初恋とキズ
「時々海が嫌いになる」
ドーザのぼそりとした言葉が耳に蘇った気がして、マーヴェルは苦笑しながらじっとりと潮を含んだ前髪をかきあげた。
聖都から続く水路を小型船でくだり、中型貨物帆船に乗り換え、内海から外海へと流れ嵐をやり過ごして故郷の港町にたどり着くのに七日以上を必要としていた。そして、その逆を行くのは潮と風の兼ね合いにより、更に倍近い日数を必要とする。
「時々、汽車に船は滅ぼされるんじゃないかと思うね」
マーヴェルのぼやきに、船子の一人がぎょっとした様子で目をむいた。船長の息子の台詞ではないと不満をむければ、マーヴェルは苦笑する。
船の縁に両腕を預け、前かがみに寄りかかるようにして、遠く、遠く――どこまでも続く水面を見つめ、視線を伏せた。
「親父や兄貴達にはナイショにしておいて。言ったら半殺しにされかねない」
一日が長い気がするのは、気晴らしに付き合ってくれる友すら隣にいないからだろう。思い返せば、ドーザはこの一年心の慰めになってくれた。
――女一人追い掛け回すなんて女々しいヤツ。
影でこそこそといわれる言葉を、ドーザは遠慮一つせずにマーヴェルへと向けた。
時々、確かに何故自分はリドリーを探しているのだろうと自分に問いかける。
愛しているから?
好きだから?
ただの贖罪か。罪悪感か。それとも、逆に逃げているだけなのではないか。
現実逃避なのか。
伸ばした手は虚しく空をかく。
あともう少しで、手に入る筈だった幸福。
結婚するということは事実で――自分は努力らしい努力をしなかった。
好きだとも、愛しているとも告げた筈だ。リドリーはその言葉に応えてもくれた。
けれど、婚約者という事柄に胡坐をかいていたのも事実。
「――これで、良かったんですよ」
ふいに、耳障りな女の声までもが蘇り、カっと体温があがった。
確か、名前はアネッタだかアネットだとかいうリドリーの屋敷の使用人。幼い頃に病気がちだったティナの世話をしていた使用人だ。ずたずたに引き裂かれたドレスを手に、泣き笑いの顔で立っていた姿が未だにはっきりと脳裏に残るのが腹立たしい。
「なにが、何が良かったって?」
耳鳴りのように言葉が脳内で木霊していた。
リドリーが居なくなったという現実と、引き裂かれたドレスという代物に、思考回路が追いつかなかった。
「お判りにならないのですか?
リドリーさんは、貴方とティナさんが愛し合っておられることをご理解してくださって、自ら身を引いて出て行かれたのですよ。偽りにまみれた結婚をご自身で回避なさったのです。どうぞ、あの方の幸せを思うのであれば、このままそっとしておいて差し上げて下さい」
まったく、意味がつかめなかった。
偽りにまみれた結婚って、何だ。
誰と誰が愛し合っているというのだろう――
血の気が引いて、思わず視線をティナへと向ければ――ティナは真っ青を通り越して真っ白な顔色でゆるゆると首を振った。
「あたし、あたし……知らないっ。あたし何も言ってないっ」
混乱した様子のティナに、アネットは労わるようにその肩を叩いた。「リドリーさんはお二人の関係を知っておられましたよ。ティナさんがあんまりお可哀想で、アネットがお伝えしたことです。ティナさんが悪い訳では――」
その時、ティナは瞳を目一杯見開き、その平手がアネットの頬を打ちつけた。
ティナがしなければ、咄嗟にマーヴェル自身がしていたかもしれない。それくらい、腹の底からどろりとしたものがとぐろを巻いていた。
アネットが驚愕に瞳を見開くのを忌々しい気持ちで睨み、拳を握りこんで、床を踏み抜く勢いで身を翻した。
「マーヴェルっ」
「――追いかける。言っておくが、リドリー以外を愛したことなんて、ないからなっ」
あの日から、ずっと……ずっと、追いかけ続けていた。
何も考えずに町を流れる運河をくだり、港町へと向かったのは考え無しの行動だった。マーヴェルが移動手段として真っ先に船を考えたのは愚かとしか言いようが無い。後で判ったのは、リドリーが移動手段として使ったのは、行商の馬車だった。馬車に乗せてもらい、内陸を行ったのだ。
心のどこかで――本気で逃げた訳じゃないと思いたかった。見つかりやすい場に居てくれると願っていた。
海運業者から本気で逃げるのであれば、内陸を行くのが当然だというのに。
「マーヴェルさんっ、内海の入り口が見えましたっ」
マストの上の物見台から降り注ぐ声に「嵐の残骸があるかもしれないから気をつけろっ」と怒鳴り返し、マーヴェルは伏せていた体を起こした。
――ドーザはティナに会って、話をしただろうか。
港に着けば、鳩か、はたまた鷹が良い知らせを届けてくれているのだろうか。淡い期待に身が僅かに震え、自嘲気味に笑みが落ちた。
「豊穣祭に結婚するなんて、素敵よね?」
不安そうに半眼に伏せた眼差しで、そう囁いた君。
あの時、すでにティナと関係を持ったことを知っていたのであれば――リドリー、君はどんな気持ちでそう口にしたのだろう。
「あたしのこと……愛してる?」
――愛してる。
愛している。
そう応えた俺を、君はどんな気持ちで見つめていたのだろう。
***
「リドリー、ぼぉっとすんな」
寝不足のあまり、あふりと欠伸をかみ殺したあたしにアジス君の叱責が飛んだ。
「パンが落ちるっ」
「うわっ、ごめん」
バスケットに丁寧にパンを並べていた最中の出来事に、あたしはあわただしく背筋を伸ばした。
早朝、勿論パン屋は大忙しだ。
奥のパン焼き釜の前ではマイラおばさんがせっせとパンを焼いている。店舗のほうではあたしとアジス君。今日は早朝から来ているアマリージェがパンを小さな袋に入れたり、綺麗に並べたりと慌しい。
何故、アマリージェが朝早くからいるかと言えば、一緒に出勤したから。
――昨夜はアマリージェの部屋に泊めてもらいました。はい。情けない大人で申し訳ありません。
安眠と矜持を天秤に掛けて、あっさりと安眠をとりました。
おちおち自分の家で休めないっていったいどういうことでしょうか。
勝手に人の家に入り込む犯罪者はさっさと罰せられればいいと思います。
「リドリー、こっちのパン欠けてますわよ」
「あ、じゃあ外しておいて下さい。お昼に食べる用に別皿にいれておいて」
あたしは失礼と承知しつつ、トングでもって皿を示した。
そうこうしている間にも、欠伸があふり。
「何で寝不足なんだよ」
「昨日は遅い時間まで二人でおしゃべりしてましたものね」
ふふっと笑うアマリージェに、アジス君が「かぁー、女ってヤツは。またくっだらない話で盛り上がってたんだろ」と辟易とした声をあげる。
「あーら、ごめんなさいね。下らない話で――マリーの初恋話とかよねー」
「ちょっ、リドリーっ。やめて下さいませっ」
頬を染めてきゃあきゃあと言うアマリージェに、アジス君が目に見えてうろたえ、わたわたとあたしとアマリージェとを見比べた。
「く、くっだらねぇっ」
「失礼ですわよっ。ああっ、お子様にはまだコイゴコロとか判らないですわよねっ」
「子供じゃねぇよっ」
あああ、朝から可愛い。
どっかの腐れボケカスとは大違い。
――ま、その初恋話が実はあのボケカスなのだから、あんまり笑えませんが。
当人も「今となっては人生の汚点意外の何ものでもありません」と言っていたが、冷静に指摘していいですか?
あたし、そのアマリージェ曰くの人生の汚点と付き合っているらしいんですけどね?
「それにしても。魔法使いって本当にいるのね」
あたしはしみじみとした口調で言った。
昨夜、あの後目にしたものは――自分の常識を完全に無視しきった現象だった。
「って、今更だろ」
アジス君の呆れた口調。
「転移扉だとか、実際リドリーなんかは空間移動もしてるだろうが」
「そりゃ、そうなんだけど。なんか、あんまり実感してなかったみたい」
そうよね。突然まったく違う場所に飛ばされたことが幾度もあるというのに。今までそれでも「魔法使い」は遠い存在だった。
けれど昨夜の出来事は、ぞくぞくと背筋を這い登って――何といえばいいだろう。
とても、綺麗で、とても……神秘的に思えた。
穢れひとつない神官服の青年が、揺ぎ無く背筋を伸ばして立つその姿。
半眼に伏せられた眼差しと、薄く開いた唇。その場の空気すらもぴんと張り詰めさせて支配し、無駄を一切見せない優雅な動きで伸ばした手。指先までに神経を張り詰めさせ、朗々と詠う言の葉。
中指の先端が水盆に張られた水にふれ、広がる波紋がゆっくりと鏡面のように変化していく。
そこに映し出されていく世界は――まるで現実とは違うもののようにくっきりとした異空間。
水鏡の中心にルティアの姿がはっきりと浮かび上がり、あたしは息をつめた。
いつもの侍女姿でも、看護服姿でもないルティア。まるで質素な極普通の淡色のドレスは、彼女らしからぬ姿。
普段であれば結い上げて、更にくるくるとカールしている髪は結われることもなくただ流してある。
その膝に、誰か――すがるように写り込む。
途端、パシャリとその映像を映し出す男は指先でその全てを弾いて、吐息を落とした。
エルディバルトさんの表情が硬く強張り、息を詰めることに、あたしは戸惑い、そして――彼の主は優しく微笑した。
慈悲深い至高の存在のように。
「エル、リトル・リィを送って行きなさい」
「公――今……」
「後になさい。リトル・リィ――ここに泊まっても構わないけれど、家で待っててくれてもいいよ」
神官長の表情のまま、さらりと不穏なことを言うものだから、あたしは今見た映像のことをとやかく言うより先に、さっさと自衛に励んだのだ。
魔法使いの屋敷に泊まるのは論外。自宅も決して安全圏ではない。というかなんか危ない。
ならばと失礼を承知で白亜の屋敷のお隣、アマリージェの暮らす領主館を訪ねたのだ。もう本当に駄目なオトナですね! 否定は致しません。
魔法使いって実は凄いのね、なんてアジス君やアマリージェと話ながら、あたしは頭の片隅で引っかかることに顔をしかめていた。
――ルティアの膝にすがるあの男の姿が、あたしの中でくすぶり続ける。
あれは……以前、あたしを荷物のようにその肩に担ぎ上げた男だった、気が、する。