過去の傷と過去の歪み
ジンジンと頬が痛んだ。
冷たい風が、さらにその痛みを広げるように感じていた。
あたしが正気を取り戻すより先に、あたしの手をつないでいたアジス君が咄嗟に動いていた。
「何すんだよ!」
「何って……あんた何よ?」
「何って」
「まさか! リドリー、あんた子供?」
って、ちょっと――アジス君とあたしの年齢を思いだして欲しいし、何よりティナ! あたしがあんたの前から姿を消したのはたかが一年前ですよ?
自分で言葉にしてからその事実に気づいたのか、ティナの顔が赤く染まる。
「え、あ……それは、ないわよね」
そうね。
「そんなことより!
どういうことか説明してよ!」
ティナは気恥ずかしさを隠すように畳み掛けた。
アジス君を無視して。
「説明は俺にしろ!
なんでリドリーを叩いたんだよ、このヒス女!」
「なんですってぇ」
「突然暴力ふるうなんてどういう了見だっ」
「あたしにはリドリーを叩く権利があるのよっ」
あたしは呆然と二人のやりとりを見ていたが、やがてハッと正気を取り戻して慌ててアジス君の肩に手を掛けた。
「アジス君!
あの、ごめん――これ、あたしの妹のティナ」
そういうと、あたしとティナとを見比べてアジス君は眉を潜めた。
「似てねぇ」
うん――あたしもそう思うよ。
あたしは苦い笑みを浮かべ、アジス君の体の向きを【うさぎのぱんや】へと向けた。
「送ってくれてありがとう。
もう大丈夫だから――明日、楽しみにしているからね」
「……」
不信気な視線を向けられたが、姉妹だということは疑っていないのだろう。アジス君はあたしの肩をぽんっと一度叩き、
「何かあれば言えよ?」
――弱冠十一歳。男前過ぎますよ。
あたしは少しだけ彼から勇気をもらい、見送った。
足が震えそうだった。
振り返るのが怖かった。
けれど、そこにはちゃんとティナがいた。
泣きはらしたような顔をして、憎しみを込めた瞳で見つめてくる。
あたしの行動、全てを見逃すまいとするように。
「うち……そこのアパートなの。来る?」
「――行くわ」
「一人で来たの?」
「そうよ」
ティナの返事はとげとげしい。
――おかしいなぁ。
今頃、きっとティナは幸せになっていると思っていたのに。
邪魔なあたしがいなくなって、きっと今頃はマーヴェルと一緒に楽しく暮らしているとおもっていたのに。
あたしは重い足取りで自宅へと戻った。
三階建てのアパート。
螺旋階段をそろそろと歩く。こんな日にも魔術師が顔を出すだろうかと戦々恐々としていたものの、何故か魔術師は顔を出さず、あたしはほっとした。
「狭い」
ティナは冷たく言い切った。
「リドリーが全てを捨てて手にいれたかったのは、こんなものなの?」
――ティナの言葉は悪意に満ちていた。
あたしは微笑を浮かべ、椅子が一客しかないその部屋でティナに椅子をすすめ、お茶をいれるために湯を沸かした。
「あたしが聞きたいこと、判ってるよね?」
「――」
「どうしてあんなことしたのよ?
マーヴェルがどれだけ傷ついたと思ってるの?」
ティナは唇を戦慄かせていた。
「結婚式間近に花嫁に逃げられたのよ? あの人がどれだけ冷たい視線にさらされたと思うの? どれだけあの人がっ」
「――」
「どうして!
どうしてマーヴェルを裏切ったのよっ」
ティナの言葉はどこか遠い。
――ティナは悔しそうに泣いていて、あたしはそんなティナをどこか空虚に眺めていた。
あたしはマーヴェルを裏切ったのだろうか?
いいや。
裏切っていたのはマーヴェルで、そしてティナだった。
それを見ないふりで通すことが堪えられなくなったとき、あたしは決断したのだ。
「どうしてそんなひどいことができるの!
マーヴェルがどんなに辛い思いをしたと思ってるのよ!」
あたしは酷いことをしただろうか?
むしろ二人の為に、いや……
自分の為にあそこを出たことは事実だ。
あたしはあそこで幸せにはなれない。
あそこでは誰も幸せになれない。
あたしは、それを良く知っていた。
気分が高揚しているティナは、勢いをつけてテーブルの上のカップに手を伸ばしかけた。
――掛けられるっ。
咄嗟にそう思ったけれど、それを押さえるようにすっと、黒いステッキがティナの手を押さえた。
とんっと、まるで軽く。
あたしは呆然とした、ティナもまた、呆然としていた。
あたしはゆっくりとティナの手に当てられたステッキを見て――そしてそのまま視線をステッキの上へとあげた。
握っているのは白手。
「魔術師」
確認するまでもなく、それはいつもと変わらない傲岸不遜なその男。
「ごきげんよう、部屋の鍵は閉めたほうが良いね。無用心だよ」
にっこりと微笑み、ついで魔術師はステッキをおろして優雅に一礼した。
シルクハットをくるりと回し、胸元に軽く押し当てて。
「こんにちは」
「……こん、にちは」
ティナは戸惑うように応える。
「大きな声であまり怒鳴るものではないよ。このアパート、わりと壁が薄いからね」
ティナの頬がカッと赤くなる。
「なんなんですか、あなたっ」
「魔法使いだよ。傲慢なお嬢さん?」
クスリと口元に笑みを刻みつけ、すっとステッキを一回転させるようにして床に引き戻し、とんっと床をついた。
「あなた――」
「ぼくの愛しい人を傷つけるものは、たとえ誰だろうと許すつもりはないよ?」
何を勝手なことをっ。
あたしが口を挟むよりさきに、ティナはギっとその視線をあたしへと向けた。
「リドリー!
この男がいたからなのっ?」
それは誤解です!
そんな事実はありませんっ。
「身勝手なお嬢さん」
クスクスと魔術師が笑う。
その笑みが、いつもの彼とは違っていた。
「自分は悪くないと思いたいんだね。悪いのは全てリドリーだと思いたいんだね」
こんな時だけ、魔術師は確かにリドリーと口にした。
「ティナ」
まるで唄うように。
艶やかに。
魔術師は微笑んだ。
「――水車小屋が君のお城だった」
突然、魔術師は奇妙なことを言う。
は?
とあたしが眉を潜めるのとは逆に、ティナはすっとその顔色を変えた。
「このままお帰り。
ティナ・ナフサート――君の暮らすその場所は、ぼくの領域では無い。
安全な場所で絶望の夢をみるといい。ぼくの愛しい人を傷つけるものを、ぼくは決して許すつもりはないよ」
「なんっ、あなた……」
「君は何も見なかった。
リドリーはこの町にいない。まったく、結構見つけてしまうものなんだね? 少しばかり君の行動力には脱帽だ。それに免じて体は無傷で返してあげる。
君にはちょっとばかり感謝していることだしね?」
何を言っているの?
あたしは淡い笑みを浮かべ、ただひたりとティナを見つめる魔術師を見た。
魔術師はあたしを見ていない。
あたしなどいないかのように、ただ静かにティナに語りかけ、やかげてステッキをくるりと回し、ティナの額を軽く、ついた。
「そうだな、リドリーはいない。
死んでしまった――判った?」
「リドリーは……死んだ」
「そうだよ。
他の誰も知らないけれど、リドリーは死んでしまった。あの日、君とマーヴェルが寝台を共にしてしまったのを見たリドリーは、自ら死を望んだんだ。
他の誰も知らないけれど、君だけは知っている。君はずっとずっと、それを忘れてはいけない。
君が――リドリーを殺したんだ」
「ちょっ」
何を言っているのよっ。
あたしは慌てたが、魔術師もティナも――あたしなどいないかのように振舞う。
やがて、つっとティナの瞳から涙がこぼれた。
「リドリー……っ、リドリィっ」
まるきりあたしが死んでしまったかのように、ティナは切なそうに声をあげて泣き出す。
魔術師はそんなティナを満足そうに見つめ、微笑んだ。
「――君はずっと自分の罪を忘れない」
「何をしているのよ!」
あたしは堪えられずに声をあげた。
魔術師の瞳がやっとあたしを見る。けれどその瞳は――冷ややかな眼差しだった。
「やぁ、リトル・リィ?」
妖艶な、という言葉が似合うくらい綺麗な微笑みを浮かべ、魔術師はステッキをくるりとまわして片手の平で受け止めた。
ぱしりとステッキの乾いた音。
――そして、泣き崩れたティナのすすり泣き。
「何を、したの?」
「邪魔だから帰るように説得した」
「……そうは見えない」
「そう? 大丈夫だよ。おちついたら勝手に自分の町に戻るから。
もう君を煩わせることもない」
肩をすくめてみせる相手に、あたしは一歩身を引いた。
「魔術師?」
「いやだな、リトル・リィ――ぼくは魔法使いだよ?」
くすりと、小さな笑みをこぼす。
その瞳はいつもの色をたたえていない。
あたしは更に一歩退く。
相手が――怖い。
けれどあたしの家は小さなアパートで、やがて背中が壁に触れた。
魔術師は小首をかしげ、困ったように微笑んだ。
「君の記憶を消すのは、本当は本意じゃないんだよ?」
「――」
「前の時もずっと後悔したんだ。
君ときたらぼくという相手がいるのに、たかが幼馴染なんかに恋してしまうのだもの。
君のことを知ることができても、ぼくは君の元にはいけないから……忍耐力を試すゲームかと思ったくらいで、本当に失敗したなぁって悔やんだものさ」
なにを言っているの?
どくどくと心音が上がる。
魔術師の足がゆっくりと床を歩み、あたしの前で立ち止まる。
悲鳴をあげそうな恐怖なのに、舌が凍るように悲鳴はでなかった。
白手に包まれた手が、あたしの頭の両サイドにとんっと触れる。
腕の中に囲まれたあたしに目線を合わせて、魔術師は恐怖に震えるあたしを一瞬悲しそうに見つめて、囁いた。
「おやすみリトル・リィ――良い夢を」
「やめっ――」
唇が触れ合う。
そのまま魔術師の手が狂おしいようにあたしを抱きしめた。
強く、強く、強く。
骨がきしむほどの強さで。
――あたしの意識が白い闇に囚われ、その腕の中でゆっくりと力を失う。
ティナが、泣いてる……
「怖がらないで。
そんな目でぼくを見ないで。
きみがぼくの……いちばんの、ひと」
優しい囁きに、あたしはふっと笑った。
ボクをキライにナラナイデ……