亀裂と海賊
――ツキリと胸が痛んだ。
開いた唇から、かすれるような音が漏れて、鉛でも飲み込んでしまったかのように息が詰まる。
開いた唇がゆっくりと閉ざされ、そのまま下唇を噛んだ。
泣きたいような気持ちが漣のように自らを攻め立てる。
だめだ。絶対に、呼べない。
以前にも何度かちらりと脳裏をかすめた事柄で、けれど今新たに決心しようとすれば、まるでからからに喉が干上がってしまったかのように口腔はひきつれ、言葉はとどまる。
咎人――ユーテミリア。
それは一人の女性の名前で、悪しき者として語られるもので、子供のころのようなもの知らずで軽々しく口にできるような言葉ではなくて、なにより――あたしのあの人に、向けたい言葉では無い。
あたしは無理やり抱きかかえられるようにしてマーヴェルに従いながら、あの人の名を呼ぼうなどと思った自分を罵った。
それをあの人の名前だと認めることだってイヤなのに。
そっと、小さな声で教えてくれた時の苦しげな眼差しを、今ではちゃんと覚えているというのに。
どうしてあたしは何度も同じことを繰り返してしまうのか。
ただ会いたい。
会いたいというだけで、あのひとを傷つけるようなことをしてしまうことができよう筈がない。
そう思ったとたん、さらに何かが水に叩き付けられるな大音響が響き、船体が思い切り揺さぶられる。本来なら慣れた船上のこと、激しい揺れにもたたらを踏むことも無い筈のマーヴェルだけれど、あたしの体を支えている為か、勢いをつけて壁に肩を打ちつけて、あたしの頭の上から痛みに堪える呻きを漏らした。
「大丈夫……大砲なんて普通船体に当てては来ない。一発うまくかすめたとしてもあっという間に船が沈む。獲物を沈めたらあっちにとっても大損だから」
ただの威嚇だよ。と、マーヴェルの顔を見上げたあたしに安心させるように言うマーヴェルに、あたしはぎこちなくこくりとうなずいた。
――もちろん、未練もないし、このところの彼の言動に色々と思うところはあるのだけれど、やはり一度は好きになった人というべきか、こういう時のマーヴェルは男らしく頼りになる。
だからといって、いつまでも抱きかかえられているのはたいへん居心地が悪いのだけれど。
「マーヴェルさんっ、あっちの船が判りました。
私掠船ですっ」
突然どこからか反響するように聞こえた怒鳴り声に、びくりと身をすくませたあたしとは違い、マーヴェルは張り詰めていたものを霧散させるかのようにふっと肩の力を抜いた。
「人騒がせだな……船を止めろっ」
舌打ち交じりにつぶやき、ついで怒鳴り返したマーヴェルに驚くあたしに、マーヴェルはあたしを離し、苦笑した。
「ここの領域で出る私掠船なら、国の御旗を掲げている商船に決して手は出さない。この近辺で何かあったのかもしれないな――ごめん、驚いたろう? あいつら荒っぽいから」
「私掠船って、何? さっき海賊って、海賊じゃないの?」
意味が判らずに問いかけるあたしに、マーヴェルは甲板へと続く方向へと体を転換させて歩き、どう説明するべきかと逡巡するように指先で宙をかき、唇を開いた。
「海賊だけれど――言ってみれば、国に許された海賊、国に管理されている海賊だよ。もちろん、国に管理されているから、自国の船を襲ったりはしない、他国の船だけを狙う。自国の領域に勝手に入り込んだ怪しい船だけを襲うことが許されていて、ま、公然の秘密になっているけれど、どこの国にもこういった話のひとつや二つはある」
うちでは東側の海域にしかいないけどね、と肩をすくめたマーヴェルはすでに先ほどまでの緊張を解いた様子で、廊下ですれ違う船員たちもすでに緊迫した空気を孕んではいなかった。
「海賊なのに国に許されるの?」
国に許される泥棒?
そんな馬鹿なと首をかしげるあたしに、マーヴェル自身もなんとも言いがたい様子で首をすくめて見せる。
「公然の秘密。
西に比べて東は守りが浅いと昔から言われていて、だからそれを補う為にそういった船が自衛の為にあるんだけれど、本業は軍艦だっていう話もあるくらいで」
軍艦……
口の中でその言葉をつぶやいたあたしに「何か情報でもあるのかもしれない。大丈夫だから、部屋に戻っていて」とマーヴェルは軽く手を振った。
なんだか色々なことが半端な状態にされてしまい、あたしは戸惑いつつも言われたように自分の為に用意された小さな部屋へと歩を進めた。そう、色々と中途半端。
マーヴェルとの関係も、きっぱりと細くつながっていた糸が切れたとはちょっと言いがたい。
あたしはなんとも奇妙な気だるさを覚えつつ深く溜息を吐き出した。
――理解、してくれていればいいのだけれど。
途中、更に階下の船倉から戻ってきたドーザに遭遇し「リドリー? 嬢ちゃんと坊主はもう船倉に突っ込んだぞ? お前は何してるんだよ」と驚かれた為、私掠船だから大丈夫だというマーヴェルの言葉をそのまま伝えた。
「ああ、なんだ。にしても乱暴な奴等だな」
憤慨するように鼻を鳴らしたドーザは舌打ちし、くるりと身を翻した。
「二人とも出してやるか」
「いや、でも本当に大丈夫なの? よく判らないけれど、海賊なんでしょう?」
一応の説明は受けたが、それでもなんとなく安堵しきれない。自分はともかく、アジス君やらアマリージェに何かあってはたまらない。あの二人はまさに巻き込まれてしまったようなものだ。
あたしの為に。
ええ、本当に。あたしなんかに付き合って何かあった日には御領主様に申し訳がありません。それでなくとも御領主様にはいろいろとご迷惑をかけているのに。
「戦争中の風習の名残さ、私掠船なんてのはさ。
今は密漁だの何だのの船を威嚇して追い出すのが主な仕事で、自国の船を襲うなんてことは無いから安心しろ。ま、停船命令ってことは何か面倒なことでもあったのかもしれないが、こちとらただの商船だ。お前さんやらが気に掛けるこっちゃない。
部屋に戻って茶でも飲んでろよ」
しっしと手の先で追い払うようなしぐさをしたかと思えば、ふとドーザは足を止めてあたしを振り返った。
「リドリー」
先ほどの乱暴な言葉とはまったく違う。
がらりと表情を引き締めて、向けられた声がやけに真摯に届き、あたしは顔を上げて相手の眼差しを見返した。
無骨な手がおずおずと伸びて、ぐっと押しつぶす気かという力であたしの頭に手を載せる。
突然のことに戸惑い一歩退こうとしたのだが、相手の握力はすさまじく無遠慮にぐぐぐっと頭を押されて、あたしはその圧し掛かる重みに引きつった。
ちょっ、つぶす気ですか?
真剣にそうおもってしまったところで、ドーザは生真面目な口調で語りかけた。
「改めていうのはなんだか照れくさいけどよ。
お前さぁ、すげーよ――お前のこと、オレはマーヴェルを通じてしか知らないようなもんだったけどよぉ。あの頃、親の言いつけに逆らわない、いっつもつまんねー面した人形みてぇに思ってた。まわりの言葉にうなずいて、妹と付き合ってるような男と――ま、これは本人曰く誤解だっつーんだが、まぁそんな感じの男と唯々諾々と結婚しちまう流されっぱなしの女だと思ってた」
ぐいぐいとあたしの頭を押さえつけ、ドーザは淡々といい続ける。
「今はさ、ちゃんと表情もあるし――オレは今のお前のほうがずっとイイとおもうぜ?」
一息に言ってから、ドーザは自分の言葉が気恥ずかしかったのか、ぐしゃり破顔し、乱暴にあたしの頭をおまけのようにごんっと叩き「って、別にオレはお前のこと女として見てる訳じゃねぇからな? そこは勘違いすんなよ? 前のお前よりイイってだけで、そういうんじゃないからな、安心しろ」とそそくさと背を向けて歩き出した。
指の骨部分で叩かれたあたしはズキズキと痛む頭をなでつつその背を見送り、しばらくの間呆然としていたものだけれど、やがて痛みよりもおかしさがこみあげて、思い切り笑い出してしまった。久しぶりに声をあげて。
――日焼けした大男が照れて顔を赤らめた様子は、実に無骨で似合わない。
似合いはしないのだけれど、おそらくああいうのがいい男というのだ。
うん、あたしの知る内で二番目にいい男認定てしまおう。
あくまでも二番目。
勿論、一番目は当然の如くアジス君……いい男順位にユーリが入る日はきっと無い。
断言できてしまうのが、もう、ね。
***
甲板にマーヴェル・ランザートがたどり着くころには、その黒い船は堂々とした船体を真横にさらし、マーヴェルの商船との接合を果たしていた。
商船の船子達は息を飲み込み、相手側から勢いをつけて飛び乗ってきた男を凝視する。
私掠船などそうそう見かけることは無いが、長い間海上で生活している彼らが一度も私掠船に遭遇しないということは無い。
彼らは普通の船の船員達と同じように色あせた麻のシャツにズボンにブーツ――あからさまなナイフを腰に下げたりしていないのが通常だが、生憎とこの私掠船の船長は……大げさな上着をマントの様に引っ掛け、派手な赤いブーツでどさりと商船に乗り込むとニヤリと口元を緩めた。
「女を探している。
この船に乗っているようなら、すみやかに引渡していただこう」
女、という単語にマーヴェルは呆気に取られていたが、すぐに大仰に眉を跳ね上げた。
「悪いが見てのとおりの商船だ。客を乗せるものでもない。そもそも、あんた達はこの船に手出しは許されてない筈だが――それとも、仕事がなくて居直り強盗まがいに手を染め始めたのか?」
「口が悪いな、兄ちゃん。
もちろん、こちらはまっとうな海賊だからな。じゃあ、尋ね方を変えよう。リドリー・ナフサート嬢を探している。俺の主人いわく、お世辞にも美人とは言いがたくぱっとしない顔の、砂ネズミ的生き物らしいんだが」
顎の辺りをなでながら、何かをそらんじるようにして告げる男の言葉にマーヴェルはふと引っかかりを覚えた。
どうもそのフレーズに覚えがある気がする。
しかし、お世辞にも美人とは言いがたいとは何事だ。
リドリーは確かに美人という美人ではないけれど、決してぱっとしない訳ではないし、更に言えば砂ネズミなる奇怪な生き物のような訳でもない。
「……」
多少むかむかとしながらも、ふと相手の言わんとしている主という人をやっと思い出した。
リドリーと感動の再開を果たした――内容は多少怪しいがマーヴェル的には感動的な――あの画廊でであったやけに威厳のある壮年の男が、確かにリドリーのことをそんな言葉で示していたと思う。
ならばこの男の主人という相手はリドリーの知り合いだ。
しかし、相手は私掠船とはいえ海賊の頭目だ。
多少間をおき、マーヴェルはそれでもとぼけて見せた。
「悪いが、そんな娘に心当たりは無い」
「おや、そうかい。
まぁな、砂ネズミのような娘なんざ早々居るわけもないか。まぁ、悪かったよ」
海賊船の船長は肩をすくめ、自分の船に戻る為に身を翻した。
「とりあえず見かけた船にかたっぱしから聞いている始末でね」
「停船させたいだけならあんな風に物騒なことはやめてくれ」
「手っ取り早いだろ?」
顔だけをこちらに向けてニヤリと笑う男に、マーヴェルは眉を顰めた。
手っ取り早いという理由だけであんな大仰なことをするなど、この男は相当に酔狂か愚か者だ。
船と船とを繋いだ一本のロープに手を掛けたままの男に、マーヴェルは「その娘さんを探してどうすればいいんだ? そもそもその娘さんがいったいぜんたい何をしたっていうんだ」と追いかけるように声を掛ければ、相手は意地の悪そうな笑みを深めて見せた。
「殺人にかどわかし、強盗、詐欺――相当色々とやらかしてる極悪人ってとこだろうな。
俺等に依頼があるっつーのはそういうことだろう?」
ひゃひゃひゃとおかしな笑いを残して船を離脱しようとする男の背を呆然と見つめ、マーヴェルは蒼白になって主マストに救いを求めるように手を伸ばした。
その手がマストの硬い確かな感触に触れる寸前。
「ああ、そうだマーヴェル・ランザート」
思い出すようにくいっと顔を向けて声を掛けられ、内心で動揺を押し隠していたマーヴェルはハっと息をつめて「何だ?」と返してしまった。
途端、相手の男は掴んでいたロープを手放した。
ブランっとロープが振り子の要領で揺れる。
「海賊相手に嘘はいただけない」
男は肩をすくめ、嗜虐的な笑みを深めると振り上げた片手を払った。
「東海の守護、竜公の名において命じる。
野郎どもっ、目的の娘っ子はこの船だ。
かまわねぇからやっちまいなっ」
楽しげな声を合図に、数多の男達が怒号をあげてマーヴェルの商船に飛び移り、その場は一気に殺戮の場へと変わりそうな様相を見せ、マーヴェルは自らの失態にぐっと拳を握りこんだ。
殺人にかどわかし、強盗、詐欺――リドリーがそんな女であるのなら、それを庇いたてる行為で自らの船員達を危険に陥れる自分は船長たる資格など、無い。
ぎりっと奥歯をかみ締めれば、その強さに血の味が口腔に滲む。
リドリー一人を差し出せば、この場は……
しかし、リドリーがそんな犯罪を?
いや、げんに彼女はかわってしまったではないか。
マーヴェルの良く知る物静かで儚げな彼女は、もうどこにも居ない。
リドリー一人を差し出せば――
私掠船の船長と思われる男が湾曲した剣の切っ先をマーヴェルへと突きつける。その眼差しは狡猾に輝き、赤い舌先が唇を意味ありげになぞる。
怒号と悲鳴とをあげる船員達の声に、マーヴェルぐっと奥歯を一度かみ締め「まってくれっ」と唇を開こうとしたが、それより先に鋭い叱責が響いた。
凜とした鋭い声は、腹に溜まった鬱憤でも晴らすかの如く「お黙りなさいっ」とその場を一括し、あまりのことにシンっと静けさが騒ぎを引き裂く。
マーヴェルは青くなっていた顔色を白くさせ、ついで慌てて一歩を踏み出した。
「お嬢さんっ」
なぜこの荒くれ者達の騒ぎの中にこの娘が。
最悪の、更に最悪の場面を想像して気持ちが悪くなってくるが、かばわない訳にもいかずにあわてるマーヴェルとは違い、怒りすら内包した少女は、貴族然とした堂々とした態度で身をそらし、私掠船の船長を睨み付けた。
「私は北の竜峰を有する地、コンコディアが領主ジェルド・スオンが妹。
アマリージェ・スオン。
私の家は代々竜公にお仕えしております――その私の前で、よくも竜公の名を騙るなど。恥を知りなさい」
冷ややかな怒りの言葉に、私掠船の船長は自らの肩にとんとんっと刀の裏刃を当てて口笛を吹くと、わざとらしい程に片眉を跳ね上げた。
「おやおや、これはこれは――悪いことはできないもんだねぇ。
それにしたって勇ましいお嬢ちゃんじゃないか。それとも、この場が理解できない愚か者かい」
「私のことをどのように言うのも自由ですが。竜公を騙ることは許しません」
「ま、竜公といえば品行方正、聖人君子の代名詞みたいな男だしな。この俺が騙るにゃちょっと似合わないかい?
ま、嘘って訳でもないんだぜ。一応こう名乗っておかないと、竜公の威光ってヤツを時々は他国に知らしめておかないといけないんでね。
ま、そいつはいい。じゃあ、こっちも正式に名乗ろうか」
言いながら周りの男達を蹴散らすように歩み、手にしていた刀をぽいっと自らの部下に投げ渡す。
それまでアマリージェの背後にいたアジスがかばうようにアマリージェの前に出ようとしたが、それをアマリージェは片手でとめた。
海賊らしくなく胸元に手を当てて男がにやりと口元に笑みをはく。
「私はエイバーフィス・クム・セイナム・モルディバル――以後、お見知りおきを」
すっと楽しそうに上げた視線を見つめ返したアマリージェであったが、すぐにその顔は蒼白に変化し、かすれる声で呟いた。
「――モルディバルっ」
声にならない悲鳴をあげ、動揺したアマリージェは自分の発言に慌てて頭を下げた。
「申し訳ありませんっ」
「いやいやいや。いやー。そうか、なんだか聞いていたのとは違って、ジェルドの妹姫は元気な嬢ちゃんだな。
ああ、それと俺が竜公を名乗っているのは当人は知っているから、そう怒らないでくれよ。ただし腰巾着に言うと面倒だから言わないでおくのが賢明だ。あいつはうるさいからな」
突然空気をかえてしまったその場に、アジスは眉間に皺をきざんでついついっとアマリージェの裾を引いた。
「姫さん、知り合いか?」
「……知り合いではありません。存じ上げているだけで」
苦いものを噛むようにいいながら、アマリージェは言葉を続けた。
「エルディバルト様の、お兄君です」
その言葉にあっけにとられたアジスは、面前の見たまんま海賊姿の男を見返して思い切り口にしてしまった。
「兄弟そろってイロモノかよっ」
――髭の騎士の兄は海賊でした。
***
――約束するよ。
だから、ほんの少しの我儘に目を瞑っていて欲しい。
目頭を親指と人差し指の腹でもみほぐし、音のない嘆息をゆっくりと吐き出す。
「ジェルドっ、ジェルっ」
切羽詰るような声が自らを探している。
ばたばたと珍しく足音をさせて廊下をかけて、書斎の扉を乱暴に開け放って現れた幼馴染の姫君は、以前であれば絶対に見せないような狼狽を見せ、勢いのままにジェルドの向かっていた机に両手をついた。
「どうなっているのっ」
「――それはこちらが尋ねたいのですが。いったい何の騒ぎですか、ルティア様」
言葉すら平静さを失っているのか、意識して付けられている間の抜けたような語尾すらない。
「兄さまが、神殿にいらしているのよ」
それのどこが問題なのか。
むしろこの数日閉じこもっていたことの方が問題で、やっと心の整理がついたのだろうと安堵の息が口からこぼれたジェルドは、微苦笑すら浮かべて見せた。
「このところ何も手についていない様子でしたから、お勤めを思い出してくださったようで良かった」
静かに答えるジェルドに、痺れを切らしたようにルティアは乱暴にどんっと机の表面を叩き、その勢いでジェルドの手元近くに置かれているカップの表面が波たち、置かれている紙に染みを作った。
「勤めを思い出す?
そんなことはどうでもいいのですっ」
どうでもいい訳はないのだが、確かに彼の人にとって大事なのは唯一竜峰に眠る竜を眠らせ続けることだけなので、普段の勤めに関して言えば極端な話、居ても居なくても許される。
もともと勤勉な質ではあるのだ。
この一年――そうでもない日々が続いたが。
「やっと引きこもっていた兄さまときちんと話ができると思いましたのに、陛下のお心について勘違いをなさっていると話しかけた私に、兄さまがどうおっしゃったとおもいますっ」
声をあらげるルティアの前で、ジェルドは汚れてしまった書類に嘆息し、くしゃりと紙を丸めてぎゅうぎゅうと押しつぶした。
「兄さまは真摯な眼差しで私を見下ろして、何の話をしているのか判らないとおっしゃったのよっ」
――ルティア。
あの人が何か? 貴女は何を言っているのだろうか?
リドリー? 貴女の友人かい?
すまないけれど、貴女の友人のことで何か困っているのであれば、夕餉の時にでももう一度尋ねておくれ。今は勤めのさなかなのだから。
ルティアはぐっと拳を握り締め、まるで憎むようにジェルドを見返し、やがて眦を潤ませてゆるゆると首を振った。
迷い子のような幼さで。
「ジェルド……兄さまは、いったいどうしてしまったの」
その答えを熟知していながら、それでもそれを認めることができずにルティアは苦しげにジェルドへと答えを求めた。
ジェルドの口から否定の言葉がでることを望んで。
ジェルドの口から、そんな言葉がでることは無いと理解しているのに。