別れと出会い
ぎゅっと豊かな胸に顔を押し付けるように抱きしめられて、あたしは「うぐっ」と呻くのをこらえた。
晴れ渡った青空の下、中央広場の駅馬車の停留所には幾人かの人が最後の馬車に乗る為に集まり、談笑を交わしていた。
石畳の上をぱたぱたと歩きながらマイラさんとアジス君の姿を認めたあたしは、なんとか間に合ったことにほっとしたものだ。
「マイラおばさん、気をつけていってらっしゃい。ターニャさんやジオさんにもよろしく」
見送りの言葉を伝えれば、マイラおばさんは嬉しそうに笑みを浮かべ、それからぎゅっと強くあたしを抱きしめたのだ。柔らかな感触があたしを包み込み、ジンと胸に暖かいものがあふれるのもつかの間、マイラおばさんは感極まったかのように更にぎゅいぎゅいとあたしを締め上げた。
パン種をがんがん作る強い力で。
「あたしの我儘ですまないね。三月分の給料という訳にはいかないけど、小遣いと思って収めておくれ」
と、最後には小さな皮袋まであたしの手に握らせてくれたのだ。
「ちょっ、いいですよー」
と口にはしたものの――すみません、ゲンキンなあたしは二度のじたいのあと、物凄くありがたく頂きました。
もう本当にマイラおばさんにはいつも感謝しております。
それにしても、見送りに間に合って本当に良かったなどと思ってしまうあたしは、ケチ子さんです。
「もうそろそろ時間ですよ」
馬車の運転手が声を掛けると、あわただしく人々が動き出す。それまで少し離れた場所でうろついていた駅馬車の護衛が近づいてくると、いよいよ辺りは別れの雰囲気をかもした。
「ばーちゃん、迷惑かけんなよ」
アジス君が最後に口元に手を当てて言えば、開いた窓から「おまえだよっ」とマイラおばさんの憎まれ口が聞こえ――それが最後だった。
味も素っ気も無い黒い馬車を見送り、あたしはその場に残されたアジス君と顔を見合わせた。
「アジス君はこのあとどうするの?」
「このまま領主館。パン屋の方はちゃんと戸締りしたからさ――週に一度くらい風通す為にあければいいよな?
リドリーはどうすんだよ? 郷里に帰るって話どうなった?」
言いながらアジス君はいつも家出の時に持ち歩いている丸底の細長い皮袋をよいせと背負い上げた。
「二・三日中には出発すると思う」
「列車乗るんだろ? またアレ? 特別列車?」
「それはないよー。普通の……だと思う」
へらへらと手を動かしたものの、あたしはふっと笑いを納めて眉を潜めた。
確かに転移扉は貸していただきたいけれど、いくら守銭奴なあたしといえどもそこまではイヤです。
そもそも、あの列車は竜公様――嫌味――がいらっしゃるから運行されたものですしね。
なんか激しく反発心が沸くのは何故でしょうね。
「どっちにしろいいなー。聖都までオレもついていっちゃおうかな。
ああ、でも聖都までだと転移扉二回だけかー。列車のれねぇじゃん」
どうやらアジス君は列車が気に入っているようだ。以前列車に乗っている時に、窓越しに外を眺めながら瞳をきらきらとさせていたのを思い出し、あたしは微笑ましさに口元を緩めた。
「あれ? でも特別列車じゃないってことは、コーディロイ行かないの?」
「行かない」
当然のようにセットにしないで欲しい。
あたしとアレは無関係ではないけれど、決してワンセットではありません!
それに、行かないというか――どうやら幸いなことに今回は「行けない」らしいのだ。誓約だとか言っていたけれど、神官様には色々とお仕事がある、ということか?
「行けないってことは、完全に行けないってことよね?」
あたしは結構あっさりと郷里行きを許可され、あまつさえ面倒事の王様である神官長が一緒に行きたいと駄々をこねなかったという一種の脅威に、あんまり嬉しくて、そんなふうに確認までしてしまった。
前回聖都に行く時は、なんだか言いくるめられて結局一緒に行くことになってしまったけれど、今回はなんといっても――郷里。
ティナやマーヴェルがいる。
それでなくともややこしいのに、もっとややこしいコレについて来られては、さらにこんがらがってしまいそうで切実にご遠慮申し上げたい。
だが、もともと行けないというのであれば何の心配も無いのだ。
「なんか、嬉しそうだね?」
「いやいや、そんなことは無いわよ?」
「……とにかく、ぼくの魔法もそちらまでは範囲外だから。色々心配なんだよ」
不信に満ち満ちた眼差しで見られたが、あたしが実は小躍りして喜んでいたことには気づかれていないことだろう。
「範囲外って、何もできないってことよね?」
「ごめんね、役立たずで」
いえいえいえ!
とんでもございません。
むしろできないこともあるのだと知って嬉しい限りです。
「声を届けるくらいならできるけど、それだって物凄い気力を使うから、なかなか無理」
声を届ける、という単語にあたしはふっと思い出す。
――泣かないで。
そう囁きを聞いた気がしていた。
幼いあたしが一人で身を丸めていた時。寂しさや悲しさに暮れていたとき。励ますように聞こえていた小さな囁き。
それはやっぱり、ユーリなのだろう。
それとも、あたしの記憶のどこかがずっと求めていたのかもしれないけれど。
「そうすると、当然水鏡で見るなんてこともできないのよね?」
声を届けるのが精一杯というなら、ああいった女性にとって、とっても嬉しくない覗き見機能は成立しないってことよね?
あたしが念を押すように確認すると、ユーリはにっこりと微笑んだ。
「見られたらどんなに良かったかもしれないのにね!」
「良くない。
あのねぇ。このあいだはルティアを探すのに確かに重宝したかもしれないけど、ああいうのは反則技です。
女性相手に使うのは紳士のすることではありませんっ」
あたしが念を押すように言う言葉に「ぼく紳士だからしないよー」とさらりと言っていたけれど、どちらかというとあなたは「変態紳士」の部類……いまいち信用できないです。
「うー、やっぱ寒いなぁ」
アジス君の足が領主館へと向けられるのにあわせ、あたしの足もなんとなくそちらへと向かう。
色とりどりのレンガが敷き詰められた石畳の緩い坂道をゆっくりと歩きながら、あたしはアジス君の「聖都で見たあれやこれや」や「はじめて乗った列車の凄さ」を微笑ましい気持ちで聞いていた。
***
ひんやりと冷たい空気で満たされているのは、窓には硝子が嵌められず外気が満ちていることも理由であるが、何より霊峰である竜峰の霊水がなみなみとその場を満たしている為だろう。
竜の石像の口から流れ落ちる水音と、祈りの言葉に満ちた室内は――まるで現実とはかけ離れた奇妙な空気をはらんでいた。
パシャリと冷たい霊水から身を引き出し、顔に掛かる前髪をかきあげながら苦笑を浮かべてみせる相手に、ユリクスはあからさまな嘆息を返した。
その所作一つで、それまでの空気がまるで嘘のように現実へと戻される。
「あなた様のなさることに否を唱えるつもりはありませんが」
「唱えているよ、ユリクス」
「――年寄りの苦言くらい黙ってお聞きなさい」
ぴしゃりと言われ、言われたほうは肩をすくめて身を震わせた。
体にまとわりついていた水分が蒸発するかのようにさらりと消え、それにあわせて素肌にぴったりと張り付いていた絹地までも乾いてしまう。
だがそれはすぐに取り払われ、新たな純白の衣装が決め事のようなすばやさで着せ掛けられた。
それを黙って受け入れながら、当人は肩をすくめた。
「禊の時刻を遅らせる――もしくは取りやめなさるおつもりであれば、事前に打診してくださればそのように致します。あなた様のお勤めはあなた様のお好きなようになさればよろしい。
ですが、何のご報告も無いのは困ります」
今の時刻をお判りですか?
言葉を重ねる相手に、衣装を調え終えた主は更に苦笑を零した。
「ユリクス、あなたはいつから神官になった? 神殿官としての勤めとは違うようだ」
「屁理屈をこねなさるな。あなたの下の者達ときたら、あなたがいらっしゃらないと心配するばかりで役に立たない。だから私が本来の仕事から逸脱して担ぎ上げられるのです」
いいですか?
饒舌に続けられそうになる言葉に、禊用の部屋からゆっくりと歩き出しつつ口を挟んだ。
「ユリクス。ルティアに頼みがあるのだけれど、ルティアは?」
禊用の部屋を一歩出れば、扉の外には護衛騎士であるエルディバルトが控える。それをちらりと眺めやり、ユリクスは「そこの木偶の坊にお尋ねなさい。私の愛娘ときたら、このところちっとも自宅に戻っていない」と苦々しく言い切り、ついで嫌味のように――まるきり嫌味だろうが――「どこの娘も困ったものだ」とぼそりと続けた。
主が通過するのにあわせてその後に続いたエルディバルトは、ユリクスの物言いにむっとしつつも、自らの話題に嬉々として食いついた。
「公、何か?」
その背には見えない尾がぶんぶんと振られている。それを感知しているユリクスは、冷ややかな眼差しで未来の娘婿をねめつけた。
「ルティアに頼みがあるのです」
「後ほど顔を出すと思いますが――どのような?」
「リトル・リィが郷里に里帰りするらしい。あの子の郷里は東南の小さな町だけれど、あちらは私にとって手が出せない。安全を考慮すれば、お前を付けたいところだけれど、それではあの子が嫌がるだろう。ルティアに護衛を任せたい」
勝手な頼みで悪いけれど。
エルディバルトはその言葉を耳にいれながら、僅かに眉間に皺を刻みつけた。
「他の者では……いえ、判りました」
「他の誰にもさせるつもりはないよ。リトル・リィのことはルティアに任せる」
そのきっぱりとした物言いに、エルディバルトは喉の奥を詰まらせ、深くうなずいた。
「まだ……お怒りは解かれませんか」
「怒ってなどいないよ。ルティアのことは信じている――リトル・リィのことは信じている相手にしか任せられない。それだけだよ」
声を出して笑う主にほっとエルディバルトが息をつくと、ふと思い出すようにユリクスは口を挟んだ。
「そういえば、公」
「なんですか?」
くつくつと肩を揺らしつつ問いかけると、ユリクスは続けた。
「ランド商会をご存知ですか? 先日、ランド商会のマーヴェル・ランザートと名乗る者が私に面会を求めてまいりました。どうということもありませんが、先だっての台風の一件で公が気にかけていらっしゃったのがランド商会の外洋船であったと思いましたので、何か関わりがおありかと思いまして」
ぴたりと歩んでいた足を止め、彼等の主はくるりと振り返った。
「マーヴェル・ランザートが……面会に?」
「はい。あの……公?」
「会ったのですか、ユリクス?」
口元に笑みを刻みつけて尋ねてくる相手に、ユリクスは何故か一歩退いていた。
慌てて「いえ。公の判断を待とうと思いまして――また来るようにと告げました」まるで何かから逃れるように早口で言えば、彼等の主はまるで花がほころぶかのように微笑を浮かべて見せた。
「では、その時は私に知らせて下さい。
ユリクス神殿館長がわざわざ出るまでもない――神殿官としてのぼくが対面してあげるよ」