官長代理と指輪
「先日は――うちの船子が失礼を働いたりしなかったでしょうか」
突然妙な場所で――歓楽街の入り口という、男としてはたいへん微妙な場所で商売女とはまた違う女性に出くわしてしまったことで狼狽をみせるドーザを押しのけ、マーヴェルは気に掛かっていたことを問いかけた。
面前に立つ女性は、良家に遣える侍女の様相。
記憶の中で、彼女はあの日も同じように侍女の装いで辺境伯令嬢に付き添っていた。
マーヴェルの言葉に、侍女はふっとわずかだけ眉間に皴を寄せるような表情を浮かべたが、やがてゆっくりと微笑した。
一瞬、冷笑すらにおわせる不思議な微笑を。
しかし、その唇から零れ落ちたのはどうにも間の抜けた口調。
「あまりおきになさらずぅ。もうこちらも気にしてませんものぉ」
なんだか煙に巻かれるような微妙な物言いで、侍女は自らが持つ菓子屋の袋を軽く示し「お茶の時間に遅れてしまいますからぁ、失礼しますわねぇ」とさっさと身を翻してしまったが――
「良く考えてみれば、おかしな物言いだと思わないか?」
なんだかあのおかしな雰囲気だとか空気に押されてそのまま別れてしまったものの、彼女の言葉は思い返せば不自然にしか思えない。
「もうこちらも気にしていないって……普通に考えれば、何か気になる事柄があったっていうことじゃないか?」
「……さぁな」
問いかけてもドーザは膨れている様子でついっと視線をはずしてしまう。酒が手元にあれば、おそらくぐいぐいと呑みそうな様子だが、今は場所が場所だけにソレもできない様子で、ただ恨みがましい眼差しを時折向けてくるだけだ。
風呂嫌いの男を無理やり風呂に放り込んでやったことも、現在の不機嫌を増徴させているのだろう。
「それより、なんでオレまで神殿官の官舎待合室なんぞにいなくちゃいけないんだよ」
「いいだろ。どうせ暇なんだろうし」
「……チッ」
ドーザはわざとらしく舌打ちを落し、質素な待合室を見回した。
神殿とも王宮とも違うその場は、実に質素な造りをしている。たとえて言うのであれば、中間管理職にふさわしいとでも言えばよいのか。
壁にはこの中央聖都の国立建造物にはつきものの竜のレリーフ。
数百年前に国すら滅ぼしそうになったという竜は、今ではこの国で守り神として記されている。
巨大な翼を持ち、口からはちらりと鋭利な牙を覗かせ――しかし今はその身を丸めて深い深い眠りについている。
この国は竜を奉っている為にか、竜に関する物語が幾つか残されていて、国を滅ぼそうとし、今は眠る竜と――そして、第五の公爵位、竜公という幻想までも存在する。
現在公爵として名を連ねている四名の貴族とは別に、国の守護をつかさどる竜の名を冠する公爵位が名言されてはいるものの、市井の者達はその爵位を関する存在を見ることも知ることもない。
ある日突然、その爵位の襲爵が表明されるのみ。
姿も、そして陛下の座する玉座の前に並ぶ五つの椅子のうちの一つ――その席に座るものを見るものもない。
姿の無い竜公爵は、ただのカタチであると言われ続けてはいるが、未だにその存在を恐れ――そう、竜公爵は国の守護として恐ろしい噂ばかりは出回っているのだ――滑稽なことに他国からの侵略を防ぐ要とすらなっていると言う。
阿呆らしいといいたいところだが、他国では未だに竜公は脅威と目されている。
どちらかといえば、今更「そんなの居ません」と後に引けなくなっているのではないだろうか。
それとも、その影響力を逆手にとっての外交か。
市井には到底理解できない発想だ。
「竜に興味がございますか?」
レリーフに刻まれた文言をなぞるように読み散らしていると、突然穏やかな声と共に開きっぱなしの扉から黒髪の青年が顔を出し、マーヴェルは慌てて取り繕うように曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「いえ、あの……」
ただの退屈しのぎですとは到底言えない。
いや、ここは神殿ではないのだからそれほど気にかけなくともいいのかもしれないが。なんとなく気恥ずかしさを覚え、マーヴェルは相手の姿を見返した。
神殿官特有の淡い空色のゆったりとした上衣、腰の辺りで帯を巻き、その先端の紐を緩く結わえた状態で、膝より下までの長さのある上衣の下にゆったりとしたズボンといういでたちの青年は、穏やかな表情でじっとマーヴェルを見つめた。
その面はと見れば、髪さえ伸ばせば女性的とさえ思わせる。
何故かぞくりと背筋に寒気さえ覚え、マーヴェルは狼狽した。
「申し訳ありませんが、神殿官長であるユリクスはたいへんお忙しい方で、本日の面会が叶いません。代理として私がお受け致しますのでご了承頂きたく」
丁寧に言われる言葉に、マーヴェルは「はぁっ?」と危うくぶちきれかけた。
「もう幾日も面会を申し入れて、日を改めろと言われた挙句にそれかっ」
――いや、完全にぶちきれていた。
神殿官長なる役職がどれ程偉いのか知らないが、ここまでコケにされる覚えは無い。憤りを前面に押し出すマーヴェルを背後から押さえ、
「いや、すんませんねっ」
ドーザは慌ててへりくだった口調で言いつつ、ぐいっとマーヴェルの腕を引いた。
「落ち着けったら。役所ともめたっていいことなんざねぇぞっ」
「だからってなぁっ」
そもそもこの部署は役所と言われるものなのか。
それすら判然としない。
苛立ちを募らせていたマーヴェルだが、面前の神殿官長代理としてそこに立つ青年は淡い微笑を浮かべてただ穏やかに立つだけで、なんとなく自分ひとりが憤りを示していることに羞恥さえ覚え、マーヴェルはぐっと怒りを飲み込んだ。
相手は確かに神殿官かもしれないが、このところのマーヴェルの状態を承知している訳ではないだろう。
もう何日も盥回しにしてくれたのは何もこの青年ではない。
「とにかく……オレ――いえ、私どもランド商会が面会を申し入れましたのは、今回、何をもって当方の聖都内運河の操業が停止され、また何故に突然それが解除されたのか――納得のいく説明を頂きたいと思います」
頭の中で整理していた物事を、ゆっくりと言葉にすると面前の相手は何の躊躇もなく口を開いた。
「そんなことがありましたか?」
恐ろしい程悪意のない口調で。
「……」
「しかし、何故それが神殿官の管轄だとお思いになられたのでしょうか」
飄々とした物言いにカチンときたマーヴェルは、持参した書類を突き出し「この右上に書かれているのは、お宅の神殿官長の名だと思いますが?」
と突きつけた。
偽造などという単語も確かに受け取っているが、だからといって神殿官長の名が記されているものについて知らぬ存ぜぬだのとは通用しない。
なにより、
「聞いた話で恐縮ですが、このことには神殿官長の娘が関わっていると聞いています。どうぞご返答を」
決して言い逃れはさせまいとそこまで言えば、面前の青年はふと吐息を落とした。
「では返答いたしましょう」
青年はにっこりと微笑し、マーヴェルの手にあった紙を指先で弾いた。
途端、その場所から炎があがり、マーヴェルが手を咄嗟に離した目の前で――紙は青白い炎に包まれ、中空で一気に灰へとかわり、消えうせた。
呆気にとられてぼんやりと紙のあった場と、そして青年の顔とを見比べていたマーヴェルは呂律の回らぬ舌で「な……今の、え?」とかすれた言葉をようやく口から吐き出したが、相手の青年は相変わらず綺麗な微笑を浮かべたまま、ゆっくりとした口調で囁いた。
「あれ? 書類どこかにいってしまいましたね?」
悪びれる様子もなく言い、ついでどこから出したのか一枚の書類を引き出した。
「ちなみに、こちらに先程の書類と良く似た書類があります」
まるでどこかインチキ臭い手品師の口調で楽しそうに続けると、今度はどこから出したのか一本のペンを自分の手の中でくるりとまわして見せる。
「先程の書類が聖都内の水路での商業利用を停止する書類に対して、こちらは国内の全面操業停止書類になる訳です」
呆然とするマーヴェルとドーザの目の前で、実に楽しそうに青年は続けた。
鼻歌さえ歌いながら。
「ここに私の署名を入れますと、あら不思議――ランド商会は実質上倒産ですね」
「なっ……」
言葉を失い絶句するマーヴェルの顔をしげしげと見つめ、青年はもう一度その指先で書類をはじいた。
「冗談ですよ?」
ぶわりと青い炎に消し炭にされる書類をみながら、マーヴェルは絶句した。
「なん、なんなんだ、あんた」
「ただの神殿官です。さて――余興はこの程度で。
確かそう、何故操業停止になり、あまつさえそれが覆されたのかとお尋ねでしたね? 覆したことにご不満でしょうか」
「誰がそんなことを言っている! 何故操業停止にしたのかと聞いているんだっ」
腹立たしさが頂点に達したマーヴェルを、ドーザが押さえたがドーザ自身、この面前の神殿官がいったい何をしたいのか理解できずにどうしたものかと考えていた。
むしろマーヴェルを怒らせて楽しんでいるかのようだ。
果たしてこれで官吏なのだろうか。
苛立ちが頂点に達しようとしているマーヴェルを楽しげに眺め、ふと青年は視線を止めた。
マーヴェルの左手。握りこまれた指に。
「婚約指輪ですか? 婚約されているのですね」
「あ、いや……これは」
マーヴェルは突然話しを切り替えられたことに動揺し、思わず体の力を緩めて慌てて自分の左手を右手で握りこんだ。
ぶっきらぼうに言葉にしてしまうのは羞恥の為だ。
外せと何度も言われている。それでも未練たらしく外すこともできず、結婚式の時に使うはずであった結婚指輪にしても、今も自宅の自室にある小さな箱の中――二つつつましく並んでいる。
自分と、そして……彼女の分とが。
婚約じたいはすでに解消されてしまっている。そんなことは理解している。
彼女の、リドリー・ナフサートの母親が強行し、マーヴェルの父親も承諾した。マーヴェルだけは抵抗を示したが、大人達の金銭すら絡んだやり取りに口出しは許されなかった。
「どうでもいいだろう」
「ですね」
にっこりと笑って言う相手に殺意が沸いても仕方の無いことかもしれない。
***
「は?」
あたしは間の抜けた口調で聞き返した。
本日の夕方、出発予定の列車は予定を変更して明日の昼頃に運行となります――うんたらって、
「何それっ。何ですか? 何がどうして突然そうなるんですかー?」
動揺のあまり早口でまくしたてたあたしとは違い、のんびりとした様子で同行者であるルティアは「列車の乱れなんて普通にありますわよぉ。よくあることですわぁ」と肩をすくめた。
転移扉を二回使って聖都へと訪れたあたしと――お見送りとしてくっついて来たアジス君とアマリージェは、ルティアの招きでエルディバルトさんの邸宅でお茶をしていたのだが、その最中に件の連絡が届いたのだ。
「申し訳ありません。列車の調子がどうも芳しくなく、このまま走行するのは危険と判断がなされたようです。明日にはメンテナンスも終了していると思いますが、正直なところ明日確実に列車が出せるかどうかは断言できませんと連絡が入りました」
エルディバルトさんの使用人の方が悪い訳でもあるまいに、しきりに恐縮して部屋を後にした相手を呆気にとられて見送ったあたしだった。
――こう、なんというか出鼻をくじかれる感覚はとても脱力を誘う。
「しゃあねぇよ、列車なんてセイミツキカイだろ? ああいうのって良く壊れるんだろ? うちのパン釜だって時々調子悪いし」
パン釜は精密機械じゃないと思うよ、アジス君。
まぁ、ある種の繊細さはあるけど。
「安全の為なら仕方ないですわよ」
と、とりなすように続けるアマリージェだが、その隣で、ふいにアジス君がニマニマと口元を緩めた。
「さっきコーディロイお仕事で突然呼び出されたじゃん?
リドリーの見送りができないからって、何かしでかしてたりして」
「アジス、いくらあの方でもそんなことは――」
嗜めるアマリージェだったが、ルティアはのほほんっと言葉を継ぎ足した。
「するかもしれませんわねぇ」
「かもしれませんね」
アマリージェとルティアの言葉が重なり合い、あたしは小刻みに肩を震わせた。