責任と尊き人
名前を呼べば、どんな場所にいてもあの人は、あたしの魔法使いは来てくれる――あたしはそれを知っている。
でもあたしは決めたのだ。
絶対に、二度と、あの人の名前を呼ばないと。
なーんて――すっごく呼びたい、今まさに。
なんという誘惑であろうか。
だがしかし、それは諸刃の剣だと骨身にしみして判っている。どの辺りが諸刃の剣かと言えば、
「話を聞いてよっ」
あたしを抱え込んでいるこのマーヴェルがまず問題。
あたしはですね、自分にちっとも自信も無いし美人だとも思っていないし他人さまに好かれるような人間では勿論ないです。もう胸を張っていえます。どちらかと言えば嫌われるタイプですよ。根暗な人間だし後ろ向きだし、できればこっそりとあたしを暗殺しちゃいたいんだろうなって人間を少なくとも二人も知っています。二人もですよ、嘘偽りなく。
すごいと思いませんか?
しかも王族――まず普通じゃない。
生きていて良かった。というか、もう現在生きているのは奇跡なのですよ、ええ本当にね!
それくらい他人様に嫌われる要素満載のあたしなのですけれど、何をとち狂っているのか知らないけれど、そんなあたしのことをユーリが好きだっていうのは今更疑ってもいないのです。挙句、おそらく、きっと、物凄く嫉妬深い。
だから、こんな誘拐まがいに連れ出されそうになっている今、ユーリの真実の名を叫んで救いを求めれば、あのあんぽんたん様ですかたん様でおかしな格好の人は来てくれると信じられる。だって魔法使いだし、もうなんだか何でもありの人だし、きっと頭が痛くなってしまうような裏技を何か持っていることでしょう。
ただし、自分以外の男に抱えられているあたしを発見した場合の――その果てが判りません。
匙加減というか、許容範囲というか。
あたしが出会ったことの無い聖人君子なコーディロイ様でしたら微笑を称えて仲裁をして下さるかもしれませんが、とりあえずその天然記念物的なその人とは出会ったことが無いので、あたしの知る範囲ではケッタイでキッカイな魔術師の表情は冷笑にしかならないような気がするのですよ。
ああ、あたし愛されていますね!――自棄っぱち――
「マーっ」
名前をもう一度呼ぼうとした途端、マーヴェルの足がぴたりととまりあたしはその意外な動きに肺を圧迫されるような感覚を覚え、うぐっと小さく呻いた。
抱えられていた体が今度は更に強く抱きしめられる。
いったい何がと思えば、怪訝気な声が「――女性との逢瀬を邪魔して悪いが、すまんが人を探している。これっくらいの大きさで、お世辞にも美人とは言いがたい上、ぱっとしないというか、まぁそれなりに愛嬌のある顔の娘なのだが、知らんか? どちらかと言えば砂ネズミっぽいかんじなんだが」と重低音で問いかける。
どこかで聞いたような気がする声にもぞりと動き、あたしはおそるおそる顔だけをそっと声のした方向へと巡らせた。
途端、ばっちりと目があった。
……変なおじさんと。
幾度か遭遇したことのある壮年のおじさん――オジサマは相変わらず威厳のあるお顔立ちで顔をしかめ、引き連れたような小さな傷のある唇をへの字にした。
「何だ、おまえそんなところにいたのか」
「お前って……まさか、あの、お世辞にも美人とは言いがたいぱっとしない娘って、もしかしてあたしですか?」
それ以下は聞かなかったことにする。
人間としての自尊心の問題で。ぱっとしない砂ねずみ……いやいや、ただの聞き間違いに違いない。
砂ねずみだけでもどうだろうかっていう単語だというのに、更にぱっとしないって。
あたしの言葉にかぶせるようにマーヴェルはムッとした口調で言った。
「誰だか知らないけど邪魔しないで下さい。
失礼――」
「邪魔はせんが、浮気はいかん」
しかめつい顔で言われ、マーヴェルは小さく呻いた。
おそらくオジサマが言った浮気という単語はあたしへと向けたものだと思われるが、今現在のマーヴェルには深々と突き刺さるものがあったのだろう。
浮気男マーヴェル・ランザート。
心当たりは思い切りあるようだ。
「浮気はいかんな。
わしも女が多くいるが、浮気はしとらん。全部ちゃんと囲っておるし、毎日きちんと順当に回るようにと色々と気を使っておるからな」
そーれーは、浮気じゃないのか。
囲えば浮気じゃないって、どんな状態ですか?
自分自身がもっとまともな状態であれば激しく突っ込みをいれたいくらいだ。
「何より、先代の妻は浮気が酷くてな。お前もそういう行動をとるのであれば、私はやはりお前を認める訳にはいかん。あれには生涯清く生きてほしかったが、それが無理であるのであれば決してあやつを裏切ることの無い女でないと駄目じゃ。こればかりは認められん」
「浮気って、何の話ですか。
オレと彼女は婚約者同士だ」
「――」
オジサマは微妙な表情をし、マーヴェルを眺め、そしてあたしを眺めた。
どうやら話がかみ合っていないことにようやく気付いたようだ。
「この男はお前の何だ、リドリー・ナフサート」
「……元、婚約者です。あの、オジサマ――あたしを探していました? 何か用が?」
というか、マーヴェル、せめてあたしを放して欲しい。
何だ、この奇妙な三すくみ。
前には銀狼を思わせる猛々しさを持つ老人。隣には……珍しく鯱のような激しさのマーヴェル。それでもって砂ねずみと言われたあたし。
砂ねずみ……
百歩譲っても、あまり褒め言葉ではなさそうです。
「あなたが誰だか知らないが。彼女はもうこの仕事をやめる。
今までの給金も必要がない。失礼する」
マーヴェルはオジサマがあたしの雇用主とでも思ったのか、突然きっぱりと宣言するとその脇をすっと抜けようとしたが、それを留めたのはオジサマの背後にいた――今は侍女服ではなくご令嬢然としたルティアであった。
ただし、その表情はいつものルティアではなく冷ややかな美貌を更に冷たく前面に押し出し、毅然と身をそらした。
「その方を放しなさい」
その凜とした声音と相手の顔にマーヴェルはぎょっとした様子で息をつめ、困惑気な声をもらした。
「え、あの……メイドさん?」
メイドさん?
何故メイドさん?
今のルティアは誰がどう見てもお嬢様なのですが。むしろあたしこそがメイドさん。
「私は彼女の護衛です。これ以上その方に無体を働くのであればただで帰すことはできかねます」
ちょっ、いつからあたしの護衛ですか、ルティア。
そりゃ確かに郷里に帰るにあたってあたしの付き添いは頼みましたけれど、ルティアが護衛? むしろあたしのほうが護る感じなのですが。
ルティアよりよっぽど体力も握力も腕力もありますよ。パン屋さんで培われた体力は伊達ではありません。
唖然としたあたしをよそに、ルティアは冷ややかな表情のままマーヴェルを睨みつけていた。
「王都内操業停止だけでは懲りませんか?」
「なっ」
「一族郎党完全に叩き潰しますわよ」
なんだかそのルティアの底冷えする眼差しやら言葉やらが怖ろしく、あたしはぐいぐいとマーヴェルの腕から抜け出してびしっと――極力決然とした態度で双方に割って入った。
「ルティア、ちょっとごめん黙ってて」
「リドリー」
あたしの制止にルティアの眉間に皺がよる。
あたしは更に言葉を重ねた。
「何かややこしくなっちゃった気がするから、お願い黙って。
それと、オジサマも用事があるならあとで聞きますから。
それでもってマーヴェル」
あたしはすぅっと息を吸い込み、びしっと。
ええもう力いっぱいびしっと凛々しく。
「あたしとあなたは現在進行形で無関係です!」
だからあたしをどっかに連れて行こうとするのはやめなさい。
それに忠告申し上げますけれど、この人達とお付き合いするのは本当に変態――ではなく大変なので、近づかない!
本当に碌なことにならないからねっ。
***
「平和ですね」
やけにしんみりとした口調の主は、どこか心ここにあらずといった口調で付け足した。
「私の心の内以外は」
「――」
「今頃怒っているでしょうね……でも、そんなに悪いことをした訳では無いとおもうのですよ。ちょっと列車の部品を外しただけですし、誰も怪我をした訳ではありませんし……ちょっとした心の情熱のほとばしりがちょっとばかり暴走してしまっただけで、ありがちで些細なことだとおもうのですが」
些細――ですが、そのおかげで列車は運行停止になって数多の客に多大な迷惑がでていますが。という台詞は口にするべきかどうかエルディバルトは迷ったというのに、彼の人の近くにいるもう一人はあっさりと言い切った。
「どこがありがちで些細なものですか。
思い切り大迷惑ですね」
「――ユリクス」
「御自身の立場をもう一度ゆっくりと考えるべきですし、そのようなはた迷惑な行動を彼の女性に対してしてしまうのであれば、申し訳ありませんが私としてははっきりと手放しなさいというべきでしょうな」
たとえ陛下相手でも屈しない神殿官長官はきっぱりとした口調で言い切り、そのあまりの潔さにエルディバルトはぶるりと身震いしてしまった。
思わず主の擁護に声を出しそうになったが、ユリクスの勢いは止まらない。
「あなたはこの国の護りである。
たとえ公に出ない者といえど、精神的にも実質上でもその存在は大きい――そのあなたがたかが女一人に振り回されて判断を誤るようでは、到底それを許す訳にはいかない。先代と同じ哲を踏み抜き、その手を不必要に血に染め上げるならば私はあなたの退位を求める」
退位、という言葉にエルディバルトの手が咄嗟に腰に下がる剣の柄へと伸びた。
それは単純な位の譲渡ではすまされない。
一世代に竜公は――魔法使いはただ一人。
それは――竜公という立場に対するのであれば死を意味する単語であり、それを主へと促すものがあるというのであれば、騎士として、絶対の忠誠を誓った者として何があろうと許す訳にはいかない。
エルディバルトが忠誠を誓ったのは竜守りでも竜公でもない――この面前の人なのだから。
人が変わってはいそうですかという訳にはいかないのだ。
他の誰がその名を冠そうといえど、自らの主にはなりえない。
ぎしりと奥歯を噛み締めて眉間に皺を刻みつけたエルディバルトに、主の静かな声が飛んだ。
「およし、エルディバルト」
「公っ」
神殿官長であるユリクスの発言権は大きすぎる。
当代竜公の退位を草案提出できるものは実質上五人。
ユリクスはその内の一人だ。
軽々な言葉一つだというのに、それは決して軽くはない。
じわりと手にいやな汗が滲んだ。
――その発言を止める為に、自分はユリクスを切れるのか。
ルティアが愛する養い親であり、自らにとっては義理の父となる筈の男を。
一瞬だけの迷いは、瞬時に回答をはじき出す。
切れる。
たとえルティアが泣いたとしても、自分はユリクスを物言わぬ屍にすることができる。決して痛みが無いとは言えないが。
ユリクスの口を封じ、そしてそれを事故として処理する。決して主や自らが関わったと思わせぬように。
その決意も新たに強い眼差しをユリクスに対して牽制するかのよう向ければ、主はほぅっと吐息を落とした。
「ユリクス、そんなことを私に告げて、自らの命は惜しくは無いのですか?」
「生憎と、私はあなたが自らの命を護る為に他者を滅することはしないということは信じているのですよ。
あなたは自らに何があったところで笑ってそれを流してしまわれる。どのような非礼でも相手を思いやる。その心をお持ちであるのに、ただ一人の女性に対してのみ、その心をあっさりと砕いてしまわれる」
ユリクスは呆れを示すように肩をすくめてみせた。
「たとえあなたに私が刃を向けたところで、あなたは刃を向けざるを得ない私の心を心配なさることでしょう」
「そこまで、追い詰めましたか?」
「いいえ。生憎とそこまで追い詰められもしていなければ、実際のところはさほど失望もしていない。強くは言いましたが、あなたに人としての心が残っていることは純粋に嬉しいと感じています。
ただし、度が過ぎるのはよろしくない。たがを外して身の内にある竜の制御を怠れば、あなたこそが――三百年前にこの地を蹂躙した竜となる」
戒めの言葉をきっぱりと突きつけ、ユリクスはすいっと腰の辺りから優雅に礼をとった。
「無礼を申し上げました。
ただ、反省するべき点は反省していただきたいのです」
「うん、ごめんなさい」
あっさとり返された贖罪に、ユリクスはふるりと首を振った。
「あなたの素直さも好ましいと思います。
あまりおかしな真似はなさらずに、どうぞ仲の良いご夫婦になられて下さい」
「――結婚はしないよ」
ふっと、それはぽつりと冷笑と共に落ちた。
「もともとそのつもりは無いんだ。
それどころか――本当は手にいれるつもりも無かった。
後悔しているけど……それよりずっと喜んでしまった自分を嫌悪もしている。
本来であれば、あの子を純粋なまま」
そっと自らの手のひらを返し、その言葉を悲しそうに。
「純粋なまま、この手を離すつもりだったのに」
あまりの発言に絶句したユリクスはどのように言葉を繰り出すべきか判らず、思わず労わるように優しく言った。
「公、どうぞ二人できちんと向き合い話し合いをなさるべきです。あの娘だとてあなた様を嫌ってなどおりません。むしろそのようなことを言われれば、どのような女子でも悲しむことでしょう」
「でも、話し合うも何も私は嫌われてしまった。
今日はあの子はユリクスの家に……」
「もちろん我が家においでなさればいい。ああっ、エル――エルディバルト、馬車の手配を。本日はもう戻りましょう」
「ユリクス」
彼等の主はそれはそれは美しい微笑をにっこりと披露した。
「ありがとう」
……なんとなく、なんとなぁく心に引っかかりを覚えたエルディバルトであったが、おそらくきっと杞憂であろう。
途中からただたんに「ユリクスのおうちに行っていい?」に計画変更され誘導していたような気がするのは……杞憂の筈だ。
***
――現在進行形で無関係です!
そう突きつけた後のマーヴェルはそれはそれは見事に蒼白な顔をしていらっしゃいましたが、きっと彼は責任感が強いのだろう。
むしろあたしなんかとは無関係といわれればほっとする筈だというのに、口を金魚のようにぱくぱくとあけて更に何かをいいたそうにしていたが、あたしはお調子にのって更に続けた。
「どうしてここにマーヴェルがいるのか判らないけれど、あの時のことは謝ります。突然結婚式の目前で逃げ出したことは悪かったと思っているし、反省しています。もっとちゃんと話し合えばあんなことにはならなかったと思う。今はそう冷静に思えるけど、当時はどうしても短絡的な思考しかできなくて、子供だったのね。
とりあえず、浮気されて逆上してしまったけど――今度こそちゃんと言います」
よし、あたしが消えたのが浮気が原因だとちゃんと言えた。
要点は外していない。
あたしは気をよくしてべらべらと言葉を続けた。
「今までありがとう。ティナと幸せになってね。
あたしも今は――まあそれなりに、幸せに暮らしています」
やった。
言った。
言いました。
これでティナもここにいればもう郷里なんて行かなくていいくらいだけど、生憎とティナはいないのでちゃんと郷里に行って謝らなければ。
半分だけ肩の重荷がおりたような気分でにっこりと笑って「やれやれ」と思っていると、面前のマーヴェルは蒼白な顔で瞳を見開き、暫く固まっていたかと思うと引きつったような笑みをたたえた。
「リドリーは相変わらず優しいんだね。
いいんだよ。そうやってやせ我慢なんかしなくても」
アレ? なんか――言葉が通じ、て、ない。
驚嘆するあたしとは別に、オジサマとルティアとはなぜか微妙に視線を合わせて首を振り合った。
いや、あの見世物じゃないので観察するのはやめて欲しいのですが。
ちょっと、何二人してこそこそと会話しているんですか?
凄く気になるではありませんか。
そんなことしている暇があるのでしたら、ああ、先ほど黙っているように言いましたけど――なんだろう、これ、助けて欲しい、かも……
「オレが欲しいのは、君の心からの言葉なんだ。
罵ってくれてもいい。怒っていいんだよ。オレはどんな言葉でも受け止めるから」
って、いえいえ、全然ちっとも受け止めてないですよね。
むしろ完全に無視していますよ。
川にでも流すかのようにさーっと無視してらっしゃいますよね。その耳はきっちり機能していらっしゃいますか?
なんだかただ貫通だけしていて右から左に言葉を通過させているだけなのではありませんか?
「オレが悪い。
オレが全部悪いんだ。キミはちっとも悪くない。だからやり直そう。
キミが許してくれるなら、もう一度」
許しているか許してないかで言えば、大雑把な意味合いで許してはいるのですが――
何この、許してはいけない感じ。
あたしはじりじりとマーヴェルから離れた。
面前にいるのは確かにマーヴェルだというのに、きっとあの頃とちっとも変わっていない優しい幼馴染だというのに、何だか別の生き物のように……こう言っては何だけれど、こんな風に思ってはいけないのであろうけれど、ちょっと、ごめんなさい、気持ち悪い。
「だから、あのね。マーヴェルは昔っから責任感が強かったから、元婚約者としての責任を全うしようとしているのかもしれないのですが――あなたとは結婚する気は」
あたしは噛んで含めるように、どう聞いたところで絶対に間違えようがないように言葉を選んでマーヴェルに理解してもらおうと努めた。
あたしはあなたとは結婚しない。
だってあたしには――
「ああ、そう。
それが一番良いと思うよ」
ふいの声に、空気が変わった。
今だってオジサマだとかルティアだとか、なんだか訳の判らない状態だというのに、あたしは聞き間違えの無い声に割って入られて、マズイ、ヤバイと腹の血を引かせたというのに、その声はあたしの思うこととはまったくの間逆の言葉をつむぎだした。
あたしとマーヴェル――他の男が結婚について話しているなんて、きっと怒り出すと思っていたのに。またいつもの我儘一杯の子供のような癇癪を破裂させると思っていたのに。
ざっと視線が集中する先――
滅多に見ない神官長の服装のあの人は、穏やかにあたしとマーヴェルを視界に入れて、誰もがうっとりと魅了する声音で、
「リドリーは、やっぱり彼と一緒になるのが一番なのだと思う」
――あたしの見たこともない聖人君子の顔で、微笑んだ。
何をとち狂っているのか知らないけれど、そんなあたしのことをユーリが好きだっていうのは今更疑ってもいないの、です……