オンナとヤツアタリ
酔い覚ましに喉の奥を流れ落ちた生ぬるい水は、口の端を伝い落ち、手の甲で乱暴にぬぐいあげた。
脳裏をちらちらとかすめるのは、落ち窪んだ瞳に涙の痕跡を残したティナの顔。
――リドリーが死んだ。
そう繰り返して、その辛さに正体を無くした少女の慟哭。
リドリー・ナフサートは生きているのだろうか。
それとも、死んでいるのだろうか。
生きているとしたら、何故あんなにもティナは慟哭し、自らを責めて――否、現実を拒絶するように内に篭っているのだろう。
罪悪感というものは、人の心をあそこまで叩き壊すことができるのだろうか。
罪悪感だけで人が死んだと思い込めるのか?
ドーザは水瓶の中に映る夜明け間近のにじんだ月をにらみつけ、それを破壊するように桶を突っ込んだ。
ドーザの知るティナは天真爛漫という言葉と小悪魔という言葉を足して割ったような女だ。
他人の気を引きたくてちょっかいは出すくせに、その癖嫌われやしないかとどこか臆病に相手を伺っている。
――姉の婚約者であるマーヴェルを好きだと言って憚らない癖に、姉を苛めている訳ではなく、姉の動向にも気を掛けていた。
臆病なイタチのように。
「リドリーはずるいのよ」
何かのおりに、ちょっとは考えて行動しろよと苦言を呈したことがある。もちろん、ドーザだとて真面目な人間ではないのだから、そんなことは滅多に口にしない。それでも、ドーザの目にはティナの言動が行き過ぎているように見えたのだ。
その当時、マーヴェルがティナを好きなのだと勘違いしていた時だとしても。
「何もしないで全部手に入るの。
なのに、自分は別に欲しくないって顔してる。最終的に全部手にいれる癖して、それを仕方ないみたいな顔してるの。欲しいなら欲しいって言えばいいのにっ」
言葉を吐き捨てておいて、ティナは眉間にくっきりと皺を刻んで身を翻した。
「ドーザ、あんたはリドリーのこともマーヴェルのことも判ってない。
それに……あたしのことだって」
身を翻しただけでは足りなくて、更に顔を背けたティナに対して、どうしてそこまで姉を嫌うのだろうと思ったものだ。
もちろん、好きな男が最終的には姉のものになると思えば、憎しみもするだろう。嫌いにもなるだろう。
でも、見ていれば判る。
ティナは――リドリーを本当に憎んだり嫌ったりしていた訳ではない。
むしろ、リドリーに嫌われることを本心では一番恐れていた。
相手の心がいつ自分から完全に離れるのか、そんな危うい駆け引きをするように、じっと見つめて、じっと息を潜めて。
――リドリー……
手桶にくんだ水を頭からひきかぶり、犬のようにぶるぶると首をふって水気を飛ばしながら、ドーザはなんだかやりきれない気持ちで舌打ちした。
「女ってヤツぁわからんっ」
――女なんざ単純なのが一番だ。
ふにゃりと笑い、小首をかしげ、愛嬌を振りまく。
腹に何事も溜めずに愛らしい声で。
ふっと浮かんだのは、左右に結い上げた髪に白いヘッドドレス。
侍女として控えているかわいらしい女。
歓楽街の入り口なんぞで顔を合わせても、そ知らぬ顔で相手に恥をかかせない心遣い。そう、女っていうのはああいうのが一番だ。
ドーザは口元をにやりと歪めつつ、水瓶の中にざぶりと手桶を放り込んで、ちらりと地面で潰れている友人を眺めた。
「水でも飲んでしっかりしろや、ほら」
ばしゃりと頭からかけた水に、同じく犬のように頭を振って水気を切りながら――その目は不機嫌そうにドーザをにらみ付けた。
「朝一で起こせって言ったのはお前だろが」
「やり方があるだろ、やりかたがっ」
うっせーんだよ、このヘタレ。
***
ほぅっと口から零れ落ちた息は、白い湯気となって大気に溶けた。
早朝の冷ややかな空気に自然と身を縮めて、ぶるりと体を駆け抜けた寒気に肩から掛けたショールの合わせを無意識に合わせる。
本来であればこっそりと馬舎から栗毛の馬を一頭引き出し、誰にも気づかれぬように屋敷を抜け出そうと思っていたのだが、未だ早朝だというのに馬舎の主はおせっかいにも馬車の手配をしてみせた。
突然の仕事に御者は憤懣の瞳を隠そうとはしなかったが、それでも馬車を降りる頃には女主を心配するように「もう少し先までお送り致しますよ」と気遣ったが、ルティアは淡い微笑で首を振った。
「ほんの散歩ですわぁ」
――ほんの散歩。
人の多い街を離れ、丘の上に作られているひっそりとした医療院へと、ほんの散歩。
愛する男の寝台をこっそりと抜け出し、まるでこそこそとこんな場にいることが知れればエルディバルトはどう思うだろうかとチラリとよぎり、何も思わないのではないかと勝手に落胆した。
愛されていると思うこともあれば、ただの惰性なのではないかと思うこともある。命を賭して庇われれば想いは更に強くなるのに、その裏でただの騎士としての当然の勤めではあるまいかと疑う。
何より、その根底にあるのは義務――もしくは同情が強いのだろうと昔から知れていた。
自分はあの男にとっては主からの賜り物に過ぎない。
それとも、主が捨てたものをもったいないと拾い上げただけの主人好きが嵩じすぎた収集癖のようなものかもしれない。
しっとりと水気を含んだ下草の上をそろりそろりと歩きながら、丘の上に突き出るようにして見えはじめた屋根の先端を捉える。
――記憶さえ奪ってしまえば、事態は良い方向に転がると思ったのは安易過ぎた。
悪夢にさいなまされ、日々憔悴していく男を不憫と感じ、そんな罰を与える兄――実質上の兄ではありえないが――を非難したが、結局は自己満足にしかならない。
まるで麻の袋の中でもがくように意味が無い。
こうして、こっそりと窓から中をうかがったところで何かがかわることもない。ただ、自分の気持ちをやわらげたいというだけの我侭に相違ない。
「記憶の操作は危うい。
幾度も繰り返せば弊害を生み出す――これ以上やることで、ことが良いように転ぶとは思えないよ」
やさしく諭す声に不満さえあげられない。
我侭を言っているのは自分だ。
「ルティアの気持ちも判らなくはないけれど、あまりおかしなことをするものではないよ」
海運業者であるランド商会に対しての制裁は、完全にルティアの先走りだ。
やられた事柄、自分のしてしまった失態に我慢がならずにしでかした八つ当たり。その尻拭いの為に養父であるユリクスはおろか、兄すらも煩わせてしまった。
最近のルティアは何をしたところでうまくいかない。
そのうまくいかない自分がおかしく、ルティアは思わず口元をほころばせてしまった。
自嘲ではなく、ただ単純におかしいのだ。
子供のように愚かしい自分がオモシロイ。
自らがこんな風に右往左往するようになるとは思っていなかった。何がどうしてこうなったかといえば、考えるまでもなく――リドリー・ナフサートだ。
自分は彼女によって相当振り回されている。
リドリー・ナフサートによって竜公の婚約者としての立場を失い、そのおかげで恋しい男を手に入れた。
そして、汚らわしい存在として大嫌いであった筈の相手は――竜公は、今となっては「手のかかるオトウトみたいですわよねぇ」つぶやきにまた笑みが混じった。
あくまでも弟ではなく、兄さまと言っているのは少しだけからかいが含まれているのだが、気づいてもいないだろう。
ルティアはほころぶ口元を軽く押さえ、ふと他人の気配に足を止めた。
こっそりと医療院に近づくルティアとは違い、うだうだと口論するかのように歩を進める気配に、すっと息をつめて近くの木に手を添えた。
だがその行動が一拍遅かったか、相手の視線がつっとルティアを捕らえ――ルティアは一度だけ眉間に皺を刻んだが、すぐにいつもの笑みを浮かべてみせた。
「あらぁ、また変わったところでお会い致しましたわねぇ」
気楽な調子で声を掛けたルティアと違い、足を止めた二人の男は微妙な顔をして見せた。
体躯の良い男はあからさまにルティアに対して一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに喜色を浮かべ、そしてもう一人の男は緊張を孕んだ強張るような厳しい表情を浮かべ――そして、まるで獲物でも捕らえたかのようにゆっくりとした足取りでルティアへと体を向けた。
「少し、話を聞かせてもらいたい」
硬い口調で切り出された言葉に、ルティアは愛らしく――あくまでもそう見えるようなしぐさで小首をかしげ、微笑した。
「まぁ、何ですのぉ?」
「あなたのご主人のこと――もしくは、あなたのご主人の友人のことについて」
硬い口調で言いながら、こんな早朝だというのに濡れた前髪をかきあげた男は、懐から硬貨を数枚引き出した。
「あらぁ、賄賂なんて古典的ぃ」
「上流の家の使用人がこういったものでどうにかなるのか、正直無礼なことなのか判らない。でも、純粋に謝礼として受けて欲しい」
その真剣な口調に、ルティアはじっと硬貨を見つめ、ふふっと口元に笑みを這わせた。
「わたくしのご主人様のことをお聞きになりたいんですのぉ?」
「いや……伯爵令嬢のことというより」
口を濁す相手に、ルティアは瞳を瞬いた。
伯爵令嬢――ぴんとこない単語だが、それがすぐにアマリージェを示すものだと気づく。つまり、どうやら相手が知りたいのはルティアの愛する主人エルディバルトのことではないらしい。
なんと残念な。
エルディバルトのことであれば全力で教えて差し上げますのにぃ。
性癖から性感帯まで。
ことこまやかな部分まで。
からかい全開でそんなことを思っていたルティアに、面前の青年は真摯な眼差しで告げた。
「リドリー・ナフサートという女性を探してる。
あなたのご主人のご友人にそういう名の女性がいないだろうか?
いや、もしかして今は違う名前を名乗っているかもしれない……俺が探しているのは、あの日。あなたがご主人について舟遊びとしてやってきたあの日に、もう一人いたという女性についてだ」
ぴくりと反応してしまわなかったことに、ルティアは自分で自分を褒めてやりたくなった。
相手の真摯な態度に反し、ルティアの笑みが深まる。
「まぁ、女性を探していらっしゃるのですかぁ。
その方とどういう関係でいらっしゃるのぉ?」
ルティアの言葉に、青年の手が無意識のように自らの左手の薬指に触れ――一度ためらい、けれどしっかりとした口調で告げた。
「俺の、婚約者なんです」
ある程度予想はついていた。
それでもそれはある種の衝撃としてルティアを襲い、ルティアはそれを表に出してしまわないように必死に抑えた。
それはつまり、噴出してしまわないようにこっそりと手の甲をつねるという行動でもって。
――やぁん、それはとってもご愁傷様ですわぁ。
***
さて、世の中には面倒くさい男が存在するらしい。
たとえば、自分のことは完全に棚はおろか二階の納戸、もしくは屋根裏へと放り出しこんこんと説教をかます男とか――さらに、恨みがましい眼差しでじぃっと見てくる某どっかの国王の甥っ子とか。
「何ですか」
楽しい筈の朝食の席で、何故にあたしはエルディバルトさんと二人でテーブルを囲んでいるのでしょうか。
理由は簡単、ここがエルディバルトさんの邸宅だから。
この人のご主人様は「朝の禊」とやらの為にいそいそとお出かけしているから。ルティアはどうやら朝の散歩にいってしまったままだから。
「……何も」
ふんっと鼻を鳴らして黙々と食事をするわんこ様。
ですが残念。
わんこ様は口を開かなくても思いっきりお考えが駄々漏れです。漏水しておりますよ。
しかも、だばだばと。
ほんの数分であっという間にお風呂はおろか池のような水溜り。
――おまえのせいでご主人様と一緒に出かけられなかった。
というのも「ルティアが戻るまでリトル・リィのことを頼みますよ」と、彼のご主人様は淡い微笑でエルディバルトさんに命じつけたのだ。
思うんだけどさ、あれって絶対にわざとですよね。
完全にタラシの顔と声ですよ。
エルディバルトさんが鼻の下だらだら延ばす音程とか承知でやっているに違いない。
あたしに向けてあんな表情とか声を出したことなど一度も無い。
なんとなくむかむかとしつつ、あたしは目に見えない水溜りが更に広がることに辟易とした嘆息を落とした。
――人の家でご主人様と不道徳な行為に及ぶとは許せん。というか、うちの子に触るな淫乱。お前のせいでうちの子が不良になった、どうしてくれる。
これはね、もう完全に視線が言っている。
まるで潔癖な母親ですかあなたは、と突っ込みたいくらいの雰囲気をだぁらだらとかもしている。
あたしはせっかくの朝食の味も堪能できず「お前など大嫌いだ!」とありありと態度で示しているエルディバルトさんの大人げのなさに、かーるく、ぶちりと切れた。
そうですか。
あたしは貴方の大事な大事なご主人様を堕落させた性悪女ですか。
そうですねー、貴方様の前で凛とした様子を示す神官長様ときたら、それはそれはご立派な聖人君子ですものねぇ。
ですが、あいにくとあたしはそんな聖人君子なユーリなんぞ知りません。
あなたがどれだけ「おまえのせいだ」と言ったところで、あたしの前にいるアレはただの変態で変質者でデロデロとしたエロ親父――失礼、多少言い過ぎ――なのですよ。
あたしはにっこりと微笑を浮かべ、エルディバルトさんの「大嫌い」光線を撒き散らす視線真っ向から受け止めた。
「エルディバルトさんの気持ちは十分判ります」
「なっ……なんだ、突然」
「でも仕方ないですよね。
あたしだって人前でベタベタとかしたくないですし、他人様のお屋敷に滞在中に未婚の男女が一緒の寝台に寝るなんて冒涜的行動は許しがたいと思うのです」
あたしは極力にこやかに、かつ丁寧な口調を心がけて言葉をつむいだ。
「客室の鍵だってきちんと掛けましたし、無意味かと思いつつも扉の前にはチェストを置いたりなんて涙ぐましい努力もしてみたりしたんです」
していませんが。
だってしても無駄だって知っていますからね。
「きちんとしたつもりだったんですけれど、それでも寝台に潜り込んでくるんです。出て行って欲しいとお願いしてみたり、無理やり寝台から追い出そうと試みたりもしたのですけれど、最後には捨てられた子犬みたいにすんすん泣きまねまでするし。エルディバルトさんからも節度をもつようにきつく言って頂けませんか?」
言えるものでしたらね。ケッ。
それはそれは丁寧に、かつ心からお願いしてみましたが、エルディバルトさんは顔を真っ赤にして席を立つと、びしりとあたしへ指を突きつけた。
「私の公はそんなことはしなーいっっ。
主を愚弄するかっ、貴様っ」
「残念ですがあたしの公はするんです」
くっ、わざとらしくあたしのなどと言ってしまいましたが、コレは当人には絶対にいえませんね。
「くぅぅぅっ、私は認めていないからなぁぁっ」
いい大人が地団駄を踏む子供の如くの勢いで食堂室を飛び出していく様子ときたら、実に壮観でございました。
萎えていた食欲を増進させたあたしは、その後スープを二杯もおかわり致しましたが――もしかしてちょっとオトナゲなかったのではないかと今は反省しています。