第四話
あれはそう、一年前、僕が中学生になった時のことだった。
突き刺すような冷たさが、全方向から僕の肌を包み込んだ。視界の先は明滅し、支えを失った身体がぐるぐると回転する。どういう訳か呼吸ができない。ただ、口の中から蟹みたいに、ブクブク泡が出るだけだった。
池に突き落とされたのだと気がついたのは、それから数秒経ってからだった。水の中は真っ暗だった。どちらが上かも分からない。時折水面から覗く淡い光も、狂ったように反復横跳びするから、すぐに見失ってしまった。パニックになった僕は泥とゴミの中で暴れ回った。
岸辺から石が投げられた。子供の握りこぶしほどの大きさの石が、側頭部に当たって、僕はあえなく気絶してしまった。
9月だった。暑さはまだ十分残ってるとはいえ、それでも貯水池の中などに落とされてはたまったものじゃない。仄暗い水の底から、プカリと浮いてきた僕を見て、4、5人がゲラゲラ笑った。
「死んだか?」
「死んだんじゃね?」
「フランシタイだ! ギャハハ!」
「ドザエモンだ、ドザエモンだ」
人が死にかけているというのに、全く呑気な奴らである。
さて、主題に戻ろう。
池に突き落とされたら、どうやって泳げばいいかって?
そんなことは僕が知りたい。そもそもこの時点で、僕は情けなくも気絶してしまっているのであって、はっきり言って死んでもおかしくなかった。助かったのは本当に幸運が重なっただけである。
まずはじめに、その時僕はいじめっ子たちに服を脱がされていた。パンツも脱がされて、スッポンポンだったので、屈辱もかなりのものだったが、おかげで命拾いしたとも言える。もし服を着たままだったら、水を吸い込んだ服が重くなって、そのまま沈んでいたかもしれない。
そして次に、あっという間に気絶してしまったこと。もし僕に強靭な精神力が備わっていて、いつまでも意識を保ったままだったら、大声で助けを呼んだり水の中で暴れたりして、やっぱり溺れていただろう。軟弱さが僕を救ったのだ。全く世の中、何が何処でどう役立つのか分からない。
しばらくして、あまりの寒さで目を覚ました。浮かび上がった肋骨、木の枝のように細長い腕。いつの間にか岸に流されていて、僕は裸のまま、汚い人魚姫みたいになってそこに横たわっていた。
空は真っ暗だった。すぐそばの道に人通りや車の通りはまだあったが、急な坂になっていて僕の姿までは見つけきれなかったようだ。僕は海藻のようにおでこに張り付いた癖毛を何度も撫で付けた。もし発見されていたら、「新種の河童現る!」などと地方新聞を騒がせていたかもしれない。
池を振り返ると、僕の靴がどんぶらこどんぶらこと流されているのが見えた。流石に取りに泳ぐ気にはなれなかった。
身体中に砂やら藻が張り付いて、気持ち悪かった。泣くことも忘れ、ひたすらデカイくしゃみを繰り返し、僕はよたよたと家路を急いだ。僕を突き落とした犯人たちは、とっくにその場から姿を消していた。追いかけて行って殴り返すなど、軟弱な僕にはとても無理だ。
誰かに見られでもしたら、それこそ自殺したくなっていたことだろう。幸い家は近くだった。裸のまま逃げるように家に帰り、郵便受けの下から鍵を取り出して中に滑り込んだ。両親はまだ帰ってきていなかった。風呂を沸かし、タオルで全身を吹いている間、とうとう涙が込み上げてきた。
どれくらい泣いていたかも分からない。血管が爆発しそうなほど感情が体の中を駆け巡り、僕は気がつくと、机の前に座りパソコンを開いていた。
インターネットの無料匿名掲示板に、いじめっ子たちの悪口を書き込むのが、僕の日課になっていた。もちろんそんなところに書き込んだって誰にも読まれたりしないのだが、だからこそ好き勝手に書き散らすことができた。そうやってストレス発散していなかったら、今頃僕はどうなっていただろう? 考えただけでもゾッとする。
誰にも相談なんてできなかった。
いじめが問題になると、よくいじめられている人に「周りに相談するよう」アドバイスされているのが見受けられる。それは正しいことだと思うし、周りに相談して助かるのなら、それに越したことはない。だがそんなものは氷山の一角で、大抵は相談できず、あるいは相談しても助けてもらえず、絶望したりしてるのではないだろうか?
自分の経験でしか話せないので申し訳ないが、とにかく親や周囲の人間には、「心配をかけたくない」だとか「恥ずかしい」とかで、中々打ち明け辛い。そもそも自分が周りから嫌われているだとか、いじめられているなど、認めたくないのが普通だ。
それで、意を決して先生とかに打ち明けたとしても、「自分で解決しなさい」とか、「貴方も悪かったんじゃないの」みたいな言葉が返ってくる。逆に「クラス会議を開きましょう!」なんて言われると、後でどんな仕返しがあるか分かったもんじゃないから、バカなことはやめてくれと叫びたくなる。
そして貴方は最終的に、自分の味方なんて誰もいない、周りの全員が敵になったような気がして、余計心を閉ざしているのではないだろうか? 心を閉ざすな、とはとても言えない。閉ざしたままでいいので、この物語の続きを読んだり、読まなかったりすればいい。