焼き菓子と天罰
「パイをもう一切れ、いかがです?」
アマリージェの言葉に、あたしは紅茶の香りを楽しみ「もう結構です」と返した。
お腹に余裕はあるものの、あたしにだって遠慮という言葉は存在する。
「オレもらっていい?」
「構いませんわよ。でも、この場合はわたくしが声をかけるのを待つべきですわね」
アマリージェは軽くアジス君をたしなめ、ホスト役としてアジスの皿にイチゴのパイを切り分けた。
――最近よそ様のお宅で食事をすることに慣れてしまっている気が致します。
良くないことですね。
できる限り自分の家で料理をしてみたいけれど、結局いつもと同じになってしまうのだろうと簡単に予想が付く。
――すなわち、野菜をちぎったサラダと目玉焼き。
完全ピンチなことに、主食が無い。
ちょっとがんばって自分でパンをこしらえてみようか?
つくり方なら判っている。
幾度もマイラおばさんが作っていた様子は見ているし、そのレシピだって目にしたことがある。
強力粉とイースト菌と塩――一次発酵と二次発酵。
問題があるとすれば、知っていることとできるということは決してイコールでは無いということだ。
――あたしはあたしの料理の技量を知っている。そう、誰よりも。
ううう。
マイラおばさんを失った今、あたしは果たして生きていけるのだろうか。
食料的な問題で。
ま、旅の間はどうしたって全て外食に頼る訳だけれど。
「なんだよ、リドリー。
パイの皿を見ながら溜息つくなよ? やっぱり欲しかったのか? ダイエットとかやめろよな。今だって別段太っている訳じゃないだろ」
パイを口にしながらさらりと言うアジス君に、アマリージェが目元を険しくした。
「アジス! 女性にダイエットとか太っているとか失礼ですわよっ」
「失礼って。太ってないって言ってるじゃないか。太っているって言えば失礼かもしれないけど、オレが言ってるのは逆だろ」
「体のことを言うのは無作法なのです!」
「胸とか尻とか言った訳じゃないだろ」
アジス君はぼそっと小さく呟いたが、更にアマリージェは目を吊り上げた。
ぎゃんぎゃんと吠えている二人を眺めながら、あたしは乾いた笑いを浮かべて紅茶を一口飲み干し、吐息を落とした。
「あらぁー、私をのけ者にしてお茶なんて酷いですわぁ」
突然、開きっぱなしの扉のほうから高い声が響き、紙袋を手にあらわれたのは普段通りの侍女服のルティア――ルティアは慣れた様子でテーブルに近付くと、少しばかり思案した様子をみせたが、もともとパイが乗っていた皿に紙袋の中身を一つづつ丁寧に乗せだした。
一切れづつパラフィンが巻いてある焼き菓子は、干したフルーツを混ぜて焼かれたシュトレンのようなケーキだ。
「まぁ、ルティア様っ。新しいお皿なら用意いたしますのにっ」
「細かいことは気にしませんわぁ」
ルティアは上機嫌で言いながら、今度はあたしの空になった皿を引き寄せ、二種類のケーキを乗せてにっこりとわらった。
「聖都でも一押しのお店なんですのよぉ。ちょっと変なところにあるから、あまり知られてないんですのぉ。先ほど買ってきたばかりでしてよぉ。召し上がれ」
変なところ、といいながらルティアはにんまりと笑みを浮かべた。
「ヴィダリータですか?」
「違いますわぁ」
アマリージェが小首をかしげる。
どうやら店の名前らしいが、ルティアはにこにこしながら首を振った。
「ル・ラシェイル?」
「ふふ。違いますけどぉ、すごぉく美味しいのです――パセル通りの奥の店ですわ」
意味深に言う言葉に、アマリージェは顔を真っ赤にした。
「まさか自分で買いに行かれたんですか?」
「当然ですわよぉ。ふふ」
「ルティア様!」
声をあげるアマリージェの様子に首をかしげ、あたしとアジス君は視線を合わせて目を瞬きあった。
***
聖都の一角――高級住宅地からはまるきり反対に存在する歓楽街の中央通りを歩きながら、一歩ごとに気が沈むような気分を味わった。
それまできっちりと石を埋め込んで作られた石畳であったものが、歓楽街に入った途端にどこかおざなりな赤茶色の土がむき出しになった地面に変わる。
税金の関係だと、確か何かのおりに耳にしたことがあった。
歓楽街は国に許された遊興地ではあるが、その分税が高い。少しでもそういったものを削る為に、色々な場所で手を抜くのだ。
――抜いたところで、男達が気を掛けるの地面でも建物でも無い。
明かりの強さでもなく、魅惑的な女の白い肌と、そして柔らかな感触。
一時の快楽を求めて訪れる為に訪れた筈だというのに、無駄に税金のことなど考えながら歩くマーヴェル・ランザートは一歩一歩進むごとに溜息を深くした。
――逃げた女に操をたてて。
ドーザがからかう口調が耳に蘇る。
ドーザの言う意味は少し違う。
女でしくじったからこそ、女で更にしくじりたくないだけだ。
広い世界で幾つもある歓楽街、そのうちの一つの娼館で一時遊んで――それが彼女に知れることなど万に一つもありはしない。
気晴らしに他の女を求めて何が悪い。
そういい捨てることなど可能だろうに、結局――自分の気持ちの問題なのだ。
未だ明るい頃合。
こんな時間にいったい何をしているのかとふるりと首を振り、マーヴェルは自分の気持ちを娼館から、せめて酒でも飲んで気持ちが向いたら女を買おうに切り替えた。
そう、気晴らしの筈だというのに、気が塞いでは意味が無い。
こういうのはある意味勢いだ。
娼館ではなく、女がいる酒場に行けばいい。
気に入った女がいれば――
「うげっ」
耳に入り込んだ蛙を踏み潰したような声に、マーヴェルは足を止めた。
まっすぐに向けた視線の先、明らかに楽しい思いをしてほろ酔い加減に歩いていた男の姿にマーヴェルは心が冷えた。
よれよれになったシャツは上から三つほどもボタンを外し、その褐色の肌を晒している。
その胸に女の艶かしい指先が軽くおさえ――男の片腕が親しげに女の華奢な肩を抱いている。「うげっ」と低く呻いた男の声に、女はいぶかしげに眉を潜め、反対側で視線を向けてくるマーヴェルに小首をかしげた。
「ドーザ……久しぶりだな」
図体のでかい海の男は、視線を泳がせながら片手をあげ――「お、おぅ?」と口にしたが、すぐに開き直るように口元に笑みを浮かべ、抱いていた女の肩を外して愛想笑いを浮かべた。
「じゃ、じゃあな! また来るよ」
さっさと女を追い払うドーザの姿を冷ややかに見つめながら、マーヴェルは淡々とした口調で問いかけた。
「おまえ、いつからココにいるんだ?」
腹をたてるのは間違っているのかもしれない。
今までドーザには散々世話になっているのだから――時々こうして脱線してしまうのは仕方の無いことだ。
全ての時間を自分の為に費やせなどと言える訳もない。
だが腹が立つのは押さえられなかった。
――リドリーの件でドーザが戻るのを待っていた。
ほんの僅かな情報でもいい。それこそ、藁にもすがる思いで待っていた相手が――まさか歓楽街で遊んでいるなどと夢にも思わない。
「オレが……」
オレがどんな気持ちでおまえを待っていたのか、理解しているのか?
奥歯をかみ締めて低く威嚇するように言おうとした言葉をさらうように、ドーザは言った。
「しかたねぇだろっ。
お前が喜びそうな報告なんざ、何一つねぇんだよ!
こっちだって気ぃ重いんだ。少しくらい気晴らししてから報告に行こうと思って何が悪い!」
ドーザはどら声で怒鳴り上げると、がしがしと自分の頭をかきあげ、気まずい様子で顔を背け、チっと舌打ちすると低く言葉を落とした。
「わぁるかったよ」
怒りの矛先を砕かれ、マーヴェルは握った拳をゆっくりと解いた。
気まずい空気と、ちらちらと道端の通行人からの視線が突き刺さる。
マーヴェルは唇の隙間から呼気をゆっくりと落とし、首をゆるりと振った。
「――いや、悪い。オレが悪かった」
自分の心の狭さを素直に詫びれば、ドーザは呆れる程あっさりといつもの気安い男にたちもどり、口元にニヤリと笑みを浮かべてマーヴェルに近付き、その肩にぐいっと腕をかけた。
「つーか、お前もこんなところで何してんだよ?」
「……」
「ははーん?」
「なんだよ」
「まぁまぁ、とりあえずいい店紹介してやるからちっと来いや!」
「いや、別にオレはっ」
「みなまで言うないっ。話はあとでじっくりしてやっからよぉー」
「いや、だからっ。
オレは別にっ。
そんなつもりじゃっ」
マーヴェルが慌てて弁解しようにも、ドーザは力任せにマーヴェルを抱え込み、歩き出そうとしたが、蛙は再び「うげっ」と小さなうめき声をあげた。
「あらぁ――ごきげんよう」
逃げようとするマーヴェルがじたばたと暴れ、なんとか歓楽街の入り口方面へと足を向けた先に――こんな場では滅多に見られない商売女ではない女が、背後にある焼き菓子店のロゴの入った紙袋を手ににこやかに微笑んだ。
一瞬誰と判らなかったが、慌てたようにばっと姿勢を正したドーザの様子にマーヴェルは相手が誰だかやっと思い出した。
――先日、ダグが最後に乗せた舟遊びの客が連れていた使用人。
現に今も侍女が着るお仕着せを着用した女は、頬に手を当てて極上の微笑で口にした。
「まだ明るいうちからお盛んですわねぇ」
「いやっ、あのっ。違くてですねっ、これはっ」
ドーザが先程までのマーヴェルのように慌てて言いつくろおうとするのがおかしく、マーヴェルは笑いを堪えて溜飲を下げることにした。
そういえば、あの辺境伯令嬢に付き添っていた侍女に会いたいとドーザが何度も言っていた言葉が思い出され、マーヴェルは口の端がゆるむのを感じた。
馬鹿なヤツ。
悪さをしているから天罰が下るんだ。