惚気と戯れ
無駄に時間が空いてしまった。
本来であれば今この時間には列車で座っていた筈だというのに。
夕方、アジス君とアマリージェとが帰宅し、ルティアが気遣うように「どこか行きたいところがおあいでしたらぁ、お連れしますわよぉ」と言う言葉に、あたしは首を振った。
場所は変わらずエルディバルトさんの邸宅。
ルティアの話では、ユリクス様の屋敷よりはやや大きい程度だということだけれど、その外観を見比べたことは無い為にいまいち判らない。
「聖都見物も、前回まっとうにできませんでしたでしょ?」
思い出したくもない嫌な記憶として処理されているのだろう、アマリージェにしろルティアにしろ、前回の舟遊びについてはあまり話題にあげたりはしなかった。それでも、ぽっかりとあいてしまった時間を埋めるように、ルティアはそんな風に切り出した。
「そんなに気を使わないで。
それに、ある程度の場所は――なんとなくだけど判るし」
その辺りの散歩に付き添いは必要ない。
それでなくとも、ルティアにはこれからの数日無駄に迷惑を掛けるのだ。
幼い子供でもないのに、自分の郷里に戻るのに付き添いなんてと呆れてしまうが、交換条件なのだから仕方ない。
家出した時だって一人で幾日も慣れない馬車や列車に揺られていたというのに。
ユーリにあたしの付き添い役を頼まれたルティアは笑みを浮かべて快諾してくれたけれど、あたしは思い出しては「ごめんね」とルティアに謝罪をくりかえし、ルティア当人はのほんっとした表情で小首をかしげて見せた。
「旅行なんて滅多にしませんものぉ。ぜんぜんかまいませんわ――それに、リドリーを一人にしておくのは心配ですものぉ」
「って、あたしはそんなに信用できないですか?」
どこかで迷子にでもなりそうですかね?
あたしがじとりとした視線を向けると、ルティアはひらひらと手を振って見せた。
「あらぁ、リドリーってばおばかさん」
「はい?」
ルティアは大きな翠色の瞳をさらに大きく見開き、手じかにあったクッションを軽く二度たたいて膨らませた。
「リドリーって騙されやすいのではないかしらぁ?
誰もが良い人だなんて思っているとぉ、足元を掬われてしまいましてよぉ?」
「これでも一応用心深い性格のつもりですよ」
「でもぉ、貴女の付き添いは貴女の為だけではありませんのよぉ?」
くすくすと笑うルティアは、意図的に意地悪な表情を浮かべて見せた。
「もちろん、リドリーは大事なオトモダチですけどぉ、ルティはそれ以上に兄さま贔屓ですものぉ」
最近のルティアは決まってユーリを兄と言うようになった。
以前は「公」と呼んでいたのだから、何かの心境の変化かもしれない。ただし、聞いた話によると実はルティアのほうがユーリよりもほんの数ヶ月年上らしいのだけれど。
「ルティはぁ、リドリーが浮気とかしないように監視する為にご一緒するのかもしれませんわよぉ」
意図的に底意地悪い口調で言う姫君をしげしげとながめ、あたしは更に意地の悪い口調で応えた。
「なーんて、あたしのこと監視している間にエルディバルトさんが浮気してしまったりしたらどうします?」
「エディ様が浮気!」
「浮気どころか本気とか」
意地悪心でさらに付け加えると、ルティアはびくりと反応し、それから笑い出した。
「ありえませんわぁ」
「ものすごい自信ですね」
「だぁって、もしルティが本当に負ける程の相手がいたとしましたらぁ」
ルティアはじぃっとあたしを見つめた。
それからじっくりと、まるで止めを刺すように優しく囁いた。
「兄さましか思いつきませんものぉ」
あたしとルティアは目を見合わせ、彼女の満面の笑みに耐え切れなくなってあたしはつっと視線をそらした。
イヤな想像しちゃったよ……
イヤというか気色悪いというのに、ルティアは相変わらずの笑顔だ。
「兄さまは永遠のライバルですわぁ」
「ご、ご愁傷様です」
そんなくだらない会話を交わしていると、ふと壁に立てかけられている大きな時計が時刻を示す為に低い鐘音を響かせ、あたしは視線をめぐらせた。
――午後、四時。
「リドリー?」
「少し、散歩して来ていいですか?」
「どちらへ? ご一緒いたしますわよ」
あたしは首を振った。
「良く知っている場所――庭園の散歩だから、一人で大丈夫」
ふと、なんとなく……
昔、あの人がいたあの場所が、あの時間が、あたしの中でちらりとよぎった。
ひとつの不思議と共に。
――思い出したのだ。
あたしはあの日、迷子になった。
けれど、なぜ……あの噴水に出たのだろう。
だって、前回あの女神の像のある噴水に出向いた時に気づいたのだ。
あの庭園は王宮内に造られている。
ユリクス様が案内してくれたのは、確かに王宮内に造られた庭園だった。
でも――あたしが普段遊びに行っていたのは、伯父の屋敷の近くにあった小さな公園だった筈なのだ。
あたしの記憶は……まだどこかがあやふやなのかもしれない。
そのあやふやな記憶をもっとしっかりとしたものにしたくて、あたしは一人でゆっくりとあの場所を歩くことに決めたのだ。
***
初対面で、絶対に好きになれないという人間は確かに存在する。
だが、マーヴェル・ランザートの人生においてそういった相手は稀有な存在といえるだろう。
彼は子供の頃から友人達に恵まれていたし、父親の仕事の関係で荒くれな大人との付き合いも多かった。人間すべてが悪意なく動いているなどという思いこそ抱いてはいないが、先入観だけで他人に接することは無かった。
商売上でも決して相手を嫌うという行為からスタートさせたことは無い。十九年生きてきて今確実に言える。
――この面前の男は好きになれない。
しかも、絶対をつけてもいい。
マーヴェルはわずかに肩が震えることを感じつつ、面前に立つ薄い青地の神殿間の衣装を身につけ、やたらと笑みを浮かべている身奇麗な男を苛々しく見ていた。
マーヴェルの左手にある指輪について、言及されることは滅多に無い。もし問われたところで、マーヴェルはそつなく「婚約者がいます」と表面的な笑みを返せる。
だというのに、今このとき――ものすごく心の琴線にびしばしと触れまくり、苛立つのはどうしてなのだろうか。
銀色の細い質素な指輪だ。
購入したのはマーヴェルではなく、マーヴェルの父親だった。
ある日、小さなビロードをはめ込まれた箱に対の指輪と共に収められていた。
父親が用意したことは気に入らなかった。結婚指輪は自分が買うからと激しく抗議したことも覚えている。
それでもこの指輪をリドリーに手渡した時、戸惑いに満ちた表情で彼女は控えめにマーヴェルを見上げて、どこか苦しそうに、吐息のように囁いた。
「うれしい」
――嬉しいと、小さな声で、喜んでくれたのだ。
今も、きっとこの指輪の対になるずいぶんと華奢な指輪を――彼女は身につけていてくれるのではないか、いや、さすがにそこまで楽観まではしていない。
けれど、せめて、せめて自分の手荷物の中にはこっそりと潜ませていて欲しい。
そんなわずかな願いを持っているマーヴェルの前で、神殿官は自らの仕事などそっちのけで自分の左手を示した。
左手、薬指にはめ込まれた太めの指輪。
「最近やっとぼくの可愛い人もぼくのあげた指輪を身につけてくれるようになったんですけど、でも思い出せば未だに求婚の返事はもらえていないんです。
でも指輪もしてくれるし、最近はキスしても怒らなくなったし、これって返事をもらったようなものだと思うんですけど、どう思います?」
「……」
「絶対に彼女もぼくのこと大好きだと思うんだけど。ああ、態度でそういうのって判るものじゃないですか。でもたまにはもっとちゃんと言葉で示して欲しいなーとか贅沢なことおもっちゃうんだけど、でも本当に時々かわいらしく好きとかいわれちゃったり、甘えてこられるとその破壊力がすごくて。どこにいても閉じ込めて押し倒していろいろしたくなっちゃって、ああいうの困っちゃいますよね」
――勝手に困ってろ。
というか、なぜ自分がお前の人生相談を無理やり聞かされていなければいけないのか。
人生相談というか、惚気か。
嫌がらせなのか?
いい加減つかみかかりそうになっていたマーヴェルの心内を察したドーザが、やはり困惑した様子でマーヴェルの二の腕のあたりを掴んだまま眉をひそめた。
「ああ、どうしよう。
禁断症状がでちゃいそう」
「いい加減に仕事の話に戻っていただけませんか」
地の底を這うような陰湿な言葉が口から飛び出し、マーヴェルは自分の言葉に驚いた。
「ああ、失礼」
青年はにっこりと微笑み、その表情のままで言った。
「それで、何の話でしたっけ?」
頼む、一度でいいから殴らせろ。
ぐっと拳に力を加えて一歩、足を踏み出そうとしたとたんに更にドーザの腕にも力が加わった。
「冗談が通じませんね」
青年は楽しげに笑うと、小首をかしげた。
「いやだな。ちゃんと覚えてますよ。あなたの会社が操業停止になった理由とその解除の理由ですよね。まぁ、実際問題知らなくていいことっていっぱいありますけど、本当に知りたいんですか?」
「いい加減にしろっ。俺は遊びに来ている訳じゃないっ。
ふざけるなよっ」
「ふざけてませんよ。ぼくとしても至極真面目な思いでここにいるのですが――だって、あなたの為にぼくは大事な時間を割いてここにいるのですよ? 本来でしたら、ぼくの可愛いあの子と一緒にいられる時間を。今頃はきっと友人達とお茶をしていると思うのですけどね、ぼくがいないから寂しがっているかもしれない。ああ、思い出したらすごく寂しい気持ちになっちゃったじゃないですか。どうしてくれますか」
ドーザが抑える力より、マーヴェルの苛立ちの力の方が勝ったのは一瞬だった。いったんドーザの腕を振り払うように後ろに力を込めた腕を、ぐっと強く伸ばして相手の胸倉を掴み上げた。
勢いで引き寄せ、もう片方の手で殴りつけようとしたその時。
青年は口元を薄く引き結び、やけにゆっくりと口角を引き結ぶように笑った。
ぞわりと背筋に寒気が走り、一瞬自分の中で何かがひるんだが――マーヴェルの左拳は相手の顔めがけてくりだされ、そして止まった。
ぎりぎりの理性で。
「なんだ、殴らないのですか?」
「なんっ、なんだあんたはっ」
「一発くらい殴られてあげようと思っていたのですけどね」
極間近でお互いの顔を突き合わせた状態で、黒緑の眼差しをきらきらと輝かせた相手は、つまらなそうに吐息を落とすと、やんわりとマーヴェルの拳に触れ、払った。
相変わらず襟首を締め上げられているというのに、余裕のある態度で青年は囁いた。
「本当に今回の処分の理由をお知りになりたいのですか?」
「その為に来てるんだよ」
「先ほども言いましたけれど、世の中には知らなくて良いことはいっぱいあるのですが」
「くどいっ」
背後のドーザが呆れたような吐息を吐き出し、相手の襟首を掴みあげているままのマーヴェルの指を引き剥がす。
自由を得た青年はよれよれになってしまった着衣を軽く整えながら吐息を落とした。
「この指示を出したのはぼくでは無いので、ただの推測ですけど」
やれやれと本当に仕方なく口を開こうとしたその口元を、憎しみすら込めてにらみつけていたマーヴェルだったが、その場の緊張をくじくように扉が二度ノックされ、中の応えすら待たずに開かれた。
「公、お忙しいところ申し訳ありませんが――少々不都合がございました。
お呼び出しでございます」
青年と同じ神殿官の衣装に身を包んだ壮年の男性は、淡々と言い切ると、ちらりとマーヴェルへといったん視線を向けた。
「間が悪い。少しくらい待たせておけませんか?」
「それが叶いますなら私がお呼びたてに参りません」
「判りました。彼らのことは頼みますよ――大事なお客様ですから。
決して失礼のないように」
先ほどまで思い切り失礼でしかなかった男がさらりと言うと、壮年の男性も目礼で受けた。
「承りました」
きっぱりと言い切ると、マーヴェル達などどうでも良いとでも言うように青年を追いたて、扉の奥へと押し込むと――壮年の男性は厳しい眼差しでマーヴェルを見返し、口を開いた。
「主からのご命令により私が承り致しましょう」
さらりと言う台詞に、マーヴェルは自分の中の何かがぶちりと音をさせるのを聞き、怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ!
どれだけ盥回しにすれば気がすむんだっ。ここはいったいどうなっているっ。それが役所のやり方かっ」
マーヴェルの激昂を冷ややかに見返し、相手はゆっくりとした口調で告げた。
「ここは神殿官事務所。
そして私はここのすべてを取り仕切る神殿官官長――ユリクス・シザレ・ファウンシアーノ――何か不都合が?」
冷ややかな物言いに、マーヴェルは気おされるように息を飲み込み――
その背後に立つドーザは引きつり、喉の渇きに視線を逸らした。
――まて、まてよ。
ここの主人である神殿官官長に主と呼ばせ、命令を下せるっていうのは、いったいどういう人間だよ?
喉の奥からでかかった言葉は、そのまま鉛の塊のように飲み下された。
***
あたしは引きつった笑いを浮かべた。
自分の記憶を信じるのはほとほと駄目かもしれない……
しかも子供の頃の記憶なんて、やっぱり信じるべきでは無かったのだ。
エルディバルトさんの屋敷で手配してもらった馬車で一旦伯父の屋敷に向かい――幼い頃の記憶を頼りに公園へとたどりついたあたしは、
「これはもしや、迷子……かしらー」
先ほどのルティアとの馬鹿な会話がふっと浮かぶ。
心配だからというルティアに、呆れた口調で言った台詞。
どこかで迷子になりそうですかね?
どこかで迷子どころか……母の家の近所で迷子中ってどういうことでしょうか。
やたらとだだっ広い公園は、何故か――いつの間にか森にかわり、そしてあたしの心を慰めるかのように、鳩の声が響いた。
ほろっほー……