ、笑っていた。
それいがいの姿など、少しも想像ができない。
大好きで、大嫌いなあたしの妹。
***
張り詰めたような空気はもともとあった。
だが、今のそれとは比べるべくもない。
もともと静寂にして秩序高い神殿内が、それ以上に謎の緊迫感に満ちている。まるでちいさなシミ一つすら許さないような、そ゜んと張り詰めたような冷たい空気。
痛みのようにそれを感じて、ルティアはぶるりと身を震わせた。
目を背けたいと心は言うのに、どうしてもそれができないのは――血のせいなのか、友のせいなのか、それとも――
「ルティア、何故、ここに?」
静かな問いかけに、ルティアは軽く会釈を示した。
「養父が、心配しておりました」
言葉はどうしても冷ややかになる。
視線は逸らした。
そこにいるのは、もはや大嫌いな竜公でしかない。
物語にあるように――国の守護神たる、身の内の獣。
愛し、そして憎んだ祖父と変わらぬ。
「言いたいことは、判っているよ。
ただ、どうしてか……そう、飢えてしようがないんだ」
どこか自重を含めるような微笑は、凄絶な程に美しい。以前よりずっと人から離れたと感じさせるほどに。
「まるで、体の中心に穴でもあるように――そこからどんどんと私の中の何かがこぼれ落ちていく気がする」
「――」
「砂のようにさらさらと、まるで指の隙間から大事なものがこぼれ落ちていくかのように。ああ、ルティア、その穴を、あなたであれば埋めてくれるのであろうか」
微笑と共に向けられた言葉に、ルティアはあっけにとられて目を見開いた。
数歩先に立つ人は、香を焚き染めた正装で軽く手を差し出してくる。
「自分の中で何かが辻褄があわないような、奇妙な感覚だ。昨日と今日とが隣合わぬかのように。ところどころ記憶がおかしいような――おかしいといえば、そう、まさに君だ」
「公……」
「いつまで、ここにいるんだい?」
差し出された手におそれを感じて、ルティアはそつと一歩退いた。
竜公の背後には、ルティアにとって最愛の婚約者エルディバルトが控えている。軽く伏せた眼差しを床に向け続けている相手へと、救いを求めるようにそっと視線を向けても、エルディバルトは身動ぎすらしない。
「何を、おっしゃっているの?」
とくんとくんと耳を流れる血脈がはっきりと感じられる程の緊張がたちのぼる。
喉の奥が乾いて、ルティアの声がかすれた。
「君は神殿の最奥に入る頃合だろうに」
「――」
「それとも、そう……そんなことよりも、その身の変化について訪ねたほうがいいのかな」
軽くかしげられた首。
眼差しはゆっくりとルティアの口元に落ち、胸元に落ち、そしてやけにゆっくりとした動きで腹部へと落ちた。
冷ややかな微笑とともに。
「どうにも記憶が曖昧で、とても不思議なのだけれど。
君の腹の子は、私の子なのかい?」
心から不思議だというように言葉にしながら、けれどそう告げる表情はぞっとする程冷徹さをはらみ、ルティアは自らの腹部に咄嗟に手を当てて目を見開いた。
耳に入り込んだ単語が理解できずに、息すら止まる。
腹の子、腹に、子。
それだけでも驚嘆すべきだというのに、その父親のことでとても不可解な音を発してはいなかったか?
誰の子、と。
「それとも、君も、私を裏切ったのかい?」
そう淡々と告げる竜公が――先代竜公、自らの祖父に重なり合い、ルティアは息を飲み込み、その場で崩れ落ちそうになったが、その腰をさらうように手が伸び、控えていたエルディバルトがルティアと竜公の間とを割った。
庇うように。
――お前も、お前達も……私を裏切るのだね。
幼い頃に聞いた、ぞっとするような祖父の言葉。
そのあとに起こった惨劇を、ルティアは今も昨日のことのように思い出せる。
その記憶が一気にルティアの脳裏をかけゆき、喉の奥で悲鳴が凍りつく。
祖父を裏切っていたのは、祖母であった。
けれど、祖父はあまりにも祖母を愛しすぎて、その姿を、その嘘を認めることができなかった。幾年も幾年も、まるで消えぬ澱のように蓄積されていった、それは毒のように。
沈み、澱んだ毒はやがて許容を超える。そのはけ口として、先代竜公は数多の人々を傷つける愚行に手を染めていったのだ。そしてあの日、祖母の死によってぎりぎり繋いでいた何かすら手放した。
「公っ、お間違い下さいますなっ」
「エル? まさか君も――私を……」
「違いますっ。公っ。ルティアは私の妻にございます。当然、ルティアの腹に子が居るというのであれば、それはすなわち私の子に存じます。
お忘れですか? 公。
公とルティアの婚約は、公により八年前に解かれておいでです。ルティアは私の妻なのです」
切羽つまるように言葉を吐き出すエルディバルトの背に守られ、ルティアは自らの体をぎゅっと強く抱きしめた。
「私もルティアも、公を裏切ってなどおりませんっ」
エルディバルトの一声が神聖な誓いのようにその場に木霊し、その場にいる誰もが息を呑んだ。
一拍、それとも二拍。
ゆるりと時間が動き出すと、彼らの主はそっと吐息を落として視線を逸らした。
「――そう、ああ、そうだ。そうだったろうか?
いや、この記憶は違う。これは私では……」
呟き、落ちた言葉に悲痛が混じる。
自らの内からリドリー・ナフサートを消去することで、その身の内の大部分を封じてしまった為の混乱。それゆえの記憶の欠落、それが判るルティアは、腹部に当てたままの手をきゅっと握りこんだ。
リドリー・ナフサートがこの人物に占める割合は、いかほどのものであったのか。
ルティアは誰よりも知っている。
「エル」
「――」
「はい」
「エルディバルト――私は、私、ですよね?」
どこか心細そうに囁く言葉に、エルディバルトは緊張していた体を緩め、その場で膝を折った。
「あなた様は当代竜公にして尊き人、我が主にございます」
儚い微笑を浮かべる人に、ルティアは唇を噛んだ。
何か言うべき言葉を探すが、言葉が口をついてこぼれない。ただ相手から指摘された腹部だけをぎゅっと守るように手の平で押し当てていたが、ふいにエルディバルトは主に頭を下げた。
「公、ルティアは身重とのこと。ここの寒さは身に応えましょう。
下がらせてよろしいか」
「好きに」
主の応えにエルディバルトは目礼し、すっと立ち上がるとルティアの手首を掴むようにしてその場を辞した。
広いホールの出入り口である両開きの扉を背に閉ざし、廊下へと出た途端にエルディバルトはルティアを掴んでいた手を離し、今度はルティアの肩に手をおいて語りかけた。
「ルティア、東方のムーアに私の山荘がある。
城とは言えないような小さなものだが、すぐにそこに行くんだ」
「なにを?」
「……私は間違っていたのかもしれない」
独白のようにぼそりと呟き、エルディバルトは首を一度ふった。
「このままではあの方の均衡はやがて崩れる。いや、もう崩れているのかもしれない。陛下はその御世にてすでに三人の竜公の主であった。もし、このまま当代を御せぬと判断したのであれば、場合によっては代替わりすら検討されるだろう」
自分の主に対する冷静な判断に、ルティアの眼差しが見張られた。
竜公を誰より崇拝しているエルディバルトらしからぬ言葉であった。
「今はまだそれでも歴代の竜公に比べればマシとしても――記憶の混乱が何をきっかけにあの方自身を失わせるやもしれん。
あなたは、ここにいてはいけない」
「エディ様っ」
「私は一代爵位しかもたず、領地すら持っていない。あるのは父から受け継いだ幾つかの家屋とそれを維持するようにと与えられた金銭のみだ。それでも早急にその全てをあなたに――私の妻であるあなたと、私の子に残せるように取り計らう」
恐ろしい程張り詰めた空気と言葉に、ルティアは我知らずゆっくりと首を振った。
どくどくと心臓が激しく鼓動する。
恐怖が足元から這い上がるように背筋に悪寒が走っていた。
「生きなさい」
それは決別の言葉であった。
「エディさまっ」
伸ばした手が相手の胸に触れる。熱すら伝えぬ騎士としての鎧が触れる。
「私は公と共に死ぬ身だ。
だがあなたは違う――ルティア」
エルディバルトの唇がルティアの名を告げ、たった一度だけ口づけた。
「愛している」
最後の一言と共に背を向け、巨大な扉の向こう側に身を翻してしまった男を呆然と見送り、ルティアの左手は変わらず腹部に当てられ、もう一方の手はぎゅっと強く、痛みさえ伝える程に拳を握りこんだ。
「身勝手だわ……」
言葉がこぼれ落ちると、感情は一気に逆流した。
「あなたも、公もっ、どうして男は皆身勝手で独りよがりなのっ。
愛しているなら手放さないで。愛しているのであれば一緒にいてくれればいいではないのっ。
どうして、どうしてあなた達はそんなふうに愚かなのっ」
詰るように吐き捨てたルティアはくるりと身を翻し、決意のこもった眼差しを廊下の先へと向けた。
愛するがゆえに記憶すら抹消する者。
愛するがゆえに手放す者。
どちらも度し難く、なんて愚かしい。