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優しい嘘と利己的な嘘

「ごめんね」

寂しそうに落とされた言葉は、謝罪だった。

幼いあたしは、その謝罪の意味が判らなかった。

そう、少しも理解していなかった。


だって、呼んだらきちんと来てくれた。

助けてといったら、助けてくれた。

痛みすら拭い去ってくれた。

望んだことすら――恐ろしいあの男すら消し去ってさえくれた。


だというのに、どうして謝るの?

あなたは、ちっとも、悪くないのに。


「もう、ここに来てはいけないよ」

 どうして?

どうしてそんなことを言うの?

「もう怖い思いはいやだろう?

あの人の命令は、私にも止められない――私の記憶を持っていることは、キミの為にならない」

――怖いのはイヤ。確かに、怖いことも、痛いこともイヤ。

だけれど、せっかく見つけた大事な友達を。大事な優しさを失うのはもっとイヤ。

あたしは必死になって相手の言葉を打ち消そうと頭を振りたてた。

無条件に抱きしめて、頭をなでてくれるそのぬくもりを断ち切られるのは絶対にイヤだった。

 どうしたらいいのか判らなくて、ぎゅっと掴んだ洋服のボタンに指が触れて、あたしは力任せにそのくるみボタンを引きちぎった。

「大人になったら結婚して ! 

リィの村ではね、お友達と大事な約束をする時にはボタンを渡すのっ。約束が果たされたらボタンを返してもらうのよっ」

 それは、たわいも無い子供の遊び。

たわいもない遊びだけれど、羨ましい遊び。

だって、小さなあたしには友達らしい友達なんていなかった。あたしの家は村から少し離れた小高い丘の上にあって、村に遊びに行くことが難しかったし、母さんはあたしが目のとどかない場所に行くのは許さなかった。父さんだって「ティナは病気で動けないのに、姉さんであるお前がそんな風にいなくなってしまったらティナが可哀想だろう? ティナの気持ちを考えられる優しい姉さんになれ」と時折あたしを叱った。

 そんな中時々遊ぶのは、父さんの仕事の関係の付き合いのある船長の息子のマーヴェルくらいで、この遊びにしたってマーヴェルが教えてくれたのだ。

「女って、本当に下らない遊びが好きだよね」

 マーヴェルは肩をすくめて言うから、あたしはその遊びをしたいとはいえなかったし、マーヴェルと約束するという事柄も思いつかなかった。


だから咄嗟に、ボタンを差し出して願ったのだ。

「怖いのも痛いのもイヤ。でもそれよりも、もう会えないなんて絶対にイヤっ」


――目の前の人が、いとも簡単に誰かを殺してしまったことよりも、あたしが恐れたのは……もう二度と会わないといわれることの方が、ずっと、ずっと、何より恐ろしかった。

「大丈夫、私のことなど忘れてしまうから。

私に関わってしまってねじくれてしまう人生を、元に戻そう」

 優しい手が、額に触れる。

もう何を言ったところで、その決意はかわらないのだと知れば、小さな子供は泣きじゃくった。

「忘れないっ。忘れないもんっ。

忘れたって、絶対に思い出すから」


「私の可愛いリトル・リィ――どうか、キミが幸せであるように」


***


「リドリー?」

 あたしは手の中のティ・カップにようやく口をつけ、その琥珀の液体をゆっくりと一度だけ嚥下してぎこちなく笑みを浮かべた。

 心配そうに覗き込んでくれるアマリージェの向こう側、居間と廊下とを隔てる大きな二枚扉の片側をエルディバルトさんが押し開き、そして神官服とは対称的な真っ黒い魔術師姿の滑稽な格好の男を見た。


 あたしを視界にいれただけで笑みを浮かべて、両手をさし伸ばしてくる人。

あなたの手がたとえ血にぬれていたとしても、そうさせてしまったのはあたし。あなたのことを恐ろしいという気持ちが背筋からぞわりと一度あたしをなめ上げて、そしてあたしはそのことに笑った。

 だって、恐ろしいのはむしろあたし自身だ。

あの時、あたしは人の死に触れたというのに少しも気にかけたりなどしなかった。それよりももっと恐ろしい問題に触れていたから。


 息を吸い込んで、いつもと同じように。

顔を合わせるのが怖かった。

でも、顔を合わせてしまえば自分は――なんとあっけない。

触れられることも、抱きしめられることにも、いつもの感情以上のものを覚えはしない。


「ルティアは?」

「着替えてる」

 地下牢に居たのだから、確かに着替えのひとつもしたいだろう。

あたしは勇気を出してゆっくりと問いかけた。

「少し、話があるの」

言いながら、話って――何を話すべきなのだろうと自問する。

言わなければいけないことが一杯あって。けれど、あたしの中でそれは消化不良を起こしてどう処理すればいいのか判らない。


 あたしは、何を告げればいいのだろう。

あなたは、あたしの為に人を殺した?

そんなことを尋ねて、どうしたらいいの。

あなたはヒトゴロシ。

――そんなことを告げてどうするの。

あたしは奥歯をぎしりと鳴らして、言葉を捜して……目を瞑った。


「あのね」

「うん?」


 小首をかしげる滑稽な魔術師姿に、あたしは微笑みかけた。


「人のお尻撫でまわすの、とりあえず止めてくれないかしら?」

「胸を触りたいのを我慢してるんだから。そこは我慢してもらわないと」

「痴漢は人類の敵っ」

 久しぶりに思い切り頬を張り倒したら、あたしはとりあえずいつもの自分を取り戻すことに成功した。


「あら、また見事な手形ですわねぇ」

普段と変わらぬ侍女姿のルティアは、まるで弾丸のような勢いで扉を開いて現れた。その日常的なのか非日常的なのか理解しがたい空気にほっとして、あたしはぱっとルティアに向き合い、その姿に安堵した。

アレと顔を合わせるのも少し怖かったけれど、ルティアと顔を合わせることも多少怖かった。

あたし、ちょっと弱いなぁ。 


「ルティアっ、うちのお馬鹿さんがごめんなさいっ」

地下牢に入れるなんて阿呆なことする人で本当にすみません。

何はともあれ、がばりと頭をさげて謝ったというのに、謝罪を受け入れるより先にルティアは瞳を瞬いた。


「まぁ、聞きましてぇ? うちのっですってぇ」

「聞いた! 聞いたよ、ルティアっ。凄い。うちのっていい台詞だよね? あたしのってことだよね? 家族っぽい。すごーい。ぼく愛されてるよねっ。いやぁ、照れる。照れちゃう。どうしようっ。しかもぼくのことで謝るって、どうしよう、ルティア!

 この場で押し倒したいっ」

「この場はさすがに駄目ですわよぉ。ちゃんと二人っきりの時になさいませぇ。ルティもいっつもエディ様を押し倒したいですけどぉ、エディ様のお恥ずかしいお尻は誰にも見せたくありませんものぉ」

「そうだねぇ、ぼくもエルのお尻は見たくないや。あ、リドリーの恥ずかしい格好もやっぱり見られたくないや」


 うちのっていうのは失言ですっ。

その前に馬鹿と言われたことに突っ込みなさいよ!

この馬鹿っ。

 それ以前にエルディバルトさんのお尻はどうでもいいっ。

恥ずかしい格好とか――おまえが恥ずかしいわっ。


「あんた達仲良しじゃないのっ」

 喧嘩していたんじゃないんですか?

あたしは動揺と恥ずかしさで怒鳴ったが、二人は止まらなかった。

「あらぁ、喧嘩なんかしてましたっけぇ?」

「ちょっとだけね?」

「地下牢に入ったのはルティが悪かったのですものぉ。リドリー、心配してくださいましたの? 大丈夫ですわよぉ。今回はエディ様も付き合ってくださいましたしぃ。あ、むしろルティってば幸せな気持ちですわよぉ。エディ様ってばルティのこと妻っておっしゃって! 妻の不始末は夫の責任っておっしゃってぇ。もぉ、ルティア幸せすぎて怖いくらいですわぁ」


 それまで静かに離れた場所でこの惨状を生あたたかく見ていたアマリージェは、ついついっとあたしの袖を引いた。


「リドリー、気分が良くなったのでしたら、わたくしの家に行きましょう。

お腹すきましたわ。今夜のメニューは仔羊ですわよ。一緒に頂きましょう」

「え、リトル・リィってば気分悪かったの? 大丈夫? 治してあげようか?」

 それまでルティアときゃいきゃいとはしゃいでいた阿呆様は、途端に真顔でぴたりと止まるとあたしの方へと手を伸ばした。

 長くて、繊細そうな指先がつっとあたしの額に触れて、あたしは――一瞬息を詰めて間近にある相手の瞳を見返した。

 あの頃と違うのは、あの時のあなたは腰まである艶やかな長い黒髪で、まるで女性のようにもっと華奢だった。

 あまり変わっていないけれど、歳月が大人の男性にかえていて。

けれど、その優しい眼差しも、その手のぬくもりも全然変わっていないのね。


――すぅっと、血の気が一瞬引いて、泣きたいような気持ちが広がって。


――嘘つきっ。

ずっと、ずっと、一緒にいるって言ったのに!

あたしの中で子供の泣き叫ぶ声が響いて、あたしは唇を引き結んだ。


「うそつき」

 ぼそりと言葉にして、くるりと身を翻した。

話し合わなければいけないことが一杯ありすぎて、とりあえず今は背を向けた。

またあとで、またあとで……そのあとでが来なくてもいいのではないかとすら思いながら。


「えっ、なにっ? 何で?

ちょっと、リトル・リィっ? 何が嘘つきなのっ。どういうことっ?」


慌てている相手を無視し、あたしはアマリージェの腕に自分の腕を絡めた。

「今日もマリーの部屋に泊めてもらっちゃってもいい?」

「勿論いいですわよ?」

「きゃあっ、ルティも混ぜて下さいませぇっ。エディ様の秘密を教えてさしあげても良いですわよぉ」

「それは要らないから」

「ルティア様はコーディロイと仲良く食事したほうがいいですよ」

「マリィ冷たいですわぁ」


 あたしの反対側の腕に腕をからめてくるルティア。

その背後で阿呆様が「嘘つきって、嘘つきって、ねぇ、なに?」と慌てているようだけれど、しばらく「嘘」について真面目に考えてなさい。


――ぼくのことを忘れてしまったほうが、キミは幸せになれる。

怖い記憶も、痛みも、ぼくのことも全て忘れて……笑っていて。

「イヤだったら! 今がいいの。貴方と一緒がいいの。大人になっても幸せになれなかったらどうすればいいのっ」

 理不尽だと思う言葉に、子供は更に理不尽な言葉を投げつけて。

相手は困ったように微笑んだ。


「もし、もし……自分の人生が本当にイヤになったら、もう駄目だって思ったら、私の元においで。

 キミの心の深い場所にコンコディアの名を封じておくから――全てを投げ出したくなる程辛くなったら、思い出せるように。ぼくのもとに戻れるように」


でも、きっとそんな日は来ないよ。

淡く笑った微笑みと、頬に触れる手と、額に触れる口付けとが――最後の記憶。

嘘つき。

結局、全部あたしの為。

遠く離れている間に忘れ去られてしまうのがイヤなんて、そんなのも嘘。

でも、あたしだって嘘つき。

あなたを失わない為に、あたしは思い出したことも、自分の罪も心の箪笥の中に押し込める。


思い出したことを教えてなんてやらない。

もう二度と名を呼んだりしない。

名を呼んで、あの人の手を更に罪に染め上げたりしない。


――咎人(ユーテミリア)と名づけられた、あたしの魔法使い。


あたしは、その名を決して口にしない。



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