大魔神と道徳論
「あたしが、誰と、どこに居ようと何か問題が?」
我ながらどうしたらこんな冷ややかにきっぱりと言えたものだと思う。
以前の自分だったら、そもそも他人に言い返す気力すら無かった。一年で随分と成長した自分を褒め称えましょう。
誰も褒めてくれませんからね。
あたしがきつく言う台詞に、しかし、相手は眉間に皺を寄せて返した。
「ここ、ぼくの家の中って知ってる?」
ああああ、他人様の家に不法侵入!
そうでした。
通り道のように使ってしまっておりますが、なんと非常識なっ。
さらりと返された言葉に、あたしは一気に敗北の色を濃くしてしまった。ユリクス様が「送ろうか」と申し出てくれた言葉をきちんと受けておくべきでした。あの方がいれば、不法進入はなんとか誤魔化せたかもしれないというのに。
――きっとあの方は出入り自由の人その1でしょうからね。
それまでしゃがみこんで上目遣いに恨めしい眼差しで見上げていた男は、嘆息しつつぱたぱたと神官服の裾を払い、胡乱な眼差しで小首をかしげてみせる。
「ぼくも万能ではないから、リトル・リィがこちらに居ないことに気づいたのはついさっきだし、居ないとなったら心配で心配で」
心配って、そんな感じの眼差しではないようですけどね。
あの、ゆっくりと近づくの止めて頂ければ幸いなのですけれど。あたしはにじりよってくる怒れる大魔神の姿に引きつりつつ「ちょっと、あの……ですね」どう言い訳したものかと言葉を捜していた。
――公にはナイショで。
ユリクス様はそうおっしゃっておられましたけれど、これは素直に吐いてしまったほうがいいような気が致します。致しますが、ユリクス様を売っていいのか。
あたしは穏やかに目元に皺を寄せて微笑むロマンス・グレーを思い浮かべた。
「私を信用しないほうがいい」
庭園をゆっくりと歩きながら、あたしがやっと安堵の吐息を落とした途端にユリクス様がふいにそんな風に口火を切った。
言われた言葉にあたしの足が止まり、それに合わせるようにユリクス様も足を止め、心持あたしへとその体を向けてくる。
「私はね、神殿官。
決して神殿側だけの人間ではない」
ただ静かに、公平に、事実だけを告げようとするようにユリクス様は淡々と言葉を紡ぐ。
「神殿においては王宮に与し、王宮にあっては神殿に与す者――たまたま今回、場が王宮であっただけだと考えなさい」
言いながら、ユリクス様は一瞬だけ冷ややかな眼差しをあたしへと向けた。
「全てのものを信じていると、足元を掬われる。目に見えるものだけが真実ではありえない。
あなたはあまりにも無防備だ」
きつい口調で言い切ると、しかし神殿官長ユリクス様は瞬時にその眼差しを柔らかく緩め、どう対応していいか判らずにいるあたしの頭にぽんっと、手を置いた。
「でも、私のことは八割は信じていい」
「八割、ですか」
「――私は当代竜公爵を好ましく思っている。王宮ではなく神殿ではなく、あの方に仕えているつもりだ。そして、私はルティアを愛している。君は、ルティアの友人だ。八割は味方と考えてもらっていい」
なんとも微妙な数字。
あたしはぐりぐりと頭をなでられながら、少しだけ拗ねる様に「あとの二割は駄目ですか?」と尋ねていた。
自分でも驚いたことに、あたしはこのルティアの養父をとても気に入っているようだ。
そうでなければ、こんな甘えるような台詞が口から飛び出るなど考えられない。
ユリクス様はゆっくりと口元に笑みを刻みつけた。
「ルティアには本来、竜公爵と婚姻してもらいたかった」
あっさりといわれた言葉に、あたしは乾いた笑いを浮かべてしまった。
すっかりと忘れていたけれど、元々ルティアはあの男の婚約者。たしかに養父の立場で考えれば、あたしという存在は微妙な位置にいる筈だ。
あたしってば迂闊。
――娘の婚約破棄の元凶を好ましいと思える父親はいったいどの程度の割合で存在するだろう。
元から無茶な事柄っぽいです。ええ、とっても。
「いや……無理だとも判っていたのだ。あの子は竜公――竜守りなどとは本来関わりあわずに生きて欲しいというのも本音だ。あの子にとって竜公はむしろ鬼門であろうから」
遠く、遥か遠くを見つめる眼差しで言葉を操るユリクス様は、しかしすぐにその口元に笑みを浮かべた。
「まったくルティアは趣味が悪くてかなわない。エルディバルトなどどこがいいのか、ナフサート嬢は判るかね?」
その問いかけ、思い切り視線を逸らしてしまった。
エルディバルトさんのいいところ? ルティアの言葉を借りてよろしいのでしたら、王弟殿下の三男坊という無駄にいい血筋としか言えないです。
それだってよいところかどうかあやしいのに。
性格は絶対に無理。
――などという昼間の出来事を、あたしが脳裏でよみがえらせたのは一瞬なのか、それとも五秒くらいは必要としたのか。
あたしは耳元で「すんっ」と音を聞き、突如として現実に引き戻され、ギョっとした。
場所は当然庭木で作られた迷路の中ではなく、起毛の絨毯を敷き詰められた真っ白い壁に囲まれた廊下。
いつの間にかあたしの面前に立つ男は、あたしの首筋ですんすんと鼻を動かしてかいでいた。
「違う男の匂いがする」
「って、犬ですかっ」
いつの間にか扉に追い詰められ、いやな笑顔の男に匂いをかがれているというのは楽しい状況では決して無い。
逃れようとして僅かにある隙間へと身をくねらせると、今度はたやすく抱き込まれた。
あたしが前、そして匂いフェチが後ろという格好でじたばた暴れている現状。
「ぼくはリドリーの匂いはどんな匂いでもかぎ分けられる自信がある」
「そんなへんな性癖を自信たっぷりに言わなくていいからっ」
ぎゅうっと背後から腰を抱かれ、首筋を舐められた途端にあたしは内心で「ひーっ」と悲鳴をあげた。
「ユリクスの匂い……まったく、あの人はまた何かたくらんだのかな」
それまでの冷たい物言いに柔らかさを感じ、きつく押さえ込むだけの腕がほんの少し緩まる。
「聖都は楽しかった? せっかくお仕事がお休みなんだから、できればぼくと一緒に――」
少し拗ねた口調で耳の裏を舐められ、あたしは相手の腕を掴みながら――廊下でおかしなことをするなとつっかえつっかえ反論したが、相手は口だけは達者な変態だった。
「廊下じゃなければいいのかな」
「そういうことじゃっ」
ゴンっ――
その鈍い音は背後から。
うめいた声は、紛れも無く尊きあんぽんたん変態匂いフェチ大魔神。
腰に回された腕から力が抜け、おそらく側頭部をしたたかに打ち付けた男は前のめりにのめりつつ「つぅぅぅ」と珍しい声をあげていた。
「こ、公っ?」
突然扉を開いた体躯のいい騎士は、自らが開いた扉でご主人様を殴打したことに驚愕して突拍子も無い声をあげたが、痛みを受けた当人はすぐに復活した。
「エル? 何かありましたか?」
――その一瞬の切り替えはどこにスイッチがるんでしょうね、本当に。
それまでの阿呆満開など嘘のように、すっと背筋を伸ばして乱れた髪を払うようにして整えた変質者は慌てているエルディバルトさんを前に完全に神官長だった。
時々思うのですが、実は二重人格とかではないのでしょうか。
呆れる程切り替え早し。
「ご無礼をお許しください」
慌てている騎士殿は膝をついて礼をとるが、面前のご主人様は苦笑するように穏やかに微笑する。
「慌ててどうしたのです?」
「――たいへん個人的な問題なのですが」
エルディバルトさんはあたしがいることをちらりと気にかける様子を見せたが、眉間に皺を寄せて、思い切るように口にした。
背に腹は代えられない、まさにそんな感じで。
「ルティアはこちらに来ておりますでしょうか」
「ルティア?」
「このところ私の屋敷に戻っておらず……ユリクス卿の屋敷にも。一日だけ家をあけることはありましたが、四日も当家に戻っておりません」
切羽詰る様子で言うエルディバルトさんの心配はもっともだ。
あたしもルティアの所在に心配がもたげたが、神官長は静かに問いかけた。
「私は幾度か顔を合わせていますが。いつもと変わりない様子でしたが」
「はい。昼間は幾度かユリクス卿の邸宅や当家に顔を見せたことはあるようです。ですが、夜に戻っておりません」
二日も戻らないことなど今までに無かったと続ける護衛騎士は、明らかに狼狽している。
戻ってるんだか戻っていないのだか、ちょっと当人が混乱をきたしている模様。
本来であれば友人の身を案じてしまう場面ではあるが、エルディバルトさんがルティアを心配している場面というのはなかなか珍しい気がして、ほんのちょっと嬉しくなってしまう。
しかし、それを目にした彼の主はのたもうた。
「以前から気にはなっていたのですが」
「はい」
「ルティアは確かに貴方の婚約者ではありますが、未だ婚姻を果たしていないのですよ。未婚の女性を自らの屋敷に引き込むのは関心しない」
……
ふぅっと吐息を落として、なんだかもっともらしく言い募る神官長。
なんとも高潔な、なんともごもっともなことをつらつらとつなげていますが。
「婚姻前に子を成すようなことになれば、女性にとって名誉がそがれるような事態になってしまいます。
高潔な騎士であればきちんとそのところを考えてあげて下さい」
「申し訳ありません。ですが、あの、ルティアの所在は……」
おろおろとしている騎士はともかく。
あたしはその背後でひくひくと口元を引きつらせた。
「ちょっと、イイ、デスカ」
あたしは平坦な口調で言いながら、とんとんっと高潔で尊き御方――神官長サマの袖をついついと引いた。
「どの口が言いますかっっ」
「え、なに? 何、どうしたのっ」
お・ま・え・が言うなっ!