竜と女神
えぐられるようなこの痛みを、知らない訳ではなかった筈なのに。
それでもあの時と随分と違う。
稚いあの子の背を見送った時に比べ、なんと大きな喪失であろう。
あの時のように、あの子の中から自分という存在を消してしまえばこの気持ちももっと落ち着いたのだろうか。
自ら一人だけの記憶であれば、それはただの幻に同じと諦められたあの時のように。
穏やかな気持ちで相手の幸福だけを望めた時のように。
だが、それはできない。
他人の記憶を封じることは、その者の心に傷を作る。
たった一度でも危ういというのに、二度、三度と記憶を操ることであの子の心を傷つけ、歪め、殺すような行為はもう決してできない。
つっと指先を永久凍土に触れさせ、ただ眠り続ける竜を見つめたその時――眠っている筈の竜の瞼が淡く振るえ、ゆっくりと……開いた。
「――」
はじめて見た変化に一瞬目が見開かれ、心は動揺したが、けれど恐ろしいという気持ちを与えはしなかった。
そう、竜は眠っているだけではなく、封じ込まれているのだから。
そうしてこの人里はなれた山の奥深く、氷穴の更に深い場所に閉ざされ、ただ強大な魔力を垂れ流し続ける。
麗しい女神に封じられ、後には自らの魔力と人の魂でもって封じられ続けている。
身じろぎできぬほどにとらわれて。
その眼差しがわずかに動いたところで、何も変わりはしないのだ。
震えた眼差しがゆっくりと閉ざされる。相手にはこの身など見えていないのか、それとも少しも気にかけるものではないのか。その瞳の色は透明で何かを考えているなどとも知れぬ。
そっと、唇の隙間から呼気が落ちた。
額を冷たい封印に触れさせ、自嘲気味に笑みが零れ落ちる。
眦に熱を感じれば、それは自らの愚かさを示すように滑稽に響いた。
「……」
小さな、小さなぼくのリィ。
そう呼び続けたのは、決して手に入れない為の戒めであった筈なのに。
いつまでも小さな僕の庇護者。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ただただ見守って、ただただ幸せでいてくれればと願っただけなのに。
決して美しくもない欲望が、醜い嫉妬が――今を作り出してしまった。
手放すことは判っていたのに。
離れていくことは判っていたのに。
「こんな気持ち……そう、お前のように封じ込められてしまえばいい」
――苛立ちも、嫉妬も、悲しさも。
何より、与えることもできずに、ただただ求めてしまうこの醜き愛という名にも劣る傲慢さを。
確信を求めるようにゆっくりと吐息を落とし、一度開いた眼差しをまた閉ざしてしまった竜にささやきかける。
――力を貸しておくれ。
狂った竜よ。
悲しみと憎しみに囚われた哀れな竜よ。
***
「あんたがリドリー・ナフサート?」
世の中っていうのは、こう――何と申し上げましょうか、つつましやかに控えめに言わせていただけると、変な人が多いですよね。
目の前に海賊が居ますが、そうか……そうか、海賊っていうのは「俺は海賊だ」っていう衣装を心がける生真面目さとか勤勉さを持っているのでしょうかね。
もう一目でわかりますとも。
近寄るな、危険。
混ぜるな危険じゃないですよ? 近づくな、危険です。
「見ちゃいけませんっ」と子供の腕を引っ張る類の感じですね。
あいにくとこの場には「関わってはいけません」と腕を引いてくれるような方はいない挙句、どうぞどうぞと引き出されてしまった訳ですが。
「で、こちらが……」
あたしはどこか脱力したような気持ちでつぶやいた。
「エルディバルト様のお兄君でいらっしゃいます」
あたしの言葉に応えたアマリージェは、それでも自分の言葉に確信が無いとでもいうのか、微妙に視線を逸らしてみせる。
いえいえ――気持ちは判りますよ。
ええ、ものすっごく。
エルディバルトさんはともかくといたしまして、モルティバルさんちのご兄弟といえば――血筋だけは阿呆みたいにいいらしいですし。
それでもって、アレがアレでコレがコレ。
是非とも長男とはお知り合いにはなりたくないものです。
次兄が海賊、三男が髭の騎士、長男に山賊が現れてもおかしくありません。
「三兄弟の真ん中だ。で、あんたがリドリー・ナフサート?」
うわー、否定することなくさらりと言いやがりましたね?
そうでなければいいのにとちらっと思っていたというのに。
自己紹介されてしまうと判っていても喉の奥で何かがつまる。
やっぱり間違いなくアレの血縁なのですね。髭に心血を注ぎご主人様に尻尾をふりまくっているアレの兄なのですね。
何だか慌しく甲板上が騒いでおりましたが、やがて引き出されたあたしは、微妙な空気の中で髭の騎士であるエルディバルトさんのお兄君という方とご対面させられてしまった訳です。
もう、いっそ昼寝の時間ということで引きこもってしまいたい。
現実逃避はおてのものですよ。
「あんた、リドリーをどうするつもりだ」
それまで微妙な表情をしていたマーヴェルが硬い口調で、一応あたしをかばうかのような言葉を口にする。あたしが視線をマーヴェルへと向けると、しかし彼はついっと視線を逸らした。
その顔色は青白く、どう見ても悲壮。
彼の心情を思うと謝罪してさしあげたい気持ちになる。こういう訳の判らない事態に巻き込んでしまって本当にごめんなさいと。
「兄さん、あんたに用はねぇよ。で、あなたがリドリーか? 違うのか?」
「リドリー・ナフサートをお探しでしたら、そのようですが。エルディバルトさんのお兄君がいったいぜんたい何の用ですか?」
もう自分でも何と返してよいものやら。
「悪い、俺はあまり事情を聞かされていないんだ。
ただ、うちのおじさんにあんたを連れて来いと言われているだけで」
「……おじさん?」
「ああ。人使いの荒いおじさんでな。こちとら好きなようにさせてもらっているから別に構いやしないんだが――信じられるか? この広い海で女一人とっ捕まえて連れて来い、なんて。
尋常じゃねぇだろう? 頭悪いと思わなねぇか? いっておくが、この船を捕まえるまでにすでに二十以上の船と接触したぞ。
おかげで大砲も使いすぎだ。必要経費で落ちるのか、これは? まぁ、請求はするが」
賛同を求める台詞に、にやりと口角をゆがめる。
海賊に必要経費といわれても、そもそも大砲を使わずとも良いのでは?
色々と突っ込みどころ満載ですよ、エルディバルト兄。
そして、「俺は海賊だ」という看板を背負ったような兄上殿は「で、おまえさんは人殺しとか強盗とかの類でもした訳か?」と言葉を続け、あたしはあまりのことに目をむいた。
「はぁっ?」
「だーかーら、俺は事情をしらねぇって言っているだろう。俺は本当に言葉一つで放り出されてるんだよ。
命令なら仕方ないけどな。で、女一人にわざわざ俺を出そうっていうんだから、おまえさんがそれだけ重要人物ってことだろう? ま、重要か要注意かは知らんが」
「あなたのおっしゃるおじさんって竜公ですか?」
ユーリはオジサンという年齢にはちょっと違いますが。
眉間に皺を寄せてたずねると、相手の口から「竜公は俺だが?」と返される。
それこそ驚いて口をぽかんっとあけたあたしに、相手はしてやったりという様子で笑い出した。悪戯が成功した悪がきそのものの表情だが……エルディバルト兄ということは、いったい幾つですか。
「あえて言うなら、東海の竜公さ。
海ではそう名乗っている――ジェルドの姫がいるってことは、あんたのほうこそ竜公の関係者だろうに」
からかいを含む言葉に、しびれを切らしたように突然マーヴェルがあたしとエルディバルト兄の間に入り込んだ。
「とにかく、いったい何なんだ。
リドリーが殺人だの強盗だのっていうのは嘘なのか?」
って、ちょっとマーヴェル。
その話を信じたのか?
あたしは唖然とその背を見つめたが、相手は飄々とした様子で笑う。
「嘘かどうかは知らん。俺は何度もいっているがその女――失礼、その女性をお連れしろと命じられているだけだからな。ただ、わざわざ俺を使うくらいだから、その女性が何かしら意味があるってことくらいしか。なに、お前さんってば俺の冗談を本気にしたのかい?」
そのからかうような口調に、マーヴェルはぐっと拳を握り締めて憤りを示した。
「とにかく、あんたがリドリー・ナフサートなら悪いが俺と一緒に来てもらう」
「嫌です」
――ユーリがあたしを探しているのではないか、なんて……一瞬浮かんだ考えが音をたててしぼんでいく。
ユーリがあたしを探してくれて、呼び戻そうとしている……なんて、一瞬でも考えてしまった自分に腹がたつ。
あそこまできっちりと拒絶されたのに。
屑入れに入れるがごとくにポイ捨てされましのにっ。
「おじさん――おじ……って、あれ、あの人ですか?」
「どれ?」
「ちょっと恰幅のいい、唇に小さな引き連れたような怪我のある白いものが混じり始めた」
「おー、それそれ。って、あんたいい度胸だな」
おかしそうに海賊は肩を揺らし、にやにやと口元を緩めた。
「そういえば前回も探されていたような」
あの時もおじさんの用件に関しては後でとしておきながら、確か放置してしまっていた筈だ。だが、あのおじさんにいったいどのような用があたしにあるというのだろうか。
「じゃあ話が早い。さっさと――」
「ですから、嫌です。
あたしはこれから自分の故郷に戻って、妹に会うんです。おじさんがどうしてあたしを探しているのか判りませんけれど、嫌です」
あたしは何だかむかむかとしてくるお腹を抱えつつ、更にきっぱりとした口調で言い切った。
そう、何だか判らない状況に腹をたてているのだ。
ユーリからの呼び出しだとて、いまさら何だっっっっとちょっと怒りを感じつつも、それでもやっぱりどこか嬉しいだろうに、今あたしを呼んでいるのはあのおじさん――おじさまだというのだから。その呼び出しに応えるいわれはないはずだ。
「リドリーっ」
慌てたようにアマリージェがあたしの袖を引いたが、面前の海賊は何が面白いのかさらに笑い出す。
「いやー、本当にマジで?」
「何が面白いんですか」
「――だがなー、あんたを連れていかないと俺が命令違反っつーことになるんだよ。俺さ、海では本当に好きにやらせてもらっているし、それなりに忠誠心? ってもんも持ってるつもりだしなー」
どうするかなーとにやにや顔でいいつのる海賊。
「あなたのおじさんには聖都に戻ったら一度会いに行きますと伝えて下さい」
何の用があるのか知らないが。
そう、前回も探されていたのだから何かしら用事があったのだろう。それにしたってここまでして探される覚えはまったく無いが。
「だから、それはマジなのか?」
海賊が口元を引きつらせつつ――どうやら笑いを堪えている様子で――もう一度確認してくる。
「妹のところに行きましたらコンコディアに帰る予定ですし、途中聖都もよりますから。その時に必ず行きますって伝えて頂いてよろしいでしょうか?」
言いつつ、いや、まて――この人エルディバルトさんのお兄さんだと思うからどうも調子が狂うが、実はお偉いさんではあるまいか? その人を伝書鳩のごとく使ってしまってよいものか、さらにいえばあたしはこんなに失礼な態度でいいものだろうか、いやいやもういまさらだ。
あとは野となれ山となれ気味の自棄ですよ。
「おじさまって、もしかしてとても偉いんですか?」
あたしは眉を潜めながら尋ねていた。
いや、きっと偉いのだろうが――どうも偉いの基準が良く判らない。
だってですね、ルティアの養父であるユリクス様も偉い方で、ユリクス様にしてみても相手を敬っていたような。
眉間にぐぐぐっと皺を寄せてぼそりと口にした言葉に、何が耐えがたかったのか全身海賊エルディバルト兄はとうとう感情を押さえることを放棄したらしく、ぶふりと噴出し、近くにあった樽に両手をついて盛大に肩を揺らした。
その場が呆気にとられる程盛大に笑った挙句、ばんばんと樽を二度叩いた。
「よし、よーくわかった。
あなたの話は了承した――いやぁ、あんまり面白いからちょっとくらい命令違反もいいかなーっなんて思わされて、俺はいったいどうしたらいい?」
意味不明に自問自答気味な言葉がさらにツボでもついたのか、今度は腹をよじって泣き笑いにまでなってしまった。
「……この人、笑い上戸なの?」
という以前に私は何か面白いことを言ったでしょうか?
あたしはこそこそと一歩後ろに立っているアマリージェに耳打ちしたが、アマリージェは困惑した様子で「エルディバルト様のお兄君にお会いするのは初めてですので」と笑い上戸かどうかは判らないと口にしたが、ついついっとあたしの注意を促すようにアマリージェはあたしの袖を引いた。
「あのですね、リドリー」
「何?」
「あの方はエルディバルト様のお兄君様でいらっしゃいます」
「はぁ」
それは先ほどから幾度も聞かせて頂きました。
アマリージェからも、当人からも。
今更確認していただかなくとも大丈夫です。
アレとコレとは血縁関係です。
外見もさることながら、雰囲気がもうモロです。
「エルディバルト様のお父君様は王弟殿下でいらっしゃいます」
――ええ、恐ろしいことに以前そう聞いた覚えがございます。
ルティアいわく、無駄に血筋が良ろしい家系というやつですね。
「エルディバルト様および、お兄君様の伯父上君と申し上げますと――それはすなわち、陛下ということになると思うのですが」
実に慎ましやかに、ひっそりと……アマリージェはどこか可哀想な子を見るような眼差しであたしを見ていた。
そのときにぞわりと背中を走ったざわつきと共に、あたしは自分の愚かさをきっと忘れないだろう。
アレとコレは血縁関係。
それでもってソレすらも……幸せってどこに落ちていますでしょうか。
呆然とするあたしの前で、海賊もどきのエルディバルト兄は思い切り手を振り上げ「野郎どもっ、撤退だっ。ちゃっちゃと帰るぞっ」と号令を掛けたが、いや、こら、ちょっとまて。
ちょっ、まじめにちょっとまってください。
慌てて呼び止めようとするあたしの言葉は、悲しいかな海賊に扮した皆々様の「おーっ」という楽しげな掛け声やらに打ち消され、幾度どなったところで相手の耳に届くことは無かった。
――陛下の命令を無視していいのかエルディバルト兄。
それどころかあたしは大丈夫なのですか、エルディバルト兄。
あああ、髭の騎士の兄が海賊で、長男が山賊で――その事実は今のところないが――そのおじさんがへんなおじさんの挙句のこの国の陛下って……そもそも、陛下といえばリドリー・ナフサート大嫌い選手権優勝者ではありませんかっ。
あたしの脳裏に亡命がちらついても致し方ないと思われます。
***
――ひとつ、掛け違えたボタンは歪みを生む。
ぎしりと音をさせた歯車は、やがて崩壊の欠片へとかわる。
心の中できしんだ音を、その時はっきりと聞いた。
「下がれ」
報告を告げた男が悪い訳ではない。
それでも声は低く、鋭くなった。
「やつあたりはおやめ下さい」
癇に障る物言いに、さらに視線が鋭くなった。
ぎしりと食いしばった歯の隙間から「はっ」と音がもれ、苛立ちのままに言葉は音へと変化した。
「黙れっ」
「――貴方様の、お望みどおりでしょうに。
貴方様は、竜公の心に誰か特定の者が入り込むことをお望みではなかった。その果てに、導き出された結果です。
あの方が我々の思う程強い方でなかったのは実に残念なことですが」
――竜公が二人目の贄を召した。
以前の竜公であれば報告を聞くことすらなかった。
なぜなら、代々の彼等といえばまさに好き勝手に贄を食らい尽くし、その報告など耳障りとして耳に届くことすらない。
だが違う。
彼が二人目として名を下し契約を成した竜公は――自らの体の負担をよしとして、ぎりぎりまで贄を求めようとはしなかった。
わざわざ無理やり押し付けなければいけないことすらあったというのに、この週に入り、すでに二人。
これはすでに驚異的な数字といえる。
「当人が必要であるというのであれば、いたし方あるまい」
苦々しいものを感じながら、なぜか言い訳のように言えば、神殿官長ユリクスはまるで哀れむかのように眼差しを細めた。
「代々竜公は血を好む。
心がやがてそのように歪むのでしょう――それも道理、代々の記憶を受け継ぐ彼等にとって、初代より続く記憶は血塗られた人殺しの記憶。
当代も」
「うるさいっ」
はき捨てた言葉にユリクスはわざとらしく息をつき、ゆるりと顔を振ると一礼のみを残して身を翻した。
いくつかある道を違えることは今回に限ったことではない。誰も未来など見えないのだ。竜公でさえも――初代の魔女。今は女神と呼ばれるナトゥでさえも、その未来までは見通すことはできなかった。
後世にて自らが女神と呼ばれていることも。
見通すことができていたのであれば、彼女は同じ道を歩んだであろうか。
噛み締めた奥歯がきしみ、口の中に血の味が広がってゆく。
目を背けるな。
竜公の成すことは全て、主の責なのだと。
あがいてもあがいても泥の道は先に進まない。
同じところを延々と回り続ける愚かな獣。
それとも、自らの尾に噛み付く蛇のように。
「竜よ……」
――こんな世界など破壊してしまえばいい。
その言葉をぐっと喉の奥でくぐもらせた。