遭遇と接触
頭の中がもやがかかってしまったように暗く、重さすら感じた。
必死に逃げ出したくて、同時に逃げてはいけないという自らの感情同士がまっこうからぶつかり合う。
何故って。もう逃げないと決めたのは自分だから。
あたしはもうずっと逃げ続けていて――卑怯で弱虫な自分にうんざりとしていた。できることならあの時に……逃げ出してしまったあの時に戻って、人生ってやつをやりなおしてしまいたいくらいに後悔している。
逃げなければ良かった。
マーヴェルの頬をひっぱたき「ティナとお幸せに」と正々堂々と言えば良かったのだ。
ああ、でもそうしたら……あたしはユーリともう一度会うことは無かったのかもしれない。
今のあたしって、ちょっとおかしな状態だけど、今までの人生を振り返れば結構幸せだと思うのですよ。
エルディバルトさんに睨まれたり、どうやら陛下という人に嫌われていたりとなかなかまっとうではありませんが、友人が二人もできたし――アジス君は可愛いし。
恋人はいるし。
恋人は……まぁ、変態なのですが。
肩口をマーヴェルに掴まれたまま、あたしは必死に自分の体に力を入れた。
逃げ出したい衝動を抑えて、震えてしまう自分を叱咤して。
本当は、どうしようもなく怖い。
でもこれって自分がしてしまったことだから。
自分で蒔いた種なら、自分で刈り取らないといけない。
何より、今回ティナの元に――郷里に帰るって、もとからそういうことでしょう?
あたしは幾度も呼吸を整えようと努力して、もう一人の弱虫でどうしようもない自分を叱責した。
ユーリの腕に逃げ込んで頭を押し付けて嫌なこと全てから守ってもらいたいと願う自分。
ユーリは呼べばきっと来てくれる。
だってあの人は魔法使いで。あたしはあの人の名を知っている。
でも、あたしは絶対に名を呼んだりしないし――全てをあの人に押し付けたりしない。
あたしは、あたしの足で立てる女でありたい。
綺麗とか可愛い女の子にはなれなくても、顔をあげてユーリの隣にいられる女になりたい。
ユーリの為に。
ううん。何より、自分の為に。
***
吐息さえも凍るのではないかという氷室は、常人では訪れることもできない山の山頂にある洞窟の奥――閉ざされた空間にあたる。
竜珠が落ちたのは今年が一番多く、それはすなわち――死体の数とも言える。
「かわいそうに……」
寂しそうにささやき、そっとその指先で黒こげになった大木のような遺骸に触れる主に、ユリクスは眉を潜めた。
丁度磨いていた竜の石像から竜珠が落ち、嘆息したところで主があらわれ――久方ぶりに竜峰への同行を申し出たのだ。
竜峰に入ることが基本的に許されているのは、竜守りと陛下の二人のみ。あとはせいぜいその共くらいのもので、それいがいのものがここに入り込もうとすれば――
「私の力が及ばず、苦しませてすまない」
竜峰に張り巡らされた結界は、三百年前から重ねるようにしてつむがれたもので、基本形態は何もかわっていない。当時作られたとおり、結界に無理やり触れた人間は単純に焼かれて死ぬのだ。
一瞬で心の臓が止まるのであれば良いだろう。だが、生憎とこれはそのように優しさをもっていない。
体中を炎が蹂躙し、絶命するまでの間四半刻――男は相当苦しんだのか、ヘビのようにずるずると歩いた箇所の土を焦がし線を作り、欠落した小さな骨がいたるところに落ちていた。
「反逆者にお心を裂きますな」
「彼が死ぬことが悲しいのではないよ。もっと苦しまずに死なせてあげられないことがつらい――いや、これも私の勝手な感傷ですね。死んでしまった彼には何の意味もない」
「炎に包まれた後は錯乱するだけで、そんなに苦しくはないといいます」
人間の防衛本能が痛みを遮断する。
そういったところで現実の前では飲み込むことも容易くないのだろう。ユリクスは寂しそうにしている主に肩をすくめ、ついっと――普段は決して入ることの無い氷室の入り口を眺め回した。
「それにしても――ここまで来られたのははじめてのように感じますが」
「――」
「僭越ながら、魔力が……衰えておりませんか?」
「――」
「きちんと補給をしなければ。貴方様の気持ちも理解できますが。魔力を保つことも貴方様の責務です。【牧場】から……」
「ユリクス。必要最低限でいい」
「ですが。それでは自らのお命を縮めてしまう」
厳しい口調で言うユリクスに、相手は軽く手を払うようにして焼け焦げた遺骸を一瞬で灰にすると淡い微笑みを浮かべてみせた。
「もともと長く生きるつもりは無いよ」
「公っ」
「竜公を継いだ時から、私は死んだようなものですからね」
――唯一命じられているのは竜守りとしてのつとめのみ。
彼の主は決してそれ以外を求めはしない。他国との軋轢はすべてその手腕にて収めている。圧力として「竜公」をちらつかせることはあるものの、その脅威をまざまざと見せ付けるような真似はしない。
だからこそ竜をめざめさせようなどというものが最近増えてもいるのだろう。いや、それ以前にも――不吉とされるその姿の目撃談が増え、不安を覚えたものが不遜な態度をとることも増えていた。
「公……」
だが、竜を目覚めさせたいという思いをくすぶらせているのは何も反逆しようという者達ばかりでは無い。
竜を封じ続けなければならないという定めにありながら、いっそそのすべてを投げ出して何もかもを破壊してしまいたい衝動と戦っている。一人の肩には重過ぎるのか、それとも竜を殺す自信があるのか。
「ああ……やはり、またあの人は来ていたのですね」
ゆるりと竜の在所へと足を運びいれ、その場に残された気配に苦笑がこぼれた。
永久凍土に眠らされた最強最悪といわれる竜は――今も変わらず眠り続ける。
美しい魔法使いナトゥによって封じられたその時のまま。
目をつむればその記憶すら鮮明に思い出す。
代々の竜守りの記憶と同じように。
最期の力を振り絞りながら、泣き叫んでいた女の声まで。
***
「お嬢様はお会いになられません」
それは当然の受け答えだった。
突然訪れた誰とも知らぬ者が、貴族の娘に面会できるかといえばそれは到底無理な話であろう。
「では、こちらの御当主殿とお会いしたい」
直接令嬢にすんなりと会えるとはもともと思っていない。だから、そう切り替えると相手は慇懃な態度で「主は出仕しております」お帰りくださいと返る言葉に食い下がり「ではお戻りになるまで待たせて頂きます」と言い切った。
相手は相当嫌そうで「戻ったところでお会いになられるかどうかは判りませんが」といっていたが、それでも無理やり屋敷に入り込むことに成功した。
神殿官長官というのがどの程度の役職なのか判らないが、相当の地位であろうというのはその屋敷の外見でも判る。何より、屋敷が建てられている場所が王宮関連の敷地内といってもいいのではないかというぐらい、高級邸宅地だ。
外堀には小川が流れ、門扉までたどり着くのに二つの橋を渡る。
邸内に入れば、白を基調としていて清潔感に溢れ、ところどころに置かれている美術品の手入れもよくされていた。
俗物やら成金という単語とはほど遠い雰囲気に嘆息しつつ、自分の前を歩くメイドに案内されて居間へと通された。
「こちらでお待ち頂きますようお願い致します。
何か御用がございましたら、そちらのベルをお使い下さい。近くにいる者が参りますので」
メイドが飲み物を用意して頭を下げたのは――一刻程も前のことだ。
じりじりと無為に流れる時の中で、もしかして無視されているのでは無いかという気持ちがじわじわと押し寄せる。最終的には無視どころか、もしかして忘れられているのではないかと思いはじめたのは、それから半刻もたった頃のことだろう。
相手が未だ戻らぬなら仕方ない。だが、一応の予想をたてて訪問しているだけにどうにもやるせない気持ちになり――実はベルを二度程鳴らしもしたのだが、生憎と応えは無かった。
はじめのうちこそ、ドーザもいらいらとしはじめてぐちぐちと言っていたが、すでにドーザは寝ている始末。
「まずいだろう」と言うのも気が引けて、マーヴェル・ランザートは嘆息を落として部屋の壁に飾られている水時計を見た。
王宮近辺でよく見かける水仕掛けの時計は、涼やかなものだが季節的には少し寒々しい。
それが誘発したのか、マーヴェルは厠に行くことを思い立ち――その間にこの屋敷の主が訪れるだろうかと思案したものの、結局寝ている親友を残して席を立つことにした。
一応、それでももう一度確認するように呼び出しのベルを鳴らしたものの、相も変わらず応答は無し。深い嘆息を落とし、まっていろといわれた部屋を出た。
少し前まではトイレというものは部屋のどこかに壷が隠されていたものだが、今はたいてい一階などの片隅に作られているものだ。マーヴェルはそうめぼしをつけ、ついでに途中でメイドの一人も捕まえることができればと考えながら歩いていたが、左翼棟と右翼塔のみならず中央棟まである屋敷なのか――外から見た時はわからなかったが――軽く迷子に成り果てた。
ひらりと――視界の隅にうつったのはメイド服。
反対側の廊下を曲がっていったのを感じて、慌てて追いかけようとしたが生憎とするりと逃れるように見失ってしまった。
高級邸宅にはよくある使用人用の出入り口やら通路やらがあって、そういったものは他人の目に触れぬように巧みに隠されているという。この屋敷も例に漏れずにそのような造りをしているのか、なかなか人に遭遇することが無い。
途中で階段を見つけたが、通されたのは一階。
この手の屋敷の常で、やはり二階から上は私用の為に他人があがることは許されていない。それに、何より盗人のようにうろうろとするのは本意ではなかった。
半ば諦めかけ、片手を壁につけて歩こうかとすら思ったところで――曲がり角、何のきなしに人にぶつかる羽目に陥ったのだ。
案内の時の侍女服とは違い、どこかで見たような装飾華美の愛らしい侍女服が腕の中で身じろぎする。謝罪を向けられ、受けながらほっと息をついた。
――なんという幸運、というか……もしかしてもう誰にも会えないのではないかと半ばあせっていた頃あいで、逃してなるものかとしっかりと相手の肩を掴んでしまったのは本当に申し訳が無い。
腕の中の女性はうつむき加減のまま、かすれるような声で戸惑いを見せる。離してやれば安心するものと判っていても、マーヴェルは自分も窮地にたたされている為にやすやすと相手を逃す気もなかった。
「居間まで案内してくれるかな」
ヘッドドレスを頭にのせた女性は小さな声で「申し訳ありませんが……まだここに来たばかりで」と謝罪する。部屋が判らないというようなことを言われて落胆したが、それでもマーヴェルは相手の肩を支えたまま――彼女はまだ震えていた――「確か、玄関から入って左手の方だった。そこからそんなに離れていない部屋だよ」と切羽詰るように説明した。
たとえ屋敷の配置を未だ覚えていないメイドといえど、正面玄関の付近を覚えていないということは無いだろう。
「あの……」
泣きそうな声で、彼女は自らを守るように小さく口にして――そして、ぎゅっと自分の体を守るように胸の前で腕を交差させてぎゅっと自身を抱きしめた。
確かに不躾が過ぎるだろう。
マーヴェルは自らの行いを反省して、渋々その手を離して自分の前髪をかきあげて――相手に害意は無いことをしめすように微笑んだ。
「そんな風に怯えさせてすまなかった。ただせめて玄関に――」
一歩退くようにして改めて侍女を見下ろし、マーヴェルは絶句した。
うつむき、ぎゅっと唇を引き結ぶ女性は何かを決意するように顔をあげ、泣きそうな顔で微笑んだのだ。
「マーヴェル……元気にしていた?」
頭の中が一瞬で真っ白に塗り替えられた。
何か強烈な光が明滅するような感覚、頭はいきなりそれをまっこうから否定して――信じられないとゆるりと首が振られた。
まて、まて、まってくれ。
心臓が激しくどくりと音をさせ、瞬く間に口腔が枯れ果てた。幽霊? そんな訳はない。けれど自分の中の何かが違うと否定する。
いつだって会いたいと願っていた。早く早くと気持ちばかりせいていたというのに、何故か今、心の準備ができていない。
――自分の覚えている彼女は、化粧など少しもしていなくて、儚くて、今にも消えてしまいそうな程に儚くて、控えめな衣装を好んでいて。
だというのに、面前の女性は化粧もしていれば服装は華美なメイド服。まさかまさかという思いに自ら一歩退きそうになったが――腕はぐっと伸ばされた。
「リドリーっ」
「……そう」
戸惑いに溢れつつも、彼女はうなずき――マーヴェルは引き寄せ、そのすべてを確かめるように感情のままに抱きしめた。
「リドリー、リドリー、リドリーっ、会いたかった」
抱きしめた途端に、やっと納得した。
間違いなく彼女だと。姿はかわってしまったけれど、それでもやっぱり自分の愛するリドリー・ナフサートだと湧き上がった喜びに、力任せに唇を奪っていた。
今まで、優しい口付けしかしてこなかった。
こんな風に奪うような口付けなどしたことは無かった。
それでも、そうせずにはいられなくて。
顎先を持ち上げるように上向かせ、触れた唇を更に求めようとした――途端、力任せな一撃がマーヴェルの頬を打ち着けていた。
「やめいっ」
……やめい。
それは、いったいどんな意味だっただろうか。