第一話
一輪車の重さは大体約3kg〜5kgある。僕の中学校には30個から40個くらいの一輪車があったから、全部で90kg〜200kgになる計算だ。さらにはその一輪車を掛けておくための棒。それらが雪崩のように自分の上にのし掛かってきたのだから、これはたまったものじゃなかった。
「助けてぇ!」
……と叫んだつもりだったが、実際には「ケボゴボォ!」とか、「ガバコポゥ!」みたいな濁音が僕の口から漏れ出ただけだった。気がつくと目の前に一輪車の山が出来ていた。体育倉庫の中で、重たい用具の下敷きになってしまった僕は、身動き一つ取れなくなってしまった。何とか首から上だけを捻り、入り口の方を見ると、同じクラスのSが僕を見下ろしてゲラゲラ笑っていた。
「助けてよぉ!」
濁音濁音濁音。Sは相変わらず腹を抱えて大笑いしている。そして、
「じゃあな、A太。次の授業遅れんなよ、ノロマ」
僕を倉庫の中に置き去りにして、彼はあっけなく扉を閉めてしまった。窓もなく、倉庫内は四角い闇に飲み込まれた。自分の体すら見えなくなった暗がりの中で、僕はひたすら喉を枯らし濁音を叫び続けた。
手足はピクリとも動かせない。胸にズシンと90kg〜200kgが乗っかって、次第に息が苦しくなってきた。パニックになっている。自覚はあるが、どうしようもない。それがパニックというものだ。
「誰か……!」
もうダメだ。
叫ぶ気力も無くなって、酸欠で意識が朦朧としてきた、その時だった。
太ももの辺りに微かな振動があり、僕の右ポケットの中に、小さな四角い光が灯った。
スマートフォンだった。先日届いたばかりの、親に内緒で注文した、ちょっとワケありの中古品。何処ぞのメーカーとも知れない、通信会社すら不明の、全身真っ黒な小型の機械だった。ちょうどこの体育倉庫の中みたいに、真っ黒の携帯電話だ。
狭い倉庫の中に、バイブレーションの音が転がる。着信があった。誰から掛かってきたかは分かっている。この番号は親にも教えていないし、僕には友達はいない。相手は1人しかいなかった。僕はズボン越しに、一輪車のタイヤに画面を押し付けるようにして、無理やり受話器ボタンをタッチした。
『静かにしろ。騒ぐんじゃねえ』
光る画面の向こうから、途端に強盗みたいなセリフが飛んできた。
『騒ぐと酸素が無くなっちまう。出来るだけ静かにして、節約するんだ。A太、まだ生きてるか?』
「……!」
僕は濁音を出す気力もなくて、自分の太ももに向かってもごもご叫んだ。機械で加工された声は甲高く、少年のようでもあったが、実年齢はもっと上じゃないかと僕は思っている。彼は自分を『X』と名乗った。僕が『少年A』なら、彼は『少年X』だ。
『じっとしてろ。今助けを呼んでる』
Xがそう言った。助けを呼ぶって、どうやって?
そう思った瞬間、ガラガラと大きな音がして倉庫の扉が開いた。
「へへへ……お待たせ〜……ってうぉっ!? 何じゃこりゃ!?」
眩しさに目を細めていると、ダミ声が耳に飛んできた。血走った目がぎょろりと僕を睨みつける。体育教師のT岡だった。T岡は口をあんぐりと開け、黄ばんだ歯を剥き出しにしながら、一輪車の下敷きになった僕を見下ろした。
「何やってんだお前!? こんなところで!」
生徒に合法的暴力を振るうために教師になったT岡は、こんな時間に1人倉庫に閉じこもっていた僕をぶん殴るために、せっせと一輪車をどかし始めた。それから僕の右頬は出来損ないの餅みたいに腫れ上がったが、おかげで窒息死や圧死は免れた。
『女子生徒に成りすまして『倉庫で待ってます♡』ってメール送ったら、授業放り出して飛んできたぞ』
後にXが面白そうに僕に話してくれた。何だか別の意味で盛大に事故ってるような気もしたが、ともかく、僕は助かったのだ。
「あ……あの、あありがと……」
『さっきのでさらに数万入った』
Xは僕のお礼など聞こえなかったように、嬉しそうにキンキン声を張り上げた。
『良かったな。これでまた、色々買えるぞ』
「……今度は何買うの?」
Xの喜ぶ声とは裏腹に、僕は若干憂鬱になっていた。この間Xから一方的に送られてきたのは、『テーザー銃』だった。海外の警察官などが使っている、基本的には非殺傷の、スタンガン銃のようなものだ。ちなみに日本では(違法でしか)発売されておらず、所持してるだけで犯罪である。お巡りさん信じてください。この物語はフィクションです。
『殺されるよりマシだろうが』
慌てふためく僕に、Xはそう言って取り合わなかった。確かに命に変えられるものはないかもしれないが、しかしそれで牢屋に入れられてしまうなら本末転倒である。Xはというと、彼は基本的には『生き残るためなら何をしても良い』と思っている節があった。
『そうだな……』
Xがのんびりと欠伸した。
『たとえば……”情報”とか?』
「情報??」
『嗚呼。そのいじめっ子の名前は、Sとか言ったか?』
嫌な予感がした。画面の向こうで、Xがニヤニヤ笑っているのが僕には目に浮かんだ。実際には会ったこともなく、顔も知らない間柄だったが。
中学校2年生。夏だった。『少年A』である僕は、学校で、その、いじめを受けていた。