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タヌキさんと逃亡劇

 振り上げた左手がジンジンと痛む。

咄嗟に出た言葉にも羞恥がにじんだけれど――ちょっとまて、何でしょうか、コレは?

あたしは背中には奇妙な汗を、そして頭の中で「おいおいおい」とおかしな声を漏らしていた。


 だってこの状況はおかしい。

変ではありませんか。

理解の範疇を超えてしまう。

何が変って――確かに、あたしとマーヴェルとが顔を合わせるっていうのは、実に一年とちょっとぶりの大変な事態だったりするけれど、この現象は飲み込めない。


 罵声を浴びせられたり、憎まれ口を叩かれたりするまではなんとか受け止められる。結婚式の三日前に花嫁に逃亡されれば、どんな男だとて矜持とか怒りとか大変だったことだろうから。逆に女性が花婿に逃げられようものら、人生儚いことになってしまうこともあるかもしれない程の衝撃だろうし。

 マーヴェル的にはどんな心境になっただろうと思えば、邪魔者がいなくなってほっとしたというのはあるだろうけど、結婚式をすっぽかされたというのは別の感情も芽生えてしまうのではないでしょうか。

それが好きな女でなくとも。

もしくは、好きな女でなければなおさら。

 だから、顔を合わせたら罵倒なりなんなり――そういう覚悟は実際あまりできてはいなかったけれど、多少の苦情やら苦言だかは甘んじて受ける心つもりはあった。一発くらいの平手も致し方ないと思われる。


けれど、平手では無く、まったく間逆の抱きしめてキスって何でしょう?

どうしてそういうことになるの?


 百歩譲って抱きしめられることは容認してもいい。感極まってとか、久しぶりの再開だから、相手の体に触れて確かめるとか……多少微妙ではあっても、そこは未だ理解の範疇だけれども、だからといってあたしとマーヴェルの関係性でキスって、それは違うのではないだろうか。

それは一歩も譲れない。


――むっとしつつも、ふと頭に浮かんだマサカ。


マサカ、マサカ、まーさか。


「マーヴェルって……もしかして、マーヴェルがティナと両思いだということをあたしに気付かれてないとでも思っているの?」

 そう考えた途端、さぁぁぁぁっとあたしの中で血の気が引いた。

ひっぱたいた手を瞬時に丸め、あたしは「ごめんっ。ごめんなさいっ」と口にし、その後にどうしてよいものか本当に判らなくなってしまった。


途方にくれるっていうのは、まさにこういうことだろう。

だってそんなこと想定していなかったのだ。

どうしよう。

いったいどうするべき? 

頼む。頼みますから、ほんのちょっとだけ考える時間を下さい。あたし、もともと後先考えない性格で失敗ばかりしてまいりましたので――ほんのちょっとでいいので考えさせてください。もういろいろ、勘弁して。


 そもそも、いったいどういうことなのでしょうか。

 邪魔なあたしがいなくなって、晴れてティナとマーヴェルは二人仲良く結婚して幸せに暮らしました、メデタシメデタシ。

だと思っていたというのに。マーヴェルってばあたしが失踪した理由に気付いていない訳ですか?


ティナとマーヴェルとの関係を理由にあたしが失踪って……しまった、あたしってば誰にも言ってないですよ。本当に突発的に出奔してしまったのですよ。手紙の一つすら残さずに。

何よりあたしってば誰かに相談するって相手もいませんでしたし。

あたしにマーヴェルとティナのことを進言してくれたメイドが気を利かせて「実は……」と言ってくれていたりしないだろうか? だが、メイドは口をつぐんでいるかもしれない。余計なことを言おうものなら職を失うとでも思って。

そう、こういう時こそ身近な友人がって……

身近な友……ヤギは、ヤギはしゃべれないか。

ごめんなさいね、友人いなくて。


そう、あの時――感情的になって花嫁用のドレスを引き裂いたり色々してしまったけれど、冷静な気持ちで「二人で幸せになってね」とも「ふざけるな」という憤りの手紙すらも残していない。ボストンバックに必要なものだけを詰め込んで、ただこの場に居たくないという負け犬根性丸出しで逃げ出したのだ。


 ああああ、あたしってどうしてこう抜けているの。

ぬけさくだのあんぽんたんだのとユーリに向けている場合ではない。これでは、あたしこそがぬけさくであんぽんたんですかぽんたんではありませんか。


「リドリーっ、ごめん。

いきなり――その。うん、確かに俺が……悪い。悪かった」


 マーヴェルが口元に手を当てて顔を赤らめて戸惑いを浮かべた表情で謝罪を口にする。

あたしはマーヴェルとは逆にすっかり血の気を失った青白い顔でそれを受けつつ――引きつった愛想笑いが張り付いているのを感じていた。

精一杯相手と距離を保ちつつ。


だって、今のあたしったらどうしたらいいのか本当に判らないのですから。できることといえばこの一年ですっかりと板に付いた営業スマイル。

パン如何ですか?


あああ、もぅっ。

逃げる――逃げられるとき逃げられれば、逃げおくべきだった!

人間逃げたら駄目とか言っている場合ではなく、尻尾を巻いて一目散に逃げておきなさいよあたし。

真っ向勝負にも程がある。

何故自分からマーヴェルに声を掛けてしまったのだろう。何事にも作戦というのは必要で、この現状は完全に敵地というところだろう。

アウェイ感はんぱなし。


あたしの頭はマイラおばさんのパンよりも固く固まっている。


「とにかく――会いたかった」


 マーヴェルが緊張が解けた様子で笑みを浮かべ、口元に当てていた手をすいっと伸ばしてあたしへと向けてくる。あたしは硬直してしまった体をぎくしゃくと動かし、


「あたしも……会いたかった、かな?」

と、かろうじて口にした。


そう、会いたくなかった訳では無いので。

なにせ、ティナと――そしてマーヴェルとに会う為に郷里に帰ろうと思っていたのだ。郷里に戻る理由はまさに謝罪だ。


ごめんなさいごめんなさいと頭を下げて「二人は幸せに暮らしている? あたしも今は幸せにやっています。ちょっと色々と面倒くさいこともありますが、人生の中で一番きっと幸せ」とこのねじくれた関係を清算させるために。

 あたしの言葉にほっとしたようにマーヴェルの空気が軽くなる。伸ばされる手を更によけると、マーヴェルは戸惑うようにあたしを呼んだ。

「リドリー……?

あの、どうして避けるの?」

「いや、あの。どうして触ろうとするの?」

「どうしてって――抱きしめて、もう一度キスしたい。

リドリーをきちんと確かめたい」


 まるで蕩けるな眼差しで――何を言っているのだ、この人は?

あたしは唖然としつつ、幾度も瞳をまたたいてマーヴェルを確認して、内心でげんなりとしてしまった。

「あのね、いいのよ。もういいの。隠さないで。そうやって隠されるの、もしかしてあたしの為にとかって思っているのかもしれないけど。それは優しさではないのよ? 親同士の決めた婚約だけど、無理にそれを貫こうなんて間違っているわ」


と、いうか。

「ティナが好きならティナが好きって、正々堂々と言って欲しかった」

 言葉にしながら、あたしは当時のことを思い出して鼻の奥がつんと痛むのを感じた。

あの当時抱えた憤りや悲しさ。

裏切られたという思いと同時、結局あたしは誰にも好かれていないのだという絶望。

――ここに、郷里にいたら、あたしは誰にも好かれないまま、偽りの生活を続けていくのだろうという悲しさ。


「誤解だ。ティナを好きなんて、冗談じゃない。

俺が好きなのは――今も昔も好きなのは、リドリーだけだよ」


 痛みを堪えるようにして言うマーヴェルを見返し、あたしは――ぐぐぐっと眉間に皺を刻んだ。


 マーヴェルは昔も今も変わらない。

子供の頃は意地悪だったけれど、大型帆船を父親から与えられるようになってからはすっかりと意地悪さがなりを潜めて始終優しい青年になった。

 誰かを傷つけないように……誰にでも優しい。


今だって、自分の気持ちを隠してあたしに「優しく」あろうとしている。

でも……そんな優しさ、間違っている。

あたしは乾いた笑いを落として、最期に深く溜息を落とした。

優しい、優しい貴方。


でもその優しさは――やましさだった。


***


「自分で探しに行っても良いぞ」

 横柄な口調で言いながら白磁のカップに口をつける相手に、ルティアは戸惑っていた。

突然の来訪者――自分の無礼だとか失礼だとかの振る舞いを棚にあげて、なんて失礼な人だろうと思えば、その失礼が許される立場の人間だとはあまりのことに当初表情に怯えをにじませてしまいそうになりつつ、ぐっと喉の奥でそれを堪えてルティアは礼儀作法にのっとった所作で最上級の礼を示した。

 左足を引くように、下半身にぐっと力を込めて丁寧に一礼して相手の来訪に対して感謝で示す。

本来淑女が入室すれば、中にいる紳士は自ら席を立ち相手をエスコートするものだが、そんなことは初老の相手には関係がなく、どかりと椅子に座ったまま――好々爺の如く口元に笑みを浮かべて見せた。


「晩餐の招待を可愛い理由で断っているな」

「申し訳ございません。私如きが陛下の個人的な晩餐の場に出るのは――少々僭越に存じ上げます」

「私からの招待を断る方が僭越だと思わんか? 竜の姫よ」

 一番呼ばれたくない名称を口にされ、ルティアの表情が強張るのを確認すると、相手はおかしそうに声をあげて笑ってみせた。


竜の姫。

小さな頃はむしろ誇らしかった。

祖父がこの国の護りの要であることが、数多の人々が頭を下げる高位にあることが単純に素晴らしいことだと思っていたのだ。

 だが違う。

それは、人々の頭に足を乗せるような鬱屈したまやかし。

尊敬とは違う恐怖。

 とんとんっと、自分の座る隣の席を示し「まぁ座るといい。とって食う為に来たのではない」と大仰に笑って見せる相手に、ルティアは半眼を伏せた。

「養父をお待ちでしたら――」

「ユリクスなんぞに用は無い。あやつは本当に口がへらなくてな。あんなのと会話をするくらいなら、可愛い姫と楽しい時間を過ごすほうがずっといい。

ああ――お前の養父を悪く言うつもりでは無かった。

よくしてもらっているか?」

「はい」

 話の運びはまさに「近くをぶらりと寄ったので」というように進んでいく。面前の相手が自らの気持ち一つで右へ左へと出没するのは有名な話で、ほんの気まぐれであろうかとも思うのだが、そんな気まぐれと自らが屋敷にいるという稀有な事柄が合致する確率こそがまた低い。

 ルティアの自宅はここ――ユリクスの邸宅ではあるが、月の半分以上を婚約者である愛するエルディバルトの邸宅に入り浸っているのは周知の事実だ。

 ルティアは醜聞などものともしていないし、ある意味それすらもルティアにとっては作戦の一つ。

 騎士であるエルディバルトが醜聞にまみれた女を見捨てられないように。


もちろん、もともと敬愛する竜公の婚約者であったルティアをエルディバルトが手放すとは思っていないが。

汚い女であることも卑怯な女であることも承知している。

 自らを卑下する想いにルティアが息を潜ませれば、客人は「そういえば」とついでのような口調で切り出した。

「アレの嫁がここに来ているのだろう?」

 突然、嫁という単語に何の話かと一瞬思いはしたものの、すぐに理解した。

内心を押し隠し、相手の意図さえ判れば自らのすべき道もおのずとわかる――エルディバルトが竜公の忠実な騎士だというのであれば、自らはそう、今となってはリドリー・ナフサートの誠実な友であり盾となる。

 時には騎士にさえなろう。

そう、定めたのだから。


 それまでの臆病さがなりを潜め、すっと微笑を仮面のように貼り付けて「花嫁様? どなたのことをおっしゃっておいででしょうか?」とひたりと眼差しを向ければ、相手はルティアのがらりと変わった雰囲気を鼻で笑った。

「馬鹿者の嫁だ。お前の愛するエルディバルトの張り付いている阿呆の嫁。嫁のほうから私に会いたいと言っているというのでな、忙しい私がわざわざ出向いてやったのだ。隠し立てなどという小ざかしいことをせずにここに呼び出すといい」


 心臓が――激しく鼓動し、痛みさえ覚える。

喉がからからと渇いていくのは、畏れだろう。

逃げ出してしまいたい。できることなら、子供のように逃げ出して何かにすがってしまいたい。そう思うのは、面前の相手が決して外見通りの穏やかな者ではないからだ。

 死ねといわれたその時に、自らの進退が決まる。

誰もがその心に逆らうことなど許さず、罰してきた者。その存在だけで否もなく平伏したい程の圧力に屈してしまいたくなる。

だが盾がそれでは失笑ものだ。

盾は矛を突きつけられて傷つけられようとも退くことなどしない。

「隠すなとおっしゃられても――友人を危険に晒す者などおりません」

 毅然とした態度で言えたであろうか。

わずかに言葉は震えなかったか?

ルティアはぎゅっと右手の平で左手を包み込んだ。

震えるのは後だ。侮られれば負ける。

腹の底にバラストの様に酸素を溜め込んで背筋を伸ばすルティアを眺めていた相手は、ふいに喉の奥を鳴らして笑った。


「竜の姫よ。我が前に」


低い恫喝にも似た言葉に、ルティアはぐっと奥歯を噛み締めて笑って見せた。

「すでに御前に」

「近く寄れと言っている」

「ご随意に」

 覚悟は――砕けそうになった。

負けるな、歩けと叱責しながら、自らの最期すら感じた。空気が重く息苦しい。あるいは、自らの信じた道を踏み外せばこんな恐ろしい思いなどしなかっただろうか。

 面前の老人は、ただ座っているだけだというのに何故ここまで巨大な存在として在るのであろうか。

 まるで鋭い切っ先を喉元に突きつけられているかのように怖ろしい。


 自分は死地にいるのではあるまいか? 

今死ぬのは犬死だろうか?

いいや……少なくとも、竜公にもエルディバルトにも顔向けできない死に方では無い。愚かで汚らわしい血を持つ自分にしては上出来だ。


私には友人ができた。


 ルティアの眼差しがふっと和らぐのを合図にするように、相手の無骨な手が伸びてひたりとルティアの頬に触れた。

ぺちぺちと、二度。


「あの娘も、お前を友と言っておったぞ。

やっと友人をもてたな――お主であればできよう。もしあやつ等が道を踏み外しそうになるのであれば、よく諌めよ。

 そして、願わくば……」

 むにりと頬をつままれて、ルティアは呆気にとられた。

そのようなこと、誰にもされたことが無い。

「私の前でも気を張らずに過ごしてもらいたいものだな。あの間抜けな口調でおじさまと呼んではくれぬのか? 私の前では笑ってはくれぬのか?

まぁ、良い。そのうちにな。

さて、ルティア。私も暇な人間ではない。あの娘を呼んで参れ――心配は無用。もうあの娘をどうこうしようなどとは思っておらん。どこかの小ざかしい養父とナティのご在所で誓わされたからな。

 今度は自らが死なねばならん」

 やれやれと言う相手の言葉は理解できなかったが、ルティアは泣き笑いの表情を浮かべて身をたてなおし、相手が何故女性に好かれるのか――愛人は山といる――は、なんとなく理解できたような気がする。

 獰猛な獣である癖に、相手を惑わす術に長けすぎだ。


「陛下」

「なんだ?」

「大変無礼とは存じますけれど、もしエルディバルト様に捨てられましたら、どうぞ私を愛人の末席にお加え下さい」

「冗談が口にできるならば上等だ。

だが、あのぼけなすが姫を捨てるなどという暴挙に出たら、その時は竜騎士の称号は剥奪してやるから安心するといい」


――今現在、エルディバルトは竜騎士という称号しか持っていない。

竜公に仕えると定まった時に、王位継承権は剥奪され、本来父親から襲爵すべき爵位すらもてぬようにとりはかられた。

 かろうじてエルディバルトが所有しているのは、王都にある邸宅と父親の好意で下げ渡された幾つかの別邸のみ。エルディバルトの領地というものは名目上存在していない。

 竜騎士としての名は爵位として意味も無く、それすら剥奪されればやたら豪華な家を持っているだけの一般市民でしかない。

 何より、


「安心いたしました。

でしたら私は絶対にエディ様に捨てられませんわね。

だって、エディ様ときたら竜公から引き離されでもしたら、世を儚んでしまいそうですもの」

 精一杯のルティアの軽口に、相手が口元を緩めて笑う。


「……あれは昔っから見事に張り付いてるからな。

前世はコバンザメかもしれん」


***


 どうして彼女はそこにいるのだろうか、とか。

どうして彼女は侍女姿なのだろうか、とか。

考えなくてはいけないことが他にも一杯ある筈なのに、どうでもいいことも一杯頭からあふれ出す。

 化粧の香か、それとも何かの移り香なのか。

仄かに鼻腔に触れる香すら、少し厭わしい。

何故なら、そんなものは彼女には必要がなくて、そんな風に立つ彼女は以前の彼女とは違うのでは無いかと思わせる。

 立っているだけで折れてしまいそうで、はらはらとさせられる彼女はいったいどこにいるのだろう。

「ここで、働いているの?」

 硬い口調で、どうでもいいことが口から落ちた。

――働くなんて、したことが無かっただろうに。

しなくて良い苦労をさせたことに対しての苛立ちと、自分の居ない場で自分の見ない場で知らぬことをする彼女に何故か腹がたつような気さえしだしてしまう。


 家だって用意されていたし、使用人だって決められていて……確かにそう贅沢な暮らしを約束させられはしなくとも、少なくとも普通にお嫁さんとして生きていられた筈なのに。

 手を伸ばすと避けられて、よけいに眉間に皺が刻まれた。

もう一度、今度は乱暴にその手を掬い取り――直に触れた手に以前のやわらかさ以外のものを見つけて、少し荒れた手に痛みを覚えて、更に愛しさと何か判らない感情が胸を満たしていく。

 ぐるぐると腹の中で何かがざわめいて落ち着かない。


やっと見つけた。

やっと取り戻した。

なのに――何故、彼女は以前と違うのだろうか。


「侍女なんて」

 硬い口調で続ければ、リドリーは何故か自らの姿を確かめるように視線をさげ、わたわたと首を振った。

「この格好は、無理矢理っ」

「――」

「いや、あの、無理矢理って訳でもなくて――でも自分の好きで着ている訳でもなくて」

 動揺しまくるリドリーの様子に、まるで腹に鉛がどろりとたまるように怖ろしい考えが蓄積されて体温が下がっていく。


無理矢理侍女服を着せられる――そんな状況はいったいどういう時におこるのか。


カッとなった熱が一気に体内を駆け巡り、マーヴェルはリドリーの手首を掴み、ぐっと歩き出した。

「ちょっ、マーヴェル?

やだ、あのっ、離してっ」

「離さない。君はこんなところに居るべきじゃない。

行こう――」


――この一年どんな辛い目にあってきたのだろう。


 そう、だからイヤなんだ。

目を離すと、こんなことになる。

リドリーは自分では何もできないから、こうやって他人にいいように流される。

やっぱり彼女は根本のところで変わっていない。


「大丈夫だから」

もう大丈夫。たとえ彼女に身に何があったとしても、自分は全て受け止め、受け入れ――愛していける。

強い決意で半ば引きずるようにしてマーヴェルは歩き出したが、その出鼻を挫くように足早に進む前方をさえぎったのは壁だった。

 そう、考えてみれば入り組んだ屋敷の中で迷っていたのだ。

舌打ちが漏れてくるりと向きを変える。リドリーが慌てふためきながら「ちょっ、ね、マーヴェル?」と何か言っているけれど、こんな場所に一分一秒居るつもりは無い。


 元々この屋敷を訪れた理由すらすっかりと忘れ去り、幼馴染が未だ応接室で寝こけていることも消し去り、ただ突然やってきたこの幸運と、そして憤りに突き動かされていた。


やっと会えた。

取り戻した。

もうこれで、全てうまくいく――そう、その筈だというのに、リドリーは足を踏ん張るようにしてマーヴェルから逃れようとする。

「話し合いましょうっ」

「話は後でいい」

「そういう訳にはっ」

「こんな場所には居られないっ」

 使用人に無理矢理こんな格好せるような屋敷。当人の意に反するようなことをさせる場になど。

 珍しく感情的に怒鳴り、マーヴェルは慌てて自分を叱責した。

怖がらせてどうする。

リドリーは誰より繊細な女性で、脅えて萎縮してしまう。何より彼女はちっとも悪く無い。悪いのは雇い主であり、彼女をこんな過酷な状況におしやってしまった自分に他ならない。


一旦足をきちんと止め、安心させるようにリドリーの方へと振り返る。引きずるようにして歩いていたことにバツが悪いような気持ちになり、そのままひょいと抱き上げた。

 短い悲鳴があがるが構やしない。

はじめから抱き上げて運べば簡単だったと思いつつ、マーヴェルはふと呟いていた。


……苦労して大変だったろうに……

そう思うのに、抱き上げた感触と色々なものに「少し、太った?」と不思議に思った事柄は、生憎とぽろりと唇から零れ落ち、リドリーは真っ赤になりながら声を張り上げた。

「悪かったですねっ。

確かにちょっと最近美味しいもの食べすぎですけどっ。何よりお茶の時間のデザートが確実に太るってわかってるけどっ」

 混乱でもしているのか、それとも太った?と言われたことへの羞恥の為か、リドリーは涙声になりながらそんなことを言う。

「もう絶対に痩せるっ」

「いや、ごめん」

 こんな状態といえども、女性に「太った」は禁句であったようだ。


 それにしても――感情的に叫ぶリドリーを見るのははじめてで、マーヴェルは戸惑いを隠せなかった。

たとえ「太った?」と冗談で口にしたとしても、以前のリドリーであれば少しだけ唇を尖らせるくらいで、こんな風に怒ったりはしなかった筈だ。

 彼女は……こんなにはっきりと喜怒を見せる性格ではなかった。

その変化を受け止めきれずに、自分の中に奇妙な困惑が広がってしまう。


マーヴェルのリドリーは……


 涙目の彼女は確かに可愛いのだが、ふいにその表情を強張らせ――赤かった顔を今度は青く、そして白くした。

 何かが目に入ったのか周りを見回したが変化はなく、相変わらずの画廊だ。

もう少しで曲がり角――ふいにリドリーはわずかに振るえ、強張った口調でマーヴェルに訴えた。


「……あのですね、この手のパターンの最後には地下牢が待っていたりするのですが……

ああ、でももしかしたらあそこは船倉とかより居住性はいいかもしれないけど、でもやっぱり地下牢は地下牢だと思うのです」


――泣きそうに言うリドリーの言葉の意味は、生憎とさっぱりと判らなかった。


 マーヴェルにとって今大事なのは、こんな場所から彼女を救い出し――彼女の勘違いと自分のしでかしてしまったことを誠心誠意謝って、彼女の人生を元のように戻すこと。

こんな場所は、彼女には相応しくない。


こんなおかしな服装も、化粧も、乱暴な口調も。

リドリーがこんな風になってしまった責任は、全て自分にあると思えば苦かった。

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