第十六話
「いじめって言うのは犯罪にならないんだよね」
震える少年の肩に手を置いたまま、大家は隣に座り、静かにほほ笑んだ。
「誰かを殴っても。何かを盗んでも。どれだけ相手を傷つけようとも、身体中にペンで落書きしようとも。たとえ相手が自殺したって、いじめの加害者が捕まることはない。むしろ先生たちは、必死になって隠蔽しようとしてくれるだろう。いじめなんて発覚したら世間から非難轟々だろうからね……学校の中っていうのは、ある意味無法地帯なんだ」
「……っ」
「それでももしヤバそうになったら、魔法の呪文を唱えるんだ。『まさか本当に死ぬとは思っていませんでした』。『冗談のつもりでした』、『相手が苦しんでいるとは、思ってもいませんでした』……これで解決。これでこの話はなかったことにされる。おい、そんなに怯えるなよ。何も取って食おうって訳じゃないからさ」
大家は苦笑した。無理もない。自分も若い頃はそうだった。
自分が我慢すれば、自分さえ耐えれば大丈夫だと思っていた。
悪いのは自分で、だからいじめられているのだ、と。
やられたらやり返すと言うことを知らなかった。
殴られたら殴り返せば良かったのだ。殴り返すほどの力がないのなら、道具を使えばいい。包丁でも、金属バットでも、SNSでも、マネーでも、権力でも、立場でも、利用できるものは何でも利用して、相手を痛めつけてやればいい。思い知らせてやればいい。
「だって、相手がルールを守っていないのに、こちらが律儀に守ってやる義理はないだろう。法律ではいじめっ子は裁けない……だから僕が裁く」
全国のいじめられっ子を救いたい。僕はそう思ったんだよ。世の中で話題になるいじめって、いつも事が終わった後じゃないか。それじゃ何の解決にもならない。だって今この瞬間にも、声なき声を押し殺して苦しんでいる人たちがいるんだから。転校したり、不登校になったり、自殺したり、それじゃ意味がない。警察は事件が起きた後じゃなきゃ動けない。だから僕は、
「いじめっ子を殺してやろうと思った。『死ね』とか『飛び降りろ』とか、ヘラヘラとこっちの命を脅かしてくる奴らなんて、この世からいなくなった方がいいと思わないか?」
「あ……あ……」
「君だってそうだろう? いじめられて、相手を殺してやりたいと思ったこと、一回くらいあるだろう? 思ってるだけじゃ世界は変わらない。行動しなきゃ!」
少年の瞳に、大家が映る。その表情は何処までも真摯だった。
「殴ってくる奴は殴ったって良いんだ。殺してくる奴は殺したって良いんだ。それが平等な社会ってもんさ。なあ少年、戦わない事が平和じゃないんだぜ」
「ああああの……っ、ぼぼぼぼく……!」
「ん? どうした?」
「ぼぼぼく……その、トトトトトイレに……」
「……そうか」
大家は掴んでいた手を離し、フッと息を漏らした。
「大丈夫かい? 痛むんだったら手を貸そうか?」
「大丈夫です!! 大丈夫……本当に大丈夫なんで!」
そう叫んだA太が、転がるように部屋を飛び出していく。少年の背中を見つめながら、大家は苦笑した。急な話で、驚かせてしまったかもしれない。だけど、彼ならきっと分かってくれる。
僕らの組織の大義を。この世には正義や規律、ましてや道徳なんかじゃ解決できない事件が山ほどあるって事を。あの少年ならきっと、立派な私刑執行人になれる。大切なのは復讐心を忘れない事だ。いつまでも仇敵を憎み続ける事だ。敵を作るのだ。恨みを、辛みを、痛みを、武器に変え戦う事を覚えれば、少年は数年後、見ず知らずの他人を平然と殺せるまでに育つだろう。
大家はカーテンを開け、窓の外を覗き込んだ。曇天から落ちてきた大粒の雨が、窓ガラスを力強く叩いて滑り落ちていく。
なぜ人を殺してはいけないのだろう? いや、なぜ人を殺すのをためらうのだろう? それはきっと、相手が自分と同じ人間だと思ってしまうからだ。だったら、そう思わなければいい。対象は自分以下の、外道で、鬼畜で、畜生で、腐った蜜柑で、殺されても仕方のない存在なのだと言い聞かせればいい。人は自分が見下したものには容赦しないのだ。敵なら殺してもいい。鬼なら傷付けてもいい。悪い奴なら、何をしたって構わない。そういう風に育てていこう。
自分の後継が見つかったみたいで、大家は何だか嬉しくなった。まだ未成年だし、彼を巻き込むつもりはなかったが、こうなっては仕方ない。高杉がいじめっ子グループに目を付け、指紋を取ると言い出した時は計画が破綻するかと危惧したが、どうやらツキはこちらにあるようだ。
大丈夫、最初は失敗したって構わない。自分は警察官だ。外表で、『事件性なし』と判断を下せば、後は碌に調べもせずに火葬場まで持ってってくれる。全力でバックアップして、少年を立派に育てよう。自分をいじめていた卑劣な奴らに復讐できて、きっと少年も、喜ぶだろうな。
雨足が強くなってきた。ふと大家が眼下を見下ろすと、何やら見覚えのある人影が走り去っていくのが見えた。
「あれは……」
A太だった。パジャマのまま、病院の門から逃げるように走り去っていく。
「ダメじゃないか……傘も差さないで」
大家は顔を歪ませた。
「体調には気をつけないと、立派な殺人鬼になれないぞ」