儚さと密告者
好奇心に溢れたアーモンド型の瞳がじっと自分を見つめている。
頭にはレースのヘッドドレス、その衣装は清掃などに従事するにはどうにも華美な侍女姿。使用人のお仕着せも貴族ともなれば見目麗しいものを求めるのかもしれないが、侍女というにはどうにも不思議な雰囲気をかもす女性だった。
それとも、上流社会の侍女ともなれば市井では理解できないものを持つのか。
「まぁ、婚約者様をお探しですのぉ?」
はじめのうちこそ奇妙な深い色合いを示していた瞳だったが、やがて好奇心が勝ったようにじっくりとマーヴェルを観察した。
そうしてやわらかい声音で紡がれた言葉に、マーヴェルはこくりと硬い調子でうなずいた。
藁にもすがる思いで発したマーヴェルの言葉に応えた女は、
「まぁ、婚約者様に逃げられてしまいましたのねぇ」
そう、声音だけは親身に、しかし内容は――
「……」
ぐっさりと突きつけられたのは、ナイフか包丁か。
「あらぁ、ごめんなさいねぇ。
どう言えばよろしぃかしらぁ、えっと、捨てられてしまいましたのぉ?」
言わなければよかった――
無残に胸に何かが突き刺さったまま、更に足先でつつかれているのか蹴られているのか。
挙句の果てに、一歩後ろに立つ親友である筈の大男は「そうなんすよ」などといっている。
カタカタと小さく身が震えるのは、体中に力を込めている為だろう。
憤りで。
しかし、その憤りを必死に隠してどうにか言葉を搾り出した。
「あの、いや、そういう……」
「ルティもぉ、昔婚約者に捨てられてしまいましたのよぉ」
その言葉に、実は彼女には悪意も悪気もなく、純粋なる慰めの意味でそんな風に言うのかと少しばかりほっとしたのもつかの間、
「でもルティ、婚約者のこと大っ嫌いでしたけどぉ」
彼女はにっこりと更に鈍器を振り落とした。
――軽く女性不信に陥りそうになったマーヴェルの背後、ドーザは嬉々として彼女に話を合わせた。
「そいつは良かった」
「とぉっても立派な方でしたけれどぉ、ここだけの話ですがぁ、ちょっと病気持ちでしたのぉ」
「そいつぁ難儀だ。不治の病ってヤツかい?」
ふるふると身を振るわせるマーヴェルを尻目に、二人はぽんぽんと会話を続ける。ドーザは不治の病という言葉に少しだけ感慨をのせたが、相手は相変わらずの調子だった。
「ですわねぇ。不治といえばぁ、不治かもしれませんわぁ。
幼女趣味でしたからぁ」
コロコロと笑う彼女に、ドーザは一拍呼吸を止めて「ま、そいつぁ……うん、むしろ破談になってよかったじゃねぇか」と乾いた笑いを浮かべた。
「そういうのはよくねぇからな」
「変態ですものねぇ」
誰だか知らないが、彼女を捨てた婚約者とやらを賞賛したくなった。
いや、幼女趣味はよくない。
絶対によくないが、こんな風に楽しげにこきおろされるのは不憫だ。誰とも知らぬ彼女の元婚約者に同情したマーヴェルは、見えない何かが未だぐさぐさと突き刺さったままの胸元に手を当てて、引きつった微笑を浮かべた。
「いや、彼女に心当たりが無いなら、もうそれで、いいです」
もう帰ってください。むしろ消えてください。
ああ、違う。
違う――彼女は藁なのだ。
怒りに任せて忘れてはいけない。やっと見えた、ちらちらと面前に垂れる一筋の藁。それを掴んだところで救われるとは思えない――むしろなんだかひどい有様だが、それでも「はいそうですか」と手放してしまうことはできない。
それでいいですと言った言葉を、あわてて自分で撤回した。
「ああっ、そうじゃなくてっ。
あの日――舟遊びの日に、もう一人客がいた筈なんです。その人が……どういった人か教えて下さいっ」
もしかして名前をかえているかもしれない。
そうだとしても、姿形までかえることはできない筈だ。
「リドリー・ナフサートと名乗っていないとしても、一緒にいた人のことを、どんな女性であったか、どうかどこの誰だか教えて下さい」
切羽詰るような懇願に、面前の女性はかわいらしく睫のたっぷりとした瞼をぱたぱたと動かした。
「ルティ、ただの侍女ですから、わかりませんわぁ」
「ちょっ。待って!
少なくともどんな女性だかはは判るだろっ」
懇願する言葉が怒鳴り声に変わる。
すると、侍女服の舌足らずな物言いをする女性はにっこりと微笑んだ。
「ルティ、あの後すぐに帰りましたものぉ」
のらりくらりとかわされ、マーヴェルはぐっと拳を握りこんだ。
「オジョウチャン、悪ぃがもうちょっと真剣になってくれや」
怒鳴るべきなのか、それとも懇願すべきなのか――もう喚いてしまいたいような気持ちを包むように、背後のドーザがマーヴェルの肩に手を添えて自ら身を割り込ませた。
その口調が真剣で、マーヴェルもどこかほっと正気を取り戻す。
「本当にわからねぇっつうのか?」
「ルティ、嘘をつくように見えますぅ?」
憤慨するように彼女は頬を膨らませ唇を尖らし、やがてにんまりと微笑した。
「貴方の婚約者のぉリドリー・ナフサートなんてヒト、知りませんわぁ」
一つ一つ音を区切るようにして告げた言葉に、マーヴェルは落胆しながら言葉を飲み込んだ。
そう、確かにルティアはマーヴェル・ランザードの婚約者のリドリー・ナフサートなど知らない。
ルティアの知っているリドリー・ナフサートは、マーヴェル・ランザードの元婚約者であり、今はただのパン屋の店員だ。
「ちらっとも見てないってぇのか?。あんたの主人は、どんな人と一緒に舟遊びをするとも言ってなかったかい? おたく等につけた船頭が、その人が俺達の知り合い。マーヴェルの婚約者だったと言っているんだよ」
食い下がるドーザに、マーヴェルは少しだけ復活しながら期待を込めた眼差しで相手の女性を見返した。
どんな嘘も見破る覚悟で。
「彼女は、肩から少し下の明るい栗色の髪に儚い雰囲気の華奢な娘だ。
一緒にいた女性は――どんな人だったのか、どうか教えて欲しい」
懇願するようにゆっくりと言葉にした。
脳裏にリドリーを思い浮かべて。
野の花のようにひっそりとした姿に、困ったように半眼に伏せた瞳でそっと微笑む。触れると壊れてしまいそうな、護ってあげないとと思わせる可愛い娘。
せつせつと語るマーヴェルに、面前の侍女は怪訝に眉を顰め、そでももまだ足りないとでも言うように心持ち首をかしげて。
「……儚い?」
「世間知らずでか弱い女性なんだ。触れたら壊れてしまいそうな繊細な感じの」
「か弱い?」
確認するように単語を呟き、彼女は空を見るようにして口にした。
「先日の同行者は、少なくともそのような女性ではありませんわねぇ」
というか、それはもうすでにだれ?
***
問題無し――そう、問題は、無し。
定期的に書き記す報告書の文面は、判で押すかのように決まっていた。もう遥か昔に緊張に身を震わせ、父の書き記した書面と付き合せて震えそうになる指先をかろうじて動かしていたことなど嘘のように、跳ね上げる文字先までそっくりそのままに同じ文面を書くことを覚えてしまった。
文末には自らの名を記し、そして吸い取り紙でインクを吸い取るまでが惰性で行われる。
そこには何の心も無く、ただソレというだけ。
問題無し。
果たしてそうであろうか。今年はあまりにも多くの事柄が目につきすぎて、今まで通りの問題無しと同義であるとは決して言うことはできない。
この冬に領地内に雪が降ったことも今までの冬とは違う。
確かに領地の外であればこの辺り一帯は深い雪に包まれる。だが、町の人々が言う竜の恩恵により、この領地内が冬に塗れることなどこの十年程ありはしなかった。竜珠が落ちることは時折あれど、竜峰に――
吸い取り紙をすいっと引き上げたところで、書面の左上についっと細く神経質そう指が触れた。
びくんっと身が跳ねたのは、それまでそこに人がいることに気づいていなかった為だ。
いや――気づくもなにも、今、たった今、現れたのかもしれない。
「問題無し……ね」
揶揄するような言葉に、この部屋の主である青年はそれまでの無心を取り繕うかのように嘆息してみせた。
「重要書類ですよ。いくら貴方でも軽々に扱わないで下さい。燃やすのも無しです」
「ジェルドは嘘つきだな。父親とは大違い」
肩をすくめる相手は、今は神官服を身にまとい、ふわりと香を焚き染めたかのような香りをまとっている。おそらく、朝の禊の後に竜峰にでも訪れていたのだろう――それが、彼の数少ない勤めなのだから当然といえば当然だが。
かのヒトに命じられていることはひとつだけ。
竜を眠らせ続けよ。
歴代の竜公のうち、そのような命令ひとつだけに縛られているのは当代のみ。
「嘘などありませんよ」
「今年の後半、竜峰に入り込んで死んだ人間はもう四人目だよ。そういったことも報告していないでしょう?」
「竜の御在所に入り込める者などいない。ならば問題はありません」
きっぱりといえば、相手は生真面目な表情をふっと緩ませた。
いつだって老成した微笑をたたえ、時に悪戯を企む顔で対するその顔が眉を潜める。まるで年下の幼い少年のように。
「……ごめん」
「何に対しての謝罪でしょう」
「うん、ごめん」
もう一度同じ言葉を繰り返し、迷い児のようなその人は、歪んだ笑みを浮かべて見せた。
「――約束、破ってしまうかもしれない」
消え入りそうなその言葉に、ジェルドは相手の指先が触れたままの書類を引き抜き、決してその顔を見ることなく自分の書き記した無機質なサインだけを見つめた。
何の感情も示さない文字。
惰性を示す最たるもの。
それを見つめながらゆっくり瞼を伏せ、年長者として、幼馴染として感情を込めた言葉を口にした。
「良かった」
「――ジェルド、貴方もつくづく損な性分ですね」
先ほどまでの少年のような雰囲気をかえ、年齢が逆転でもしたかのように老成した口調が返る。
その口調に内心で安堵して、
「そうですね。本当に、ええ、心から本当にそう思います」
ジェルドは顔をあげ、心労を示すようにふかぶかと嘆息を落とし、かなりわざとらしく首を振ってみせた。
自らに対してあきれ果てているという風に。
――そう、それは嘘ではない。
自らにあきれ果てている。
自分はもっと非情でなければならない筈。自分はもっと公平でなければならない筈。けれど、そういう風には到底なれそうにない。
――問題あり。
罰せられることがあろうとも、その言葉を記す日はきっと来ない。
諦めた者の乾いた笑いに、尊き人と崇められる哀れな人は共犯者のような笑みを浮かべてみせる。
そのいっそ穏やかな空気を打ち破ったのは、入室の許可さえ求めない少女の甲高い声だった。
乱暴に執務室の扉を開け放ち「兄さまっ」と声をあげたアマリージェは、その部屋に兄だけではないと知ると、途端にむっとした様子で眉間に皺を刻み込んだ。
「コーディロイ、また兄さまを苛めてらっしゃるの?」
最近ほんの少しだけ大人びた雰囲気をまとうようになった妹は、しかし途端に以前通りの子どもに立ち戻る。
「いやだなー、マリー。
ぼくがジェルドを苛めて何の得があるのさ。まるで常日頃からねちねちと苛めて遊んでいるようないい様だけれど、決してそんな事実はないからね」
「さようですか。でしたらいいのですけれど」
「それより、マリーはジェルドに何か用事だったのでは無いの?」
冷たい視線に晒されつつも、楽しげな様子を見せる青年に促され、アマリージェは途端にその冷たくきつい眼差しをジェルドへと突きつけた。
また何かくどくどしい小言でもはじめるつもりなのだと感じつつ、ジェルドはそっと書類を机の引き出しの中に落とて隠す。
定期的に書き記さなければならないその報告を、自らの本来の役目を――誰よりも妹には知られたくなかった。
「どうして普通の客室ではなくて屋根裏部屋なのですか」
きつい口調で切り出された言葉に主語は無い。
それでも相手の言わんとしている事柄を正確に読み取ったジェルドは、ちらりともう一人の青年に視線を向けて苦笑した。
小首をかしげて同じように視線だけで問われる。何の話?と。
「食事だって、アジスは普段から私達ととっておりましたのに。この屋敷に滞在中は使用人達と一緒だなんて、そんなのはあんまりです」
もう一人の客人のことなど無視して、自分の言いたいことだけを口にする妹に、ジェルドは苦笑した。
「マリー、今回は客人としてこの家にアジスを招いた訳ではないのだよ。彼自身納得して、見習いとしてこの家にいるんだ。それでも他の使用人とは区別してあえて屋根裏部屋にしたんだ」
苦笑するジェルドだが、実際は――もともと客室をあてがうつもりであったものの、アジスが固辞したというのが正解だった。
食事の席も、同じように自分達と共にとるようにと口にしようとしたが、相手の顔つきを見てやめた。
アジス・トルセアは遊びでこの屋敷にいるのではなく、あくまでも騎士見習い――更に見習いとしてこの冬をすごすつもりなのだ。
そんな相手の強い感情を無視することはできない。
――未だ子どもだと侮ってしまうことは、彼自身の気持ちを踏みにじる行為だろう。げんに今頃の時間は嬉々として馬房で馬の世話をしている筈だ。
ジェルドの言葉にアマリージェは納得しきれないような表情を浮かべ、唇を引き結んだ。彼の妹は何よりその眼差しこそがものを言う。
自然と苦笑が口元にのぼり、ジェルドは柔らかな眼差しで妹を見つめた。
「マリー」
「何でしょうか」
「おまえが足を引っ張ってはいけないよ。確かにお前は彼の教育係をかってでてはいるけれど、むしろ遊びの一種だと捉えてやいないかい? 彼の人生にお前は決して必要ではない。彼のことを思うのであれば、むしろそろそろお前は手を引くべきだ」
しっかりと釘をさせば、彼の妹は更に強い怒りの眼差しをギっと兄へと向け、それをさえぎるようにひょいっと――もう一人の客人がアマリージェの顔を覗き込んだ。
「マリー、アジス君は子どもかな」
「……違いますわ」
子どもだといいたいが、それを自分が認めることはアマリージェにもできかねた。自分よりも二つ年下で、どう考えても子供なのだが、アジスは精一杯背伸びをしているところがあり、他人に子供だなどといわれることを喜びはしないだろう。
「今はアジス君も色々と学びたい頃だから、マリーはそれをきちんと見ていておあげ。
そして、もし彼が手を貸してほしいというのであれば、いつでもその手が差し出せるように。マリーも素敵な女性におなりよ」
優しく穏やかに言われる言葉は理解できる。
だが、それを納得することがシャクにさわり、マリーはぐぐっと眉根を潜めた。
「コーディロイ」
「ん?」
「こんなところにいて宜しいのですか? リドリーが列車に乗ってしまいますわよ」
辛らつな口調で言えば、相手ははたはたと手を振った。
「あー、それは大丈夫。
駆動車両との連結部品を破壊してあるから、そうそう列車動かないよー」
はははっと陽気に言う相手に、ジェルドはギョっと目を見開き、アマリージェは更に冷ややかな笑みを称えたまま「そうですね、それは動きませんよね」と賛同するように告げたが、もちろん――頭の中には小さな意趣返しが浮かんだのは言うまでもない。
***
突然むずむずと鼻腔がくすぐられるような感触に、ぶしゅんぶしゅんと派手なくしゃみが飛び出した。
「暖炉をお付けいたしましょうか?」
控えている侍女が心配を示し、あたしはへらへらと手を振った。
「あーだいじょうぶですよ」
「お風邪を召したら大変です」
お風邪、って。
「あたしこう見えて頑丈ですから」
子供の頃から体の弱いティナとは違って病気とはあまりご縁がありません。一度だけ酷い風邪をひいたけど、それだって川に落ちた為だ。
――マーヴェルに引きずり落とされた嫌な思い出がむくりと浮かび、あたしは思い切り顔をしかめた。
ああ、そんなことより。
「あの、どちらかにお出かけですか?」
手荷物の中からポシェットを引っ張り出して肩にかけたあたしに、侍女さんが心配そうに声をかけてくる。
「ああ、駅まで。
予定の便はなんだか調子が悪いとかでとまってるけど――考えてみれば他の便でもいいでしょう? 列車って一機だけじゃないだろうし」
もともと本数は少ないが、だからといって完全に動いていない訳ではないだろう。
「まさかこのまま行かれるおつもりですか?」
「まさか! とりあえずチケットの払い戻しと他の便の空きを聞いてこようと思って」
少なくともルティア抜きで行くつもりは無い。
一人で強行したらなんかすごく面倒臭そうですからね!
あたしがふるふると首をふると、侍女さんは「家の者に行かせますが」と控えめに勧めてくれたけれど、あたしは部屋の片隅にある時計を一瞬確認し、またしてもどこかのおばさん風にはたはたと手を振った。
「馬車を出していただけたら自分で行ってみます。
ちょっと暇だし」
もう馬車は断りません、だって方向音痴ですしね。
ハハハっと変な笑いまでつけて言った途端、あたしの鼻はまたしてもむずむずと疼いた。
ぐしゅんぐしゅんっと盛大にくしゃみを撒き散らし、あたしは顔をしかめた。
「いやだなぁ、どっかで噂でもされてるのかしら」
勿論噂ごときでくしゃみが出るなんて迷信だろうけど――何より、あたしの噂をしているような暇人はそうそういないだろう。
いるとすればそれはただ一人。
髭面のエルディバルトさんに違いない。
ほら、あのひとってば物凄く根に持つ感じですからね。
性格悪く、ねちっこく。
ああ、そういうあたしが一番根に持ってるかしら?
そりゃあ勿論――
根にもってますけどね。