最終話
「無事で何よりだ」
病院のベッドを訪れた刑事は、顔を歪ませてそう言った。何だか喋りにくそうだ。喋れないことがあるというよりも、元々年下と会話するのは苦手なだけみたいだった。高杉近衛……逮捕された大家楠雄の上司だったという男は、パイプ椅子に大股を開いて腰掛け、ボリボリと頭を掻きながら、まるで「お前が悪い」と言わんばかりの表情で頭を下げた。
「その……すまんな。俺が悪かった。まさか彼奴が犯人だったとは」
「いえ……そんな……」
謝罪されているような、怒られているような。僕は居た堪れなくなって慌てて目を伏せた。付き添いで高杉の横に立っていた若い制服警官が苦笑する。
先日この街で起きた殺人事件。逮捕された大家楠雄は、子供の頃受けたいじめの腹いせに、また警察官という立場を利用して、復讐のためいじめっ子を殺し回っていた。何だか戦争を止めるために戦争をしているような、本末転倒のような動機だが、ともあれ無事犯人が捕まって本当に良かった。
「怪我はもう大丈夫なのか?」
「え、ええ……何とか」
幸い何処も痛くなかったが、念のため検査ということで入院させられた。部屋の片隅に置かれたTVでは、今回の事件のことがオドロオドロしく報道されている。画面を一枚隔てただけで、何だか遠い国の知らない出来事のように思えてしまうから不思議だ。慣れ親しんだはずの街の景色も、四角い枠を通すとまた違って見えた。
「そういやあの日……飛び降りたんだってな」
強面の刑事がじっと僕の顔を見てきた。僕はゴクリと唾を飲み込み、小さく頷いた。
「どうして飛び降りたりなんかした?」
「…………」
「…………」
「…………」
「……答えたくないなら、無理に答えなくても良いが」
「…………」
「…………」
「……その」
僕は込み上げてくる何かをグッと堪えながら、何とか声を絞り出した。もう一生分泣いたと思っていたのに。人間が一生のうちに流せる涙の量は決まっているのだろうか? だとしたら、僕のこの哀しみは今何%くらいなのだろう?
「その……怖かったんです」
「…………」
「全員に、『死ね』って言われて……その、書き込みが。ぼ、僕が犯人みたいに名指しされてて」
「誹謗中傷ってやつか」
刑事は眉をしかめた。
「俺ぁ正直そういうの詳しくないが……『全員』って、でも、全世界の人間がお前に大注目してる訳じゃないだろ?」
「でも……」
「現に俺も見てないしな。そんなの一部だろ。1%にも満たない、ほんの一部だ。お前はその極々少数の意見を見て、これがこの世の全てだ、と思い込んじゃってるんだ。いいか、坊主」
「ひ……!?」
刑事はポケットからスマホを取り出すと、不器用に太い指を操作し、僕の目と鼻の先に画面を突きつけた。
「何て書いてある?」
「……!」
「何だ? 言ってみろ」
「……し……」
「タカさん!」
「『死ね』って書いてあります」
それは僕が良く見ていた匿名掲示板だった。当時の書き込みが今も残っている。刑事がジッと僕の目を見つめた。
「よく見ろ。こりゃただの文字だよ」
「え……」
「たかが言葉じゃねえか。別に殴りかかってもきやしねえ。感情のこもらねえ、単なる記号だ」
「…………」
「まぁ確かに多感な時期だ、言葉が刺さる気持ちは分かる。言葉は刃物だしな。だから、これは剣道だと思え」
「はぁ……?」
「お前も言葉を持つんだよ。お前だけの言葉を」
「僕だけの……言葉?」
「そうだ。どっかの誰かの名言でもねえ、ネットのコピペでもねえ。自分だけの刀を持つんだ。そしたらだな、相手が斬りかかってきても、こう……エイヤー、トウ! ってな具合にな……殺れるから」
「タカさん、子供相手に妙なこと教えないでください」
「何でだ? 大事なことだろう。今は戦国時代だからな。サバイバルだ、呵々!」
若い警察官が呆れた顔をしてスマホを取り上げた。
「こんな大人になっちゃダメだよ」
「じゃあな、坊主。残りの人生、どうせなら楽しめよ」
それから刑事たちは、ポカンと口を開ける僕を一人残して、病室を出て行った。
「サバイバル……」
僕は呆然としたまま、しばらく開きっぱなしの扉をじっと見つめていた。
……そうだ、忘れてた。
白く長い廊下で靴音を響かせていた高杉は、ふと立ち止まった。もう一度少年の部屋に戻ろうと階段を上がる。病室に入ろうとした時、大勢の学生服が部屋の前で屯しているのが見えた。歓声にも悲鳴にも似た声が少し離れたこちらにも届く。
「何だ。いるじゃねえか、友達」
高杉はニヤニヤと笑みを浮かべ、ポケットから取り出しかけた、新品のスマホを再び仕舞い込んだ。それから踵を返し、彼は病院を後にした。
《完》




