赤い記憶と辺境伯
*ちょっと鮮血表現ありで注意。
「――そう言われましても」
海運陸運を管理している通運事務局に足を向け、今回突然下されたランド商会の聖都内運河での操業禁止について問い詰めると、係官は書類を手にさらりと言った。
「解除されております」
「……」
マーヴェルは一瞬何を言われたのか理解できずに停止した。
さらりと言われたが、いったいぜんたいこれはどういうことだろうか。
「解除って」
「運行許可証が出ています」
「って、ならどうして操業停止処分が下された? いったいぜんたいどうなってるんだっ」
声を荒げずにいられなかった。
許可がおりているからもういいだろうという事務官の横柄な態度も気に入らない。力任せにどんっとテーブルの上に拳を叩きつけると、相手はうんざりとした様子で書類をひらひらとさせた。
「この件に関しては、上層部からの通達ですから――われわれは言われた通りにしただけです。何か疑問があるのであれば……」
そう言いながら事務官は書面に視線を向け、あからさまに眉を潜めて、マーヴェルに確認させるように書類の一角を示した。
書面の一番右上、いくつか書かれているサインのひとつを。
「この指示を出しているのは神殿官です。残念ながらあなたの望むような回答は得られないかもしれませんが、もし申し立てるのであれば神殿官へとお願いします」
「当たり前だっ」
このまま「はいそうですか」などどうしたら納得できようか。それでなくとも、この件に関わっていると思われるダグはこのことに関しての記憶を失っている上、やたら焦燥して現在は医者の預かりになっている。
事務官は深く溜息を吐き出し、マーヴェルを気遣うように見た。
「……これは、ほんの世間話ですが」
そう前置きし、指先で神殿官の署名をなぞった。
「現在の神殿官長は養女を迎え入れておりまして、そのお嬢様が……ずいぶんと評判が宜しくない。これは、あくまでも噂ですが」
とんとんっと、骨ばった細い指が神殿官の名をつつきまわし、ちらりとマーヴェルを盗み見た。
「今回のランド商会の件は、そのお嬢さんがオネダリしたことと……まぁ、噂ですが」
歯にものが引っかかるような気持ちで聖都にある商会事務所に戻ったマーヴェルは、操業停止解除を指示し、それからどさりと事務所の椅子に体を投げ出した。
操業解除の知らせに静かだった事務所内が突如とあわただしさをましていく。それまでの損失を取り戻すべき仕事に励まなければならない上に――ここにいる人間達といえば、根っからの仕事好きが多い。
「いやぁ、良かった。それにしてもいったいどうして停止になったんだか、以前尋ねた時もただ一方的に聖都内での操業は停止だと言い張るばかりで」
差配が嬉しそうに期待をこめてマーヴェルを見ているのは、停止になった理由を知りたいのだろうが、生憎とマーヴェル自身はっきりと判っていない。
「悪い、ダグの仕事の記録を出してくれ。あいつが最後にやった仕事は何だ? それ以前の一月分の記録全て」
操業停止の理由ではなく、次の指示を出してくるマーヴェルに、差配は苦笑した。
「少しは休まれたらいかがです? こちらにトンボ帰りしてからこっち、ゆっくりと休むこともなく動いてますよ?」
「動いてないときつい」
そう、動いてないほうがきつい。
仕事をしているほうがずっと気持ちが楽だった。
今頃、ドーザがどんな情報を入手しているだろうかと考え、リドリーが辛い思いをしているのではないかと考え――自分の中で何かの虫がゆっくりと侵食していくような感覚に囚われる。
いっそ、リドリーのことなど忘れてしまえばいい。
大事にしていたのに、何より大事にしていた筈なのに。結局彼女は俺などどうでも良かったのかと攻め立ててしまいたい。
「あー、疲れてるな、こりゃ」
額に手を当てるようにして前髪をかきあげ、マーヴェルは深く深く息を吐き出した。
――愛してる。
そう呪文のように体に満たすのは、愛しているという気持ちが……かすれていくような罪悪感。
***
くらくらとする頭を整えなおし、当初あたしが支えていたアマリージェに逆に支えられつつ居間までたどり着くと、アマリージェは気遣うようにあたしを猫足の長椅子に座らせ、二の腕を労わるように叩いた。
「もぉ、ほんといろいろ申し訳ないデス」
かすれて落ちた言葉には疲労が混じりこんだ。
ルティアにあわせる顔が無い。
人に聞けばあの大馬鹿者は聖人君子のようだというのに、その聖人君子にお目にかかったことがございません。別人ですか? 二重人格のほうがまだ何かがマシな気がいたします。いや、何が?とか問われたら困るんですけれどね。
「そう落ち込むことはありませんわよ? あの方の扱いは……言ってしまえば、わたくし達は良く心得てます。その上であの方を怒らせたのは、ルティア様の落ち度と、覚悟です。理解してのことでしょうから」
「マリーは、難しいこと言いますね?」
「逆鱗がどこにあるか知りながら触れるのは愚かです。だから、わたくしは決してリドリーを小さな方とは言いませんわ」
リトル・リィ。
そういえば、最近あまり聞かなくなった。
あの人の中で、リトル・リィはゆっくりと失われていくのかもしれない。
いや、そんなことはどうでもいいけど。
アマリージェはあたしの為に自らお茶をいれ、微笑んだ。
「難しくはありません。単純なことなのです」
そうですかー、あたしには随分と色々難しいですよ。少なくとも、するりと納得するのはちょっと無理。
「あの人は……本当にあたしが好きなんでしょうか?」
乾いた笑いで言えば、アマリージェは瞳を瞬いた。
「そこですか?」
「え?」
「――リドリー、誰にでも判ることが理解できないのは、お馬鹿さんですわよ?」
アマリージェはあきれ返った様子であたしに紅茶のカップ差し出すと、ふるりと首を振った。
それにたいしてあたしも首を振る。
「でも、マリー……
どうしてあの人があたしを好きなのか――本当に、あたしはまだ、理解できていないんです」
温かなカップを両手で握りこみ、あたしはゆっくりと口にした。
ずっと、ずっと心のどこかで蟠っていたこと。ずっと、目を逸らしていた何か。
「子供の頃の思い出の中で、あたしはあの人があたしを好きになってくれた理由を未だに思い出せません。小さな子供相手に、あの人はとても優しくしてくれた。あたしはきっと初めてただ純粋に優しくされて、抱きしめられて、頭をなでられて、幸福な時間を共有した。
でも、あの人は……なぜあたしを好きなんでしょう?」
失われた記憶は、魔法使いの所業。
一人で寝台に入り込むと考える。であった時、どんな約束をしたのか――生垣の迷路。そして、足に突き刺さる……
足に冗談のように突き刺さる矢を思い出し、あたしの腹がすぅっと血の気を失ってぞわりと背筋が泡だった。
途端に、視界に真っ赤なイメージが浮かび上がる。
真っ赤――足に刺さる矢から流れる血ではない、それは桶から真っ赤な顔料でも叩きつけられたかのような勢いのある赤。
息苦しさは呼吸の仕方を忘れるほど、ただ見開いた瞳と、そして体を塗らした生暖かで粘着質な……あれは、あれは、何?
――今、治してあげるから。ごめんね……あの人ときたらこんな場に犬を放つなんて。大丈夫かい?
真っ白な衣装のその人の姿も、赤くて、優しい面差しと差し出される手が……
「リドリー? 顔色が悪いですわよ」
とんっと肩を叩かれ、あたしは息を飲み込むようにして周りを見回した。
どくどくと心拍があがり、手の中の紅茶の表面が揺れていた。
「リドリー?」
「……ごめんなさい、ちょっと、ぼぅっとしちゃって」
――小さな子供に手をかけるのは本位ではないが……命令であれば仕方ない。恨むなよ。
矢をつがえ、弓弦を引き結びながら男は心底うんざりとしたように首を振った。
足に突き刺さる矢と、熱を発するような傷み。混乱しながら、必死に求めたのは、この秘密の森で会うことを約束していた美しい人。
信じない。
信じたくない。
でも……真実かもしれない。
あたしはかたかたと身を震わせ、ぎゅっと強く目を瞑った。
――あの人は、あたしの為に人を殺したかもしれない。
小さなあたしが、名を呼び、救いを求めたから。
混乱したあたしが必死に叫んだから。
「助けて、助けてっ、この人を――消してっ」
その言葉の通りに。
面前の男は……砕けて、消えた。
そう、まるで冗談のように、内側から破裂した風船のように、真っ赤な鮮血を撒き散らし、あたり一面に吐き気がするような匂いを撒き散らし。
あたしの体を真っ赤に塗り上げて。
その存在を消してしまった。
「リドリー、リドリー? 大丈夫ですか?」
「……だい、じょう、ぶです」
どうしよう。
どうしたらいい?
あたしはあの人に人を殺させてしまった?
あたしが、言ったから。
――竜を目覚めさせたい?
ふっとよみがえった言葉に、あたしは眦があつく滲むのを覚えた。
今なら判る。
あたしが望めば――竜は目を覚ます。
そう、きっと。
***
一月前の資料から目を通していきながら、神殿に関わるものが無いことに苛立つ。
ダグは外洋船に乗る乗り手ではなく、どちらかといえば積荷の管理や雑用を主にしている。船を使う仕事といえば、時々ある小さな荷物を聖都内の運河で移動させたりする簡単なものばかりだ。
ぱらぱらと書類をめくり、やがてたどり着いたのは、マーヴェル自身が最後に多少なりとも関わった少女の舟遊び。
「参った、判らん」
言いながら、どさりと椅子の背もたれに体を投げ上だしてとんとんっと束ねられた紙の束を叩く。
一番上の書類に書かれているのは、アマリージェ・スオン――伯爵家令嬢の名前。
そうか、あの可愛らしい娘さんは伯爵家のお嬢様だったっけか。
淡い金髪のふわふわとした髪を緩く編み上げ、お嬢様らしくぴんと伸びた背筋。矜持の高そうな、けれど聖都では滅多に見ない商人相手にも礼節を忘れない娘。
使用人らしい子供をひとり連れていたが、はじめに出会った時は護衛がついていた。あの日は、確か護衛ではなくて侍女と少年の三人。
予定では後で友人が合流するということになっていた筈だ。
本来であればマーヴェルかドーザが関わったことであるし、自分達のうちどちらかが船遊びに付き合うべきだったが、外洋大型商船の運航の関わりで、結局ダグに任せたが……ソレが最後の仕事とは。
「失礼なことしなかっただろうな……」
あの時にすでに精神的におかしなことになっていたとしたら、あの娘さんに悪いことをしたかもしれない。
書かれた文字を見ながら、マーヴェルは呟いた。
「アビセイム伯領……聞いたことがないような辺境だな」
ぼそりと呟くと、ただの独り言に事務所の一人が「竜の霊峰のほうですよ。ほら、竜が眠るって言われてる」
「ああ、あったかそんな御伽噺――」
マーヴェルの郷里は東南、竜の霊峰は北西。正反対で郷里ではあまり知られていないが、聖都から西ではこの国は竜の守護を受けていると良く言われている。水とも大きく関わるから、船には竜の加護を受けられるように竜珠と呼ばれる装飾もあるほどだ。
壁一面に掛けられた地図でぼんやりと場所を見ながら、マーヴェルはばったりと机に倒れた。
「とりあえず――神殿官か」
体も、心も疲れている。
けれど、リドリーのことを考えないでいられるのは、楽だった。