雪の朝と霧の朝
あふりと口から欠伸が漏れて、それにあわせて眦からこんもりと涙の粒が盛り上がった。
もぞりと身じろぎしたあたしに、隣で寝ているアマリージェが寝返りを打って温もりを求めるようにルティアの胸に擦り寄る。
「なにこの絵になる光景は」
この場に自分が混ざっていたことを思うと、あまりにも恐れ多い気がするのですが。だって想像して欲しい、この二人ときたらまさに生粋のお姫様。方や領主館の姫君、方や元は竜公の婚約者にして現王弟殿下子息の婚約者。ご自身は神殿館長サマのご令嬢だ。パン屋の一店員はちょっと怯んでしまったとしても致し方なし。
昨夜の夕食は神官長とその忠実なるわんこ様を立ち入り禁止。領主館の食堂で女三人とホスト役としてジェルドさんの四名での夕食は思い切り美味しゅうございました。
ジェルドさんがしきりに「コーディロイとエルディバルト様はお招きしなくていいのでしょうか」と気にしていたようですが、女三人はまったく気にしていなかった。
毎度のことながら、アマリージェの一声は強かったのだ。
「残念ながらお招きする予定はありません。お帰り下さい」の一言であの傍若無人の塊を撤退させられるのだ。
「マリーって……強いよね」
思わず手を叩いて賞賛すると、アマリージェは可愛らしくほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。
「わたくしに言わせれば、リドリーは弱すぎです」
スミマセン……なんか、本当になさけない大人で。
「マリーが強いのではなくて、コーディロイが大目に見ているだけですよ。あの方にとって、マリーはいつまでたっても小さな子供のままなのでしょう。五歳くらいの子が腰に手をあてて威張り散らしているのを微笑ましいと感じているようなものです」
ジェルドさんの言葉に、アマリージェは憤慨した様子で兄を睨みつけていた。
そんな様子は年相応の幼さが見えて、あたしは笑いを堪えるのに苦労したものだ。
あたしは寝台で未だ眠りこけている二人の姫君を起こさないようにそっと寝台から抜け出し、起毛の絨毯に素足を下ろしてぐっと両腕を天井に向けて伸ばした。
「あー、めずらし……雪だ」
いや、正確に言うのであれば雪は珍しくない。
雪じたいは街の外でちらちらとよく降っているのだが、街の中で――窓の外にちらちらと雪が降っていることが珍しいのだ。
あたしは出窓に近づき、そっと淡い色の入っている硝子窓を押し開いた。
冷たい空気と同時にふわふわと雪が入り込む。ぶるりと身を震わせ、十分な睡眠と冷たくて新鮮な酸素を取り入れた機嫌のよさで微笑を落とした。
――昨日アマリージェやルティアと一緒に眠ったのは正解。
そうでなければ、余計なことを色々と考えすぎてろくに眠ることなどできなかっただろう。
自分のアパートに戻って一人で寝ていたら、きっと枕を抱いて悶々としていたに違いない。へたをするとどこぞのあほんだら様がぎゃんぎゃんと吠え立て喧嘩になっていたかもしれない。
喧嘩なんてしたくない。
今のあたしは思い切り寛大な気持ちなのだ。
色々と言いたいことはとりあえず保留。
そう、こんな爽やかな朝にうだうだとするのは得策ではないのです。
上機嫌のあたしは昨夜脱ぎ散らかした服に着替え直し、一旦自宅に戻るべくこっそりとアマリージェの部屋から出た――途端に後悔した。
「何っ、してるんですかっ」
咄嗟にあがってしまった声のトーンを後半で押さえ込み、あたしは危うくのけぞった。
扉の反対側の壁に片膝を立てて不機嫌そうに座っている男が一人。
いつの間にか髭が生えそろっている目つきの悪いわんこ様は、ぎろりとあたしを睨みつけた。
「公がここで寝るとおっしゃられるので、代わりに私がいるのだ。誰のせいかは敢えて言わぬが、誰のせいか理解できぬと言うのであれば、言いたくも無い名を告げてやってもいい」
回りくどい嫌味ですね。
「ルティアならまだ寝てますよ」
「ルティアの心配などしていない。それよりもひとつそなたに話がある」
床に座っていた腰をあげ、偉そうな髭のわんこはじっとあたしを見下ろした後にゆっくりと問いかけた。
厳しい眼差しを更に厳しいものにかえ。
「先日のパンは、そなたから渡されたものか?」
は?
突然の問いかけに、あたしは素で意味が判らずに眉間に皺を寄せた。
パンっていったい何の話ですか?
そりゃ、あたしはパン屋の店員ですが、だからといって突然パンの話題を出されても困惑する……
「ああっ、あの石みたいに硬いパン!」
パンというよりむしろ顎に一撃を喰らわす最終兵器と言っても過言ではない硬パンっ。あたしが勢いよくぽんっと手を打ち付けると、面前の不機嫌な騎士様は自らの顎を軽くなで上げながら「ほーお」と唸るように呟いた。
「覚えがあるようだな」
「……」
――……風の噂では、あたしが「公からの賜りモノ」と嘘をついてエルディバルトさんに差し入れしたパンは、それはそれは見事にエルディバルトさんの顎をクリーン・ヒットしたらしい、ですよ?
***
「神殿官って、どこに行けばそもそも会えるんだ?」
まったくの畑違い、信心深い方ではないので神殿自体にも足しげく通った覚えも無いマーヴェルは早朝、珈琲をカップに落とし込みながら首をかしげた。
最近聖都にある事務所で寝泊りしているせいか、体の疲れがちっとも取れた気がしない。少しばかりだるい体に熱い珈琲を流し込み、首を軽く回しながら神殿官について口にした。
納得できる回答が得られないかもしれないという忠告は受けたが、だからといってこのまま「意味は判らないが操業許可がおりた」などと父親や兄に報告できよう筈が無い。
少なくとも、神殿官に直接対面して真意を問わずにはいられない。
「王宮じゃないですか?」
事務所で出荷伝票に視線を落としている者が応えれば「神殿官ってくらいだから、神殿でしょう」と肩をすくめる者もいる。
ものの辞書によれば、神殿官というのは官吏の役職名のひとつであり、王宮側と神殿側との間を取り持つ為の――いわば中間管理職というものらしい。
マーヴェルは寝癖のある髪をかきあげ、眉間に皺を刻みこんだ。
「王宮……また偉く敷居が高いな。だったらまだ神殿の方が馴染みやすいかな」
「どちらにも喧嘩売りたくはないですね」
「ごもっとも」
だが、これはむしろ売られた喧嘩だ。
――いや、売った喧嘩なのかもしれないが、当事者であるダグときたら現在では廃人同様と言っても過言ではない。
何かを失った。大事なものが無いといってうつろに視線を向け探している様子を見ると、まるで自分のようで胸が痛んだ。
――いや、すくなくともリドリーを失った時でさえ、自分はあそこまでならなかった。
そもそも、失ったなどと思って居なかったのだ。
ただの意思のすれ違い。ほんの誤解――誤解とは言い切れない問題も確かにあったが、リドリーを見つけて説得し、容易く連れ戻せるものと信じていた。
まさかあのリドリーがそこまで意欲的な動きを見せて完全に姿をくらませてしまうなど、誰が思っただろう。
親の言葉に従い、妹の我儘の影で物分りの良い姉として淡い笑みを浮かべていた彼女が、本気で自分の前から消えてしまうなんて。
「マーヴェルさん」
「何?」
事務所の外から声がかかり、マーヴェルは窓から顔を出すようにして声を掛けた。
途端に霧のように細かな雨が顔に当たり、今朝は天気が良くないことを思い出させた。
「ドーザの乗る船がセフィス港に入港許可を求めたそうです。ドーザがこちらに来るのは明日か明後日ですね」
軽い報告に、マーヴェルは了承の声をあげ、窓の枠を掴んだ。
――鳥は来ていない。
だというのに、ドーザ自身が明日、明後日にはやって来るという。
これはいったいどういうことだろうか。ドーザは一切の連絡をよこして来ない。そのことを心配していたが、まさか鳥より先に当人が自分の前に戻るとは少しも予想していなかった。
最重要文章として鷹を数羽飛ばすのは仕事ではないからと危惧したのだろうか。だとしても、鳩を十数羽飛ばすことは容易い筈だ。
ドーザは何か情報を得られたのか、それとも得られなかったのか――ぐっと奥歯をかみ締めたマーヴェルだったが、喉の奥でうめき声をあげ、顔をあげた。
外は霧雨。
リドリー、こんなふうにけぶる朝に君はどこで何をしているのだろう。
時々は俺のことを思い出しているか?
冬になる。
リドリーは雪など見た事がなかったろう? 寒い場所では辛いだろうから、せめて温かなところに居て欲しい。
俺がずっと温めてやりたいよ。
リドリー……今、どんなことを考えてる?
「今は、いい」
今は、考えない。
――リドリーのことではなく、今は商会のことを、ダグのことを考えるべきだ。
「出かけて来る」
「神殿ですか?」
「ああ、だがその前に療養所に行ってダグの見舞いも」
昨日より少しでも元気になってくれていればいいが。
よぎった願いは、けれど願いのままに消えた。
ダグは更に憔悴し、涙を流した目尻は落ち窪み、ただ悲しそうに幾度も訴えるだけだった。
――失ってしまった大事な誰かのことを。
***
つくづくあたしは卑怯者でございます。
その称号を燦々と輝かし掲げましょうとも。
あたしは冷ややかな怒れる髭騎士から逃れる為「よく寝ているから起こさないようにしよう」とこっそりと抜け出した筈の部屋に舞い戻り、
「ルティア、助けてーっ」とルティアに救いを求めてしまったのでした。
しかし、実際にあたしを救ってくれたのは寝ぼけて「なんですのぉぉぉ」とぽやぽやしていたルティアではなかった。
あたしの後を追いかけて女性の寝室に無遠慮に入り込んだエルディバルトさんを、寝巻き姿の――それはそれは可愛い繊細なレースたっぷりの寝巻き姿のアマリージェが「出て行ってくださいませっ!」と悲鳴をあげて追い出してくれたのだ。
てか、本当にごめんなさい。
あたしが部屋に舞い戻らなければ、アマリージェの寝巻き姿という貴重かつ愛らしいものをあの髭わんこに目撃させなくてすんだというのに。
コレは絶対にアジス君にいえない。言ったら最後、どれだけ恨まれるか本気で判らない。
「なんだよ?」
あたしの考えを読んだかのように突然パン屋の店舗の掃除をしていたアジス君に問われ、あたしは口の中に悲鳴を閉じ込めた。
絶対に言わない!
言ったらなんか凄くまずい。
「何でもないよー」
「リドリーもちゃんと手動かせよ。棚にあるモン全部袋詰めすんだからさ」
本日は下町の大人気店舗である【うさぎのパン屋】は午前中で閉店――挙句このまま春まで長期休暇に入ることになる。その為に午後はお店の片付けだ。
「アジス君はこっちに居ることになったの?」
「御領主様にお願いして、冬の間はあちらに世話になれることになったんだ。見習いのさらに見習いだな。っても、基本的には勉強漬けになるから面倒くせぇけど」
せわしなく体を動かし、片付けをしているアジス君だったが、言葉とは裏腹に実に嬉しそうだ。
「良かったね」と告げると、アジス君がやはり機嫌よくうなずいて見せる。
「リドリーは冬の間どう過ごすんだよ? パン屋が休みになっちまったら暇だろ?」
そう。
パン屋が長期休暇になれば、パン屋の従業員たるあたしもただの暇人になってしまう。
けれどあたしは暇にどっぷりと浸かって自宅の暖房費を無駄に押し上げる訳にはいかないのだ。
「あたしはちょっと里帰りしようと思って。ずっと顔出してないし、少しばかりやっておかないといけないこともあるし」
「里帰り? へぇ」
アジス君は眉間に皺を寄せて呟き、それからじっとあたしを見つめ返した。
随分と心配そうに。
「――うちのばあちゃん説得するよりコーディロイを説得するほうが大変そうだな」
しみじみとした口調で言われ、あたしはうめいた。
「そうだね」
ですがオコサマには到底いえませんが、あたしには実は秘策があるのですよ。
あたしは引きつりつつ片付けの手を早めながら、必死に考えた作戦を脳裏に描いた。
そう、今夜決行予定。
その名も『必殺夜這い大作戦』――力一杯丸め込んで見せましょうとも!
あああっ、もぅっ。
一日たっぷり考えてこんな作戦なんて情けないっ。