意趣返しと耳鳴り
さめざめと泣くふりで見送るすかたん様を置き去りに、エルディバルトさん家の馬車で移動するあたしとアマリージェとルティアは、箱馬車の中で小さなパイを口にしていた。
目的地はルティアの――ひいてはユリクス様の邸宅。
いつもいつも他人様の家にお邪魔するというのも褒められたものではありませんが、他に行くあてといえば母の家で、あそこにいたっては心からご遠慮申し上げたい。
さすがに母もいろいろと懲りたり反省したりしているかもしれないが、軟禁とか監禁とかは人生のうちで一度で十分。更に言えばいろいろとややこしい事態を引き起こしそうですしね。
「リドリーの寛容さは時折あきれます」
本日のアマリージェはどうにも機嫌が悪いのか、ひんやりとした眼差しのままそんな風におっしゃる。
「あそこまでされたらわたくしでしたら絶対に許せません」
あそこまで――確かに。
人間って許容範囲というものがきっと存在して、ユーリの行動はといえばぎりぎりかなりアウトなのではないだろうか。
あたしの許容範囲でもかーなーりまずい位置。
顔がいいから許されるというのは当然もう超えてます。じゃあ何で引っかかっているかといえば――まぁ色々とあるのですよ。重箱のスミをつつくようにすれば出てくる程度のよさが。
「ルティはエディ様にでしたら何されても許せますわぁ。むしろ色々して欲しいくらいでぇ」
「ルティア様には聞いていません」
ずばっと切り捨てたアマリージュのすばやさに、あたしはうわぁっとちょっとばかり身を引いた。
「もしかして、というか……かなりの高確率でマリーってばユ……アレと喧嘩中?」
あやうくユーリと言いかけて、あたしは誤魔化すように手をばたばたと動かし、言葉を早めた。
名前は駄目だ。愛称といえども駄目だ。
さすがに絶対に本名など口にすることはしないだろうけれど――いろいろ危険すぎる。
「喧嘩なんてしておりません」
「じゃぁ」
「わたくしはっ」
アマリージェは彼女らしくも無く、ぐっと拳を握り締めた。
「コーディロイがしれっと正論をおっしゃるのが腹立たしいのですっ。自分のなさっていることを完全に無視して、わたくしに対してアジスの成長のさまたげになるから自重しろなどとっ」
ご自分はリドリーに悪さばかりなさっているのに!
自重などという言葉お持ちではない癖にっ。
真剣に怒っているアマリージェに対し、ルティアはいつも通りののほほんっとした調子でうなずき、応えた。
「まさに、お前が言うなっていうやつですわねぇ」
「そうっ。そうなのですっ。
自分のなさっていることを完全に無視して、他人に対してあのように厚顔無恥に言い切ることのできるあの性格っ。
どうしてリドリーは怒らないのですかっ」
突然その眼差しがキッっとあたしへと向けられ、あたしは口の中のパイの欠片を危うく立てに飲み込みかけた。
わたわたと胸を二度叩き、更に若干身を引かせる。
いや、怒ってましたよ?
ちゃんと怒っていましたではありませんか。アマリージェってば見てましたでしょうに。あたしの背中に張り付いて。
あたしは内心で言い訳のように思っていたが、まるで導火線に火でもついてしまったのかという勢いで、アマリージェは続けた。
「リドリーがもっと怒ってさしあげれば、あの方だってもう少しいろいろと落ち込んだりとか反省とかなさるのではないのですか?」
「え、ええっと……」
あれ、何故かあたしが怒られていませんか?
矛先がぐりんと向きをかえた?
「大嫌いの一つや二つ惜しげもなくぶつけて差し上げれば良いのです。嘘つきだの消え去れだのと言われ、シネだの突きつければ、さすがに鋼の強心臓にも傷がつく筈ですわ」
ちょっ、シネって――さすがにそれはまずいですよ。
絶対にアマリージェらしくない。
あたしにとって誰よりもお嬢様でお姫様なアマリージェの剣幕にあたしがたじろいでいると、ルティアは相変わらずの調子で小首をかしげてふにゃりと言った。
それはそれは猫科のイキモノのような微妙な笑顔で。
「マリィはリドリーを焚きつけることでぇ、兄さまを懲らしめて欲しかったのですねぇ」
「――」
「自分にはできないことを他人を操ってやることは、とぉっても卑怯ですわねぇ」
ちょっ、ルティアっ。
へらりとルティアが落とした言葉は、その音とは裏腹に随分と辛らつな言葉だ。
びくりと身を硬直させてしまったアマリージェの様子に、あたしが慌てて手を差し伸べようとすると、更にルティアは続けた。
「でも着眼点は良いと思いますわぁ。兄さまを動かすならリドリーを動かすのが一番ですものぉ」
くすくすと笑い、ルティアはバスケットの中のパイをもう一つつまみあげた。
そして、その眼差しが悪戯をしているかのようにきらきらと光り、あたしを見つめてくる。
「ねぇ、リドリー?」
――ルティアはアマリージェを諌めているように見えて、その実あたしに語りかけていた。
あたしの行動で、何かが変わる。
たった一人だけの魔法使いには主人がいる。そして、その魔法使いは主人以外の人間によって動かされてはいけないのだ。
陛下に直接あってみたい――そう思ったことは、もしかして物凄く自分の首を絞めたのではないだろうか。
あたしは自分の手のひらがじっとり汗をかくのを感じていた。
突きつけられた一つの問題。けれど、突きつけた当人は更に極上の微笑を浮かべてみせる。
「ということでぇ、兄さまを苛めて遊ぶのでしたらー、ルティも協力いたしますわぁ」
箱型馬車の中には微妙な空気が満ちていたというのに、ルティアは硬直したままのアマリージェの口元にパイを運び、その唇に半ば無理やり一口大のパイを押し込むと、パイの油のついた指先を舌先でなめ取り、にっこりと微んだ。
ルティアが微笑んでも相変わらず箱馬車の中には緊張が満ちている。
自分でそんな空気を作った癖に、ルティアはそんなものを完全に無視して、緊張で体を硬くしていたアマリージェと、そして同じように引きつっているあたしとをひとまとめにぐいと抱きしめた。
その唇がつむぐのは、先ほど自分が言っていた言葉をまっこう否定。
「ルティ、卑怯で意地悪なことだーいすきですものぉ」
***
「ちょっとした出来心だったのにっ。
ばれた、怒られた、嫌われたっ」
ひんやりとした大理石の床にひたすら丸を書き続ける主を前に、エルディバルトは頭の中で主をこのような状態にした女を罵っていた。
――そう、あの女さえいなければこんな姿を見ることなど無かったものを!
どんな時でも完璧な主人、どこに出しても恥ずかしくもない立派な主。だというのに、今現在のこの人物を決して他人に晒す訳にはいかない。もし見られでもしたら、抜刀すら辞さないだろう。
恥ずかしすぎる……
否! 主が恥ずかしい筈はない。
主には一点の曇りも無いっ。
もうどうしようもないジレンマに陥る髭の騎士だった。
「公を嫌うものなどおりません」
一応慰めるように口にしてみるが、恨めしい眼差しが戻された。
「基本嫌われ者だと自覚してるから」
「公っ。どうされたのですか――いつもの公らしくありません。どうぞそんな場でいじけ……しゃがんでなどいらっしゃらずに、せめてお立ち下さい」
「ちょっと寂しかっただけなんだよ。だってリトル・リィがまた遠くにいっちゃうんだよ?
離れたすきにまた他の男が近づいたりしたらぼくどうしたらいい? 殺しちゃっていいかな? いや、駄目だよね。基本そういうのは駄目なんだよ」
基本をつけなければいけない事柄だろうか。
「あああ、せめてリトル・リィが旅たつ前までに仲直りしておかないと。
心と体が離れている間が一番危ないと思うんだよ」
心はともかく、体という言葉がやけに生々しく感じて泣きたい気持ちになってしまったエルディバルトだ。
誰よりも清く正しく美しかったあの主はいったいどこに――エルディバルトの心の中にだけでもせめて生きていて欲しかったのだが、当人自らが惨殺しているのを目撃させられるのはつらい。
「嫌われたら生きていけないー」
めそめそとしている情けないイキモノとかしてしまった人に、エルディバルト慌てて進言した。
勿論嫌われて破局を迎えてくれればエルディバルトとしては御の字なのだが、さすがにそんなことは言えはしない。
否、むしろ完璧な主を嫌うなど言語道断!
主があの女を嫌ってくれればいいというのに――それはどうも望めそうにない。
「うう、どうしよう」
「そ、その時は記憶を封じてしまえば――」
単純な話をしたつもりだった。
他の誰にできる事柄ではなくとも、主にはそれができる。唯一の魔法使いとして――幾度かそのようなことを成してきた事実もある。
だからそれが問題だと思っていないエルディバルトの――それは失言だった。
それまで肩を落としてしょげ返り、完全にいじけていた相手がすっとその気配を変えてしまった。
本来の威厳ともいえる空気をまとい、中身すら切り替わったように立ち上がる。途端にそれまでまとっていた空気はすべて消え去り、その身を包み込むのは威厳と清浄なる空気。
「エル」
「はいっ」
「人の心を操ることは本来してはいけないことなのですよ。確かに私にはそういったことができますが、それをできることとしていいということは決して結びつけてよいことでありません」
言葉にしながら、その瞳がかげる。
伏せた睫が振るえ、寂しそうに落とされた言葉は、あやうく聞き漏らしてしまいそうなほどに小さなものだった。
「……心は、決して他人が犯してはいけないものなのですよ」
その意味を問い返そうとしたエルディバルトだったが、相手はすっと背筋を伸ばして片手を払った。
途端、それまで着用していた謎の――本当に意味不明な胡散臭い魔術師のような姿が一新され、本来の主の正装へと変わる。
「まずはすべきことをしよう。
誰か人をやって列車の手配を。特別列車を出してあげたいけれど、きっとあの子は怒るでしょうから、一般車両で。それと……とても私的なことだけれど――」
言葉をさえぎり、エルディバルトが続けた。
「我が家の家人を数名こっそりとつけさせて頂きます。あくまでも――ルティアの護衛としてですが」
「ふふ、ありがとう。そうしておくれ。
では神殿にもどろう」
「はい」
実直に一礼するエルディバルトに微笑で応え、彼の世界一すばらしい主は言葉を続けた。
「その後で……エル」
「はい」
「ルティアの家にはもぐりこんでも、ユリクスは怒らないよね?」
***
――ユーリを苛めて遊ぶ。
なぜ、どうしてそんな話になったのか。
しかもそれがどうしてこんな結果を生み出すこととなるのか。
あたしは鏡の中に写りこむ自分の姿にほとほとあきれ果てた。
そもそも、卑怯なことは大好きというルティアだが、コレって卑怯であろうか?
侍女服。
「おそろいですわぁ」
と、くすくすと笑うルティアは完全に楽しんでいるのだろう。侍女服といったところで、それはルティアが愛用しているもので、決してどこかの屋敷のお仕着せではない。絶対に掃除だとか厨仕事だとかには向かないであろう、レースがふんだんに使われ、ドレープたっぷりな愛らしさ。ヘッドドレスもふりふりと。
「どうしてこれでコーディロイを苛めることになるのですか」
アマリージェも押し付けられた衣装――実はまんざらでもない御様子――を眉を潜めて眺め回した。
「リドリーがいくら言ったところで、兄さまがうちに来るのは確定ですものぉ」
確定なんですか?
一応来るなと物凄く言っておいたのですが。
「お義父さまが兄さまを拒めると思いますかぁ?」
「――やっぱり駄目ですか?」
一番立派なオトナであるユリクス様の威光ですらユーリには意味が無かったか。まぁ、やっぱりユーリのほうが偉いのだろう……神殿官と神殿は別物だという認識だけど、結局冠は一緒ということか。
「一応お義父さまは兄さまに物事をきちんと言える方ではありますけどぉ。比較的兄さまよりなのですものぉ。諌めることはなさったとしても、屋敷に来ることじたいは許してしまうと思うのですよぉ」
あああ、ユリクス様優しそうですから。
「ということで、今夜の正餐ではあくまでもルティ達は給仕係りですわぁ。リドリーも絶対にお客様の給仕係りを貫いてくださいませねぇ」
果たしてそれがアレに対しての嫌がらせになるのだろうか。
というか、何故あたしも嫌がらせをすることになっているのだろうか。
ルティアの考えがまったく判りませんよ。
「言葉はあくまで丁寧にですわぁ。それで、リドリーがお義父さまの給仕のお手伝いを、マリィは兄さま、そしてルティはエディ様の給仕のお手伝いをしますのよぉ。何か言われてもにっこり笑ってくださいませねぇ。あくまでも相手のことは知らない顔をするのがコツですわよぉ? お義父さまのことは旦那様、そのほかの方はお客様でにっこり。よろしいですかぁ? 何を言われても慇懃に、更に無礼をつけたしてさしあげて下さいませぇ」
「何気なくエルディバルト様の給仕係を楽しもうとなさっていますわよね。普通に考えてここはルティア様がコーディロイの給仕で私がエルディバルト様についたほうが良いと思いますけれど」
「……マリィ、策士ですわわねぇ」
いや、策士か?
そもそも、それってもう嫌がらせでも何でもないような。
あのですね、ルティア。
それって何かのぷれいっぽいんですけど。
ルティアが楽しんでいるだけなのでは……ないですかい?
まったく意味はわからないが、完全に楽しんでいるルティアとコレがアレへの嫌がらせになると信じてしまったらしいマリーに押されて侍女服を着用してみたが、どうにも居心地が悪い。
どうせエプロンをつけるなら、パン屋のエプロンくらいで勘弁して欲しいものです。あれだって、可愛いうさぎのアップリケ付きだ。
三人で謎の侍女に変身し、色々と諦めてきゃっきゃと珍しく女の子っぽい会話でもりあがっていると、控えめに扉がノックされ、これまた簡素な――立派なハウス・メイドと思わしき濃紺のお仕着せの女性が顔を出して頭をさげた。
「お嬢様、お客様がおいででございます」
あたしの髪にブラシを当てていたルティアが「あらぁ」と落胆の声をあげ、心得た様子でアマリージェがルティアの手からブラシを受け取り、かわって髪をすきあげる。
お嬢様二人によってたかって世話をやいてもらうというハレム状態。
平和で幸せすぎて怖いくらいだ。
「予定には無い筈ですけどぉ……待たせておいて下さいませぇ。女の身支度は時間がかかるものですものぉ」
ああ、さすがに来客にその格好は駄目ですよね。
一礼して下がる侍女をすでに忘れたかのように、ルティアは鏡台の化粧瓶を手にとった。
「たまにはお化粧しましょうねぇ」
「ちっょ、身支度ってあたしですかっ」
まてまてまて、ルティア、口元が思い切り笑ってますよ。
「ルティ、身支度終わってますものぉっ」
ルティアは当然っというように言い切り、瓶の蓋をきゅぽりと音をさせて外した。
「終わっているならお客さんのトコいっていいですよっ」
「せっかくですものぉ。可愛い侍女を連れていきたい乙女心ですわぁ」
ひぃぃぃっ、それは止めて。
あたしはじたばたと暴れた。侍女服などで誰かの前に出るなんて冗談ではありません。ユーリ達の前に出るのだって相当恥ずかしい……というか、まて、これってもしやユーリへの嫌がらせではなくてあたしへの嫌がらせではないのか?
「もぅっ、仕方ありませんわねぇ」
ルティアは嘆息し、化粧瓶を控えていた本物の侍女さんへと手渡した。
「ルティが戻るまでに仕上げて差し上げてくださいませぇ」
ルティアから開放されたあたしは肩で息をつき、ぐったりと椅子の背もたれに両腕を預けた。隣では化粧瓶を手にした侍女さんが手の甲に化粧液を出してぬりぬりと伸ばしている。
「よろしいですか?」
「……やらないと駄目ですか?」
そうですか。
ペタペタと冷たい化粧水を顔に塗られつつ、あたしは脱力気味に「これって本当にアレを虐めるっていう目的でやられていると思います?」と、一人で優雅にお茶を飲んでいるアマリージェに問いかけると、アマリージェは困ったように微笑した。
「リドリーが完全に侍女になりきればある程度の嫌がらせにはなると思いますけど、どちらかといえばルティア様が遊んでいるだけにも見えますわね」
「ですよねー?」
「でも楽しいので私はいいと思います。
明日にもお二人はリドリーの郷里に旅立ってしまうのでしょう? 私もご一緒したいくらいですけれど、そうするとまた色々と面倒なことになると思いますし。今回はお留守番です。でも、お二人がいないことが寂しいのはどうぞ覚えていらして」
紅茶の表面を見つめて言うお嬢様の言葉に、あたしはへらりと笑ってしまった。
あああ、アマリージェが可愛い。
「何ですの? そんなにへらへらと」
「だって、マリーってば可愛い」
マリーは怒った様子で口を開きかけ、ふいっと横を向いてしまった。
思わず笑ってしまったあたしを、侍女さんが軽く「申し訳ありませんが顔を引き締めて下さい」と丁寧に言いつつ、結構強い力でぐいっと顔を固定する。
あたしは他人に化粧されるという体験にこそばゆい気持ちになりながら、もぞりと居住まいを正した。
***
ふぅっ。
あたしはやっと息をついた。
化粧に思いのほか時間がかかってしまい、やっと自由を手に入れたあたしはその時屋敷の一階へとおりていた。
何故なら、トイレが一階だから。
先ほどまで三人で大騒ぎしていたのは三階のルティアの私室で、今は屋敷の左翼棟の端。
あたしは濡れた手をハンカチでぬぐいながら、壁に掛けられた絵を眺めつつ歩いていた。
白を基調とした屋敷は神殿と似た雰囲気をかもしている。描かれている絵は全て風景画で、人物は無い。どれもこれもぼんやりとした風景画で、幻想的なものだ。
あたしは絵に気を取られて歩き、廊下の曲がり角でふいに人にぶつかった。
短い悲鳴が口から漏れて、咄嗟に謝罪の言葉が口をつく。
「ごめんなさいっ」
崩れたバランスを正す為に壁に手をあて、うつむいた顔を上げて――
「いや、こっちも前方不注意で」
穏やかな声が耳に触れた途端。
あたしは自分の体温が急激に遠のくような感覚に陥った。
あげかけた視線が相手の顎先で留まり、強い意志でもって視線が下がる。
萎縮した心臓が、さらにぎゅうぎゅうと押しつぶされるような圧迫感で息があがり、あたしは小さく喘いだ。
この声を知っていた。
この穏やかな口調を熟知していた。
あげられない視線の上に、どんな顔があるのかも――
胸に競りあがってくる鉛球のようなものを必死に飲み込んで、聞こえてしまうのではないかという心音をなだめすかして、
「あの、失礼……します」
どうしても震えてしまう声で小さく訴え、支えられている手を振りほどくように逃れようとした。
「ああ、まってメイドさん。
応接室に戻りたいのですが、案内してもらっていいかな」
うつむき加減で逃げようとしたというのに、そのまま無茶なことを突きつけられる。
何が無茶って、できれば意識をぶっとばてしまいたいくらい自分は動揺しているし、吐いていいといわれれば吐いてすっきりとしてしまいたいくらい体調は最悪だ。
更に言えば、応接間なんて知りませんよ。
あたし達がこの屋敷で使っている部屋と言えば、完全に家人の為のプライベートエリアで二階より上、来客用のそれではない。
一階について知っているところといえば、浴室とトイレくらいのものなのだ。
指先が小刻みに震えて、視界にもやがかかるような感覚に耳鳴りまで聞こえる始末。
一目散に逃げ出してしまいたいのに、足は鉛のように重い。
「メイドさん?」
問いかけが――まるで毒のよう。
向かい合うって決めた筈なのに、笑って……笑って「元気?」って、言う筈だったのに。
もう逃げ出さないと、決めたのに。
喉がからからと乾いて、体は重くて、あたしは――何故か笑い出してしまいそうになっていた。




