麗しの乙女とイジケ虫
「おまえを竜の贄とする」
竜の、贄。
その意味がちっとも理解できないが、けれど、贄――って、あまり良い言葉では無いだろう。
さやさやと流れる噴水の水音と、ゆるく流れる風の音に木々がざわめく中。まるで時間が止まってしまったかのように感じられる沈黙。
困惑で喉の奥に溜まった唾液を嚥下するあたしの一歩前で、ユリクス様が微笑と共に言葉を落とした。
なんだかとても嬉しそうに。
「なんとも慈悲深い。と言ったほうが宜しいのでしょうか、この場合」
ユリクス様の穏やかさとは反し、相手は鼻を鳴らした。
「――どのような場であろうと、共に生きる道であるならば慈悲ともいえよう。
先代を嫌うおまえであれば、わしの心も理解できよう――」
「貴方様ときたら、同じことが繰りかえされるとでも思っているのか。
なんともロマンチストなことですな」
まったく理解不能なやりとりを交わし、ユリクス様はあたしへと微笑んだ。
「竜の贄などと物騒な名称ですが、恐れることはない――神殿の巫女をそう呼ぶ、その程度のことですからね。
ただし、竜の贄と呼ばれる麗しい乙女は、生涯人の目に触れることも光を受けることも許されない。ただその命果てるまで、神殿の奥深く身を潔斎し竜を慰める特別で、そして哀れな娘」
恐れることは無いといわれはしたものの、内容はあまり楽しいことではない。何より一介のパン屋の店員に何をさせようというのか。
驚愕するあたしに、ユリクス様はそれを命じた相手に視線を戻した。
「私の覚えている限り、ここ数十年廃れた因習に過ぎない。そんな古いものを持ち出すなど、それが貴方様にとって最後の手ですか」
「そのようだな――不満があるのであれば殺せ、できぬのであれば死ね。おまえの言葉であったか」
「いいえ、それをおっしゃったのは貴方様ですよ。さすがに貴方様の矜持では三度が限界でしょう」
「そうさな。次はわしの番だとは認めてやろう」
相手の笑い飛ばすような言葉を聞くや、ユリクス様はあたしの肩を優しく叩いた。
「それでも、十分な譲歩でいらっしゃると私も認めましょう。今までのことに比べれば」
「やかましい……わしだとて、好きでしている訳ではない。
わしは二度とあのような恐ろしい場面になど遭遇したくないだけだ」
お二人は淡々と話していますが、お二人が話しているのはあたしにとって井戸端会議的に簡単にして貰っては困る感じなんですが。
なんとなく血の気が下がりっぱなしで、喉の奥はからからに乾いてしまうし、口は挟めないしであたしが内心で卒倒していると、ユリクス様はあたしへと視線を戻し、柔和な眼差しに皺を深めた。
「顔色が悪い。さぁ、約束の通りにデートといこうか。この話は終わったよ」
美味しいデザートを用意させているよ、行こうか。
さっさと相手を無視して歩き出そうとするユリクス様に、座ったままの男性は眼差しをきつくした。
「馬鹿を言うな。その娘はこれよりわしの――」
「ああ、無理です。彼女には資格が無い」
ユリクス様はあっさりと言い切った。
「竜の贄に必要なのは、麗しき乙女だというのは承知でしょう」
「おまえもきっつい男だの。
確かに麗しいという程でもないが、問題のある造作でも――」
あのぉ……
「女性相手にきついことをおっしゃっているのは貴方様ですよ。誰が彼女の美醜の話をしておりますか」
あの、あのですね、頼みますから。
リドリー・ナフサート容姿討論会を本人の前でやるのは止めて下さい。
リドリー・ナフサート大嫌い選手権もわりときつかったというのに。
まさか貴方達はエルディバルトさんのお身内の方ですか?
って――そうか、ある意味ユリクス様はエルディバルトさんの身内ではありませんか。なんといっても、エルディバルトさんはルティアの婚約者で、ユリクス様はルティアのの養親でしたね!
なんたる迂闊。
それにしたって、今度は美醜って、本当に泣きますよ?
勿論、美人だとかなんとか思っている訳ではありませんけど、ちょっと酷いとは思いませんか。
そうですよね、世の中にはルティアやアマリージェみたいな容姿に恵まれた人間がいるんですよね。
すみませんね、あたしは一般的で。
一般的ですよ。十人並み。
せめてそれくらいで許して下さい。勘弁して。
そんなあたしの切なさを置き去りに、ユリクス様は言った。
「彼女は乙女では無いと言っているのです」
一拍、二拍……
あたしはゆるゆるとその意味が地面から這い登り、じわじわとあたしの体を伝いのぼっていくようないやな感覚を味わい――最後には、卒倒した。
今、さらっと言われましたが。
思いっきり恥ずかしいことをおっしゃいませんでしたでしょうか。
乙女では無いって、それはつまり。
女の子ではないって、そういう意味とは違います、よ、ね?
「なっ、なっっっ」
羞恥に体が火照り、口からおかしな音が漏れる中。
ユリクス様は実に悠然と、あっさりとのたもうた。
「すでに竜公爵のお手つきです」
あ、ああ、あんの尊きあんぽんたんっっ!
いったいどこまで吹聴してるのぉぉぉっ。
ぐっとあたしの喉の奥で潰された蛙のような音が漏れ、そして、やけに機嫌のよろしいユリクス様の面前、壮年の男性はぎしりと奥歯をかみ締め、ユリクス様をにらみつけた。
「はめたな」
「そういう品の無い表現はおやめになったがよろしい」
「誰がそっちの話をしている! 貴様だっ。この場所で、この聖域でわしの言質をとりおったなっ」
びりびりと振動すら感じる憤りの前に、ユリクス様は微笑を称えて見せた。
「ああ、そういえばここは貴方様の崇拝なさる女神のご在所でしたか。そのようなつもりは元よりありませんでしたが、結果としてはそのようになったかもしれませんな」
「――」
ぎしぎしと奥歯をかみ締める相手を涼しい顔で見つめ、ユリクス様は一礼した。
「けれどそんなことは関係はない。
貴方様は気高きお方なれば、その尊き魂からのお言葉に偽りなど元よりなきものと存じ上げます」
ゆっくりと顔をあげ、ユリクス様はまさに勝ち誇った微笑を称えた。
「次はどうぞご自身の首をお絞めください」
なんだか判らないけど……コワイです。
あたしは完全に自らの居場所を失い、できれば一人でそろりそろりと逃げ出したい気持ちになっておりましたが、この場の空気は緊張に満ちていて、じりじりとも動けない。
何より、まったく理解はできないがこの面前の二人があたしについて話をしていることは承知している。
――そして『人が処女とか非処女とか何の関係があるんですかっ』とぶちキレるタイミングは完全に失っていた。
そう、あたしは絶対にキレて良かった筈だというのに。
悔しそうに奥歯をかみ締めていた男性は、自身の膝の辺りをぎゅっと強く掴んだかと思うと、あたしを睨みつけた。
「娘っ」
「はいぃぃっ」
もう完全に蚊帳の外かと思っていたが、その矛先は突然こちらへと向けられた。
「まったく嘆かわしい。
いまどきの若い娘達ときたら自身の貞操をなんだと思っておるっ。わしの時代の娘達といえば、どの娘も貞操を守りぬき、尊き初夜の晩にはじめて夫にその身を委ねたものをっ」
何故でしょう……むしろ怒りたいのはこちらだというのに、その後説教モードに突入しました。
***
今日は一日お疲れ様でした。
あたしはあたしに労いの言葉を贈りたい。
確かに以前「罰を受ける」という約束を致しました。
忘れていましたが、言われればきちんとと思い出せる程度には頭に入ってございます。
だから、納得できることでしたら罰とやらを受け入れてもいい。
ただちょっと、なんだか今回言われたことは、もしかしたら人生に関わるくらいものすごいことであったような気がするところが引っかかりますが。
幸い、問題の罰とやらはなし崩し的にどうやら立ち消えてしまったようです。
良かったですね。
非処女で……
なんだろう、すごく、すごぉく屈辱的。
自分の父親程の男性と祖父程の年齢の人が、あたしの処女性について議論を交わすのを見せつけられる光景は筆舌に尽くしがたし。
今まで十七年の人生の中でこれほど穴を掘って埋まってしまいたい現象に遭遇したことは無いだろう。
無い……無い訳でもないけれど、いや、いや、だがしかし。
あたしは思い出してはいけない感じのぞくりと背筋をなぞるものを思い出し、突如顔を真っ赤に染めながらぶるぶると首を振った。
繊細そうな指先がなぞる感触。肩甲骨の辺りに落とされる口付けに、掴んだシーツの冷たさと囁かれる甘い……
――いや違う。ああいった羞恥と、今回の羞恥とでは比べる天秤がちがうのです。
あたしは頭の中で勝手に慌て、喉の奥で「ぐぅぅ」と呻きつつ、転移の為の最後の扉を開いた。
「どこ行っていたの?」
扉を開けた先、起毛の絨毯が敷き詰められた廊下で、真っ白い神官服の男が膝を抱えてしゃがんでいるのを想像していただきたい。
顔だけは無駄に良い癖に、まるで十代半ばの少年が、友人達と道端で不当に道を占拠しているが如く――なんとも滑稽な格好で。
恨めしい様子で眉間にくっきりと皺を寄せて、不満そうにじぃぃぃっと上目遣いで見上げてくる訳です。
あたしは自分の中に湧き上がるものを感じた。
それはもう、ふつふつと。
そして魂が命じるままに行動することにした。
「会いたかったわ、魔法使い」
――とりあえず一発殴られてくれる?
乙女で無いことは自分の行動の結果だから文句があろう筈はありません。
あたし自身が決断し、行動し、その結果そうなったのだからこれについては文句は無い。だがしかし、それを誰彼構わず――アマリージェのようなお子様相手にばらすことも問題だというのに、まさかのユリクス様にまで吹聴していることには異議ありだ。
素晴らしいロマンスグレー相手になんということを。
あたしの魂の憤りを前に、しかし、しゃがみこんで上目遣いで見上げてくる相手は瞳を細めた。
「誰と、どこ、行っていたの?」
いや、だからっ、あたしのほうが怒っているんだってば!