第九話
緑は鬱蒼と生い茂っていた。足元もまた雑草に覆われ、元の小径が判別できないほどだ。草木の上に、靴で何度も均したような、細々とした線ができていた。獣道にも似た曲線を辿り、僕は本堂を目指した。
寺、と言ってもそれほど巨大な建造物ではない。ただ山の頂上に、さらに石の階段が空にまで伸びていて、その先には古い大木で出来た門が立っている。3メートル……いや4メートルはある門だろうか。崩れかけた門をくぐった先に、寺子屋のような、こぢんまりとした建物が残されていた。ここら一帯は赤色の縄が張られ、立ち入り禁止になっていた。
恐々と縄をくぐり、森に囲まれた石の階段を登る。階段というより、まるでアスレチックのようだった。きっと雨が降るたびに渓流が出来、石が流され、どんどん形が変わって行ったのだろう。スマホを覗き込むと、何と圏外になっていた。この世界に、まだ圏外があっただなんて!
当たり前だが、先ほどからXの通信も途絶えていた。
ここから先は一人でやるしかない。そう自覚したら、一気に不安と、緊張感が胃の奥からせり上がってきた。苔の生えた岩肌に、慎重すぎるほど慎重に震える足を乗せた。もし振り返ったら、やってきたいじめっ子たちと鉢合わせしそうで(そんなはずはないのだが)、僕は頑なに前だけを見続けた。本堂まで、あとほんの数メートル……。
それにしても……。
ずっと死ぬことを考えていた……死の直前まで追い込まれていたこの僕が、ここまで生きるために行動的になっているのも、やはりXのおかげだと言わざるを得ない。
本当だったら今頃とっくに死んでいてもおかしくなかったのに。こうして酸素を吸い込み身体中に血液を循環させ、汗を流して必死に山登りをしていることが、何だか自分でも可笑しかった。
Xと出会えたことは、彼と繋がっていることは僕にとって蜘蛛の糸のようなものだった。明らかにヤバそうな、得体の知れない相手だ。だけど、もしかしたら本当に、僕は助かるかも知れない。
今まで何処を探しても見えなかった『希望』の二文字が、皮肉なことに、深い闇の奥底から現れたような気がしていた。
彼を信用はできないが、信頼はできるんじゃないか。
そんな淡い期待のようなものが、僕の中に芽生えていたことは確かだった。
あと数メートル、が実に長かった。本堂に着いた途端、疲れがどっと押し寄せてきて、僕は地面にへたり込んだ。実際には10分も経っていないだろうが、体感ではもう小一時間登り続けたような気がする。Sたちは、どうしてこんな辺鄙な場所を溜まり場にしてるんだろう? よっぽど人目に着いたら不味いことでもしているのか……。
寺の中は伽藍堂としていた。釣鐘とか、仏像といった金になりそうな類はとっくに持ち出されていて、代わりにポテチの空袋とか、飲みかけのコーラのペットボトルなどが散乱している。きっと此処で夜な夜な宴会でもしているのだろう。まるでゴミ屋敷だ。よくよく見ると、吸いかけの煙草とか、酒瓶までもあった。念のため手持ちのカメラで写真を撮っておく。
ひとまず誰もいないことを確認し、胸を撫で下ろした。僕は時刻を確認した。13時41分。昼日中は火葬場の人間が近くにいるし、警察も見回りに来ているらしくSたちも寄り付かない。夜中までまだ時間はある。奴らが帰ってくるまでにカメラを設置しなくてはならない。
これが中々難しかった。ゴミの中に隠すのはどうも見つかりそうだし、建物には物が無さすぎた。仕方なく、外に並んだお地蔵様の間に一台と、屋根裏の隅に一台仕掛ける。蜘蛛の巣を破いてしまうと誰かが来たことがバレバレになってしまうので、ゆっくりと、たっぷりと時間をかけて、何とか天井の片隅にカメラを置いた。16時27分。
大丈夫……大丈夫。ここまでは上手く行っている……。
呼吸も落ち着きを取り戻し、達成感でじわじわと緊張が解されて行く。あと一台、軒下から撮影できないか……と思い、一旦外に出て裏に回る。その時、僕はようやく異変に気がついた。
初めは、生ゴミの臭いかと思った。
近くの火葬場で、人知れず誰かが荼毘に付しているのだろうと思っていた。この異臭は。思わず顔を背けたくなるような、酸味の、鉄の味の。
……血の臭いだった。肉が爛れて、腐りかけているような、腐敗臭が寺全体を覆っていた。ここに来た当初は、カメラを隠すことに必死で、全然気がつかなかった。
「何だろう……?」
思わずXに問いかけるも、当然返事はない。本堂の裏手側。藪の中。仰々しく蝿が集った一角に、僕の視線は吸い寄せられた。改めて注目すると、今までどうして気がつかなかったんだろう? というくらい、異様な雰囲気を放っている。
すぐ近くのお地蔵様に、黒いナニカがこびり付いて顔を汚していた。落ち着きかけた心臓が、再び激しく脈を打つ。ここに来た時とは違う緊張感が、背筋を凍らせた。アレは……あの草むらから飛び出て見えるモノは、一体?
視線が外せない。呼吸が荒くなっているのが分かる。動物の死体かと思った。違った。それは、
「う……」
それは首だった。人間の、千切れた首。カッと見開かれた両眼に、大きく開け放たれた口元に、僕は見覚えがあった。
次の瞬間、大きな悲鳴が谺して、僕の鼓膜を震わせた。それが僕自身の悲鳴だと気付くまでに、数秒かかった。
Sの首だった。いじめっ子のSが、山奥で殺されていたのだ。