僕は左官的な仕事をする
僕はもう随分と前から不自由だった。何が不自由だと言って、自分のスケジュールを自分でどうこうできない事が最大の不自由だ。あー、わかる。そういう人は、そしてそういう職種はたくさんあるよね。夜勤がある医療従事者だったり、警察官みたいな仕事、夜間も配送する運送業者、年度末で忙しい建築業の方々。もちろん、今の僕、コンビニ夜間専門シフトだってそうだろう。
そう、種明かしをしちゃったね。僕は夜の時給が良い時間にばかりシフトを入れてもらって生活をしているフリーター君だ。しかし、社会の割と底辺だなんて上から目線で語ってもらっては困る。なぜなら僕が勤務しているコンビニはこの村で唯一のコンビニなのだ。しかも村立! 僕が、僕こそがこの村のライフタインを担っていると言っても過言ではない、多分。どうだ、少しは僕を見直したかな?
でもそれだけではない。僕の不自由にはもう少しだけ根が深い。どうだろう、次の客が来店するまで、僕の独白みたいな追憶に付き合ってはくれないだろうか。
前提条件だが、僕が勤務するコンビニは存立であり、村で唯一のコンビニだ。しかし、時折、ごく稀に、いや、僕にも予測不能な案件で閉店、いや営業中断することがある。もちろん、僕にその決定権があるわけではない。
その時、不意にスマホがのんびりとした電子音を奏でた。そう、村民なら誰でも知っている村歌のイントロであり、ある特定の番号からの着信音に設定されているやつだ。
「えー、マジか。さっき肉まんあっため始めたのに。なんだよ、もう」
思わず出てくる愚痴。良いんだ。どうせワンオペで聞いている人もいない。僕は手早く色々放置しちゃヤバい電源を切って、バックヤードに向かいロッカーから薄手のコートをひったくるように取り出し、ガシャんと手荒に閉める。そしてコンビニ入口を施錠して証明も切る。そうすると、本当にここいらや真っ暗で自分の1メートル先も見えなくなる。
「最初はびっくりしたんだよな、この闇が深い、感」
でももう僕は驚かないし、準備もしてある。ネットで買った高出力、小型軽量の懐中電灯のスイッチを点け、そしてようやく長らく放置していたスマホの着信マークにそっと触れた。
「で、場所は何処ですか?」
向こうが何か言う前に聞く。僕が知りたいのはもはやそれだけだからだ。懐中電灯の光に照らされた愛車、電動キックボードの白い華奢な車体、その曲線的なハンドルに懐中電灯を持っていない方の手をかける。
「いけずやねぇ。こっちが掛け直す余裕もないいのをわかってて、散々焦らすなんてねぇ」
若い女性の京言葉ならそそるかもしれないけど、野太い男の声に情けは無用だ。
「急ぐんですよね。場所は何処ですか?」
「はい。急ぎます」
相手の声音と口調が変わった。これは本当に猶予がない、ようだ。
「沢渡くんのコンビニから村道を右に5キロ。『ようこそまほろば村へ』の看板が目印です」
「了解」
もう僕の準備は整っている。ヘルメットを被りメガネの上からもう1つ大きめのメガネをかぶって愛車をスタートさせた。余分な振動も音もなくキックボードは滑るように走り出し、僕は現場へと向かって走り出した。
そこはもうなんとなく現場感がダダ漏れていて、電話でのオファーがなくても近くを通ればすぐに異変が起こっているとわかっただろう。
「風が‥‥」
すでに折り畳み傘が使えないほどの風が吹いている。今夜が雨ではなかったことに安堵しつつ、僕は随分と手前でキックボードを降りてしっかりと丈夫そうな木に頑丈なチェーンで繋ぐ。飛ばされたら大変だ。これはかなり値段のする僕にとってはお宝なのだ。
「どんな塩梅ですか?」
この言い方はこの村に来てから使うようになった現場で良く使う慣用表現だ。これで大抵は事足りる。
「良くねぇよ。視ればわかるだろう」
不機嫌そうに返事をしたのは僕より少し、多分10歳ぐらいは年上のバンカラ(これもこの村で覚えた)で野生的な男性だ。いつも不機嫌そうだが、今夜は特に機嫌がが悪いように見える。名前は確かキジマさん。
「ついさっき、えぇと半刻ほど前に出たくせにもうこのデカさだ」
看板に描かれた村のマスコット、マシュマロの妖精マホちゃんが看板ごろ何かに吸い込まれるかのように、歪にへしゃげている。強風はそのへしゃげた中心に向かって吹いている。
「デカっ」
僕は復唱するように言った。もう少し看板に近づいたら、身体ごと何かに吸い込まれてしまいそうな吸引力だ。やはりキックボードを頑丈に固定してきたのは正解だった。
「涼、やれっか?」
バンカラでワイルドなキジマさんが言った。
「やりますよ」
そのためにここにいるんだから、という言葉は飲み込んだ。なんとなく卑屈だし、それに、いや今は穴だ。そう、僕にはあれが視えている。向こう側が赤い穴。燃えている業火のような滴る血のような揺れうごく様々な色に揺れる赤が真夜中の真っ暗な看板を侵食するかのように広がっている。どこにも足場も段もないのに、ぽっかりと紅い穴が広がっているのだ。
「涼、視えるか?」
キジマさんの問いに僕は穴から視線を逸らさずに頷く。あれはここにあってはいけないものだ。あればどんどん広がって、僕の大事な、平穏で昨日の続きみたいな今日が崩れ、望まない明日がやっってくる、多分、きっと。それを僕は望んでない。
「‥‥やります」
僕がそう言うと、穴の周囲に集まっていた人たちがもう5メートルほど後退する。でも、もう僕はそれをちゃんと確認していない。キジマさんがいるのだから、きっと良いようにやってくれているだろう。
普段は自覚することのない身体の奥にある光源のような白い力。それをゆっくり、もしくは迅速に両手の先に集中させる。左手には力を強く集め、右手は繊細なコントロールを意識する。そうして一気に穴に近寄ると僕は左手の力を右手に受け止め、その右手を強く穴に叩きつけた。
「おおお!」
誰かの声が背後から聞こえた。けれど僕はなすべきことに集中している。ぶつけた力を右手で伸ばすように広げる。だが、まだ穴は塞がっていない。もっと、もっと力が必要だ。僕はどんどん身体の中から力を左手に集め、右手で穴にぶつけ、広げる。そう、それは例えて言えば、左官のような動作だった。壁に白い漆喰を塗る熟練の左官をイメージして力を塗る。そう、僕の力を穴を塞ぐことだ。こんなふうにどこかわからない場所と通じてしまった次元かのか時空なのかわからない穴を塞ぐこと、それは今のところこの村では僕にしか出来ないことだ。
「いいぞ、にいちゃん! あと少しだ!」
大きく左右に手を振るようにして力で穴を塞いでいく。僕の目にも赤い光は弱くなり、背後からの投光器の光がなければ看板の輪郭さえもわからないくなっている。うん、本当にあと少しだ。僕は最後の力を振り絞るようにして力をすっかり小さくなった穴にぶち込んだ。
「これでどうだ!」
穴は完全に塞がれて、あれほど大きかった存在感もスポットライトが絞り切って消えるように‥‥消滅した。
「や、やった」
僕は、僕は気がつくと尻餅をついて地面にに座り込んでいた。もうしばらくは何もできない。ただ、尻の下は冷たい地面のはずがなんとなく安定が悪くて妙に生ぬるい。
「おい! なんだそりゃ?!」
キジマさんの野太い声が背後から聞こえ、数人が駆け寄ってくるような足音が響く。なんだと言われても僕には心当たりがない。ただ疲れているだけだ。なのに僕は強い力で引っ張られ強制的に立たされる。
「にいちゃん、誰だこいつは?」
「え?」
振りかった地面には投光器に照らされた、肌色面積が広い物体がある。申し訳程度に残った残骸のような布、それを身につけているのは倒れている‥‥人だ。
「え? ええぇぇぇ!」
僕は本気で飛び上がった。疲れた身体のどこにそんな力がまだ残っていたのかと自分でもビックリするくらい地面から高く飛び上がったのだ。だって、それはどう見ても美形率の高い高校生くらいの年齢の、半裸の女の子だったのだから。誰か! 誰かこの未確認人型物体に触ったりしてもコンプライアンス的に大丈夫な人、しかも剛毅な人の召喚を今すぐ! 今すぐお願いします。じゃないと、僕はこの場でぶっ倒れること間違いなしです。僕はそんな取り止めもないことを考えつつも速攻で崩れかけた看板の向こう側へと身を隠した。