第十話
誰だって一度は誰かを「殺したい」と考えたことがあると思う。
これは別にいじめられっ子だけの話じゃない。嫌いな家族とか。嫌いな先輩とか。友人とか恋人とか善人とか悪人とか凡人とか賢人とか隣人とか他人とか愛人とか病人とか素人とか玄人とか。「コイツさえいなかったらなぁ」とついつい思ってしまう様な相手。
この世は殺したい人で溢れている。言っとくがいじめられっ子なんて、常々いじめっ子を殺したいと思ってる。だけど、「実際に殺す」となると話は別だ。
「人を殺してはいけない」。そんなことは小学生だって知っている。別に学校で習わなくても、親に、友達に、社会に、TVに本にネットに、それとなく教えてもらえる。それに、自分で殺したら、そりゃその瞬間はスカッとするかもしれないが、今の日本じゃ捕まることは避けられない。僕だって好き好んで刑務所に入りたくはない。できれば僕の手を煩わせることなく、ターゲットが第三者の恨みを買って勝手に殺し合ってくれるのが最高だ。
そんな上手い話がある訳がない。だからこそ、Sの首が斬り取られた僕は、考え得る限り最高な状況にいたはずだ。
だが、この動揺は何だろう?
およそ最高とは言えない心労が、底知れない重圧が僕にのしかかっていた。
あれからどうやって家に帰ったのか分からない。途中の記憶がなかった。気がつくと僕は、ベッドに潜り込み、頭から布団を被って震えていた。
死体というものを初めて見た。いや……小さい頃、お爺ちゃんのお葬式に出たことがあるが、だけどその時棺の中に入っていたお爺ちゃんはもっと穏やかな表情をしていた。死ぬ時はあんな風に、眠るように死ぬのだと思っていた。大勢の人に囲まれ、色取り取りの花が飾られ、不謹慎かも知れないがその時僕は泣けなかった。
だが、ついさっき見たアレは何だろう!?
飛び出しそうなくらい見開かれた目。半開きになった口元から、だらんと垂れる舌。滴り落ちる血に、千切れた肉片。稲妻のような毛細血管が黒ずんだ皮膚の上を這いずり回り、眉間の皺はこれ以上ないくらい寄せられていた。とても同じ死体とは思えなかった。Sは、ただ死んだんじゃない……殺されたのだ。
殺人事件……一体何故?
「なぜ人を殺してはいけない?」。そんなことは大人だって良く知らない。法律だから? 逮捕されたくないから? 自分がされて嫌なことは相手だって嫌だから? じゃあ、平気で人をいじめてくるアイツらは殺しても良いのか? 戦争をしている国はどうなんだ? 交通事故はどうなる? 殺すつもりがなくても、相手が死んじゃったら運転手は捕まる……いじめだって同じじゃないのか?
スマホが鳴っていた。気が付いたのは、3回目のコールの時だった。
顔を上げると、頭の奥がズキズキと痛んだ。また胃の奥から恐怖がこみ上げてきて、僕は受話器ボタンを押す前に一度トイレに駆け込んだ。
『おぅ。どうした? 上手く行ったか?』
「それどころじゃない……それどころじゃないよ!」
吐き出せるものは全て吐き出したと思っていたが、泣き言は溢れて止まらなかった。僕はXに事の顛末を話した。興奮気味に、記憶も曖昧で、支離滅裂な話だったが、Xは最後まで黙って僕の話を聞いてくれた。そして、
『そうか……殺されてたか』
と一言だけ呟いた。
「何でそんなに冷静でいられるんだよ……!?」
気がつくと僕は涙目になっていた。
『まぁいじめっ子なんて、何処で誰に恨み買ってるか分かったモンじゃないからな。誰か別の奴に殺されたって不思議じゃないわな』
「不思議じゃないかも知れないけど……こんなの異常だよ!」
『それより問題なのは……』
Xは深刻そうな声で唸った。
「問題? 首を切断されて殺されるより、酷い問題があるっての?」
『カメラだ』
「カメラ……? あ!」
その瞬間、僕は飛び上がった。隠しカメラ! Sの首に気を取られ過ぎて、そのまま置いてきてしまった。
『不味いな……』
殺人現場に、僕の指紋がべったり付いた『証拠品』を3台も残してきてしまった。もしアレが、警察に押収されたら……僕は血の気が引いた。なんてこった。最悪のポカだ。
『お前、警察に補導されたことは?』
「え?」
『指紋を採取されたことはあるか?』
「な……ないけど」
ないと思う。多分。不安になってきた。Xが小さくため息をつくのが分かった。
『……少なくとも警察がカメラを見逃すはずないし、指紋が中学生くらいのガキのモンだってくらい分かるだろうな。それでなくても、当然被害者の学校には調べが入る』
「ど、どうしよう……!? 僕、僕……!」
まさか、このまま殺人犯として逮捕されてしまうのか!?
自分の手で殺さずに特段スカッともせず、ましてや他人の罪を被せられて捕まるなんて、最悪にもほどがある!
『ま、カメラは俺が調達したものだから、足はつかないだろう。警察に押収されるならまだ良い。それよりもっと問題なのは……』
「まだ問題があるの!?」
僕はもう、半狂乱だった。これ以上最悪なことってあるだろうか?
『犯人だよ』
Xが努めて冷静に、僕に言い聞かせるように囁いた。
『もし警察が来る前に、カメラが犯人に見つかってみろ。犯人は犯行現場に戻るって言うからな。そして、お前のカメラを見つけ、誰かに撮られたと気付く』
「あ……」
『ソイツは、確実にお前を殺しに来るだろうな』
「あぁあ……!」
……「最悪」の下には、常に「もっと最悪」が控えているものだ。
それから僕は一心不乱に自転車を漕ぎ、廃寺へと急いだ。
警察に押収される前に! 犯人に気付かれる前に!
何とかしてカメラを回収しておかなくては。捕まるか、殺されるかだ。どっちもゴメンだった。ほぼほぼ信号無視しながら、夕日を背に、僕は足が千切れそうになるくらいペダルを漕ぎ続けた。山の麓に着く頃には、僕は心臓が破裂するんじゃないかと思った。喉元が、鼓膜の奥がビクビクと痙攣しているのが分かった。分かってる。酸素が足りない。だけどそれどころじゃない。それどころじゃなくて、今は……!
「あ……」
大粒の汗を流し下を向く僕の横を、パトカーが、けたたましくサイレンを流しながら駆け抜けて行った。僕は顔をくしゃくしゃにして、泣き出しそうになりながら山を見上げた。
「あぁ……!」
山の中腹が、真っ赤に染まっていた。パトカーが大勢集まって、ランプを回しているのが麓からも分かった。道行く人々が、何事かと足を止めていた。
「あぁあ……あぁぁぁあ!」
その日の夜には、事件現場は全国放送で生中継されていた。