史香、拍臣に助けられるの編
史香は「うっ」と呻いて手で鼻と口を覆う。
振り返ろうとして止めたのは、何かが史香のすぐ背後にいたからだ。
その背後の何者の呼吸が、この匂いの原因だった。
気配は史香の背後全体。息づかいと匂いは史香の頭一つ分上からもわもわと降ってくる。
つまり、背後にいるそれは、大きい。
息づかいが、岩を擦るような声に変わった。
『喰って良い?』
「!?」
『良いよな?』
良い訳ない。
恐ろしさに声を上げられない史香が、ただ真っ直ぐ前を凝視すると、お堂の前に添えられた蝋燭台に、蝋燭がないのにポッと火が灯った。
すると、石柱に鎮座していたタヌキの像がむっくと立ち上がり、明かりに照らされて舞の様なものを踊り出した。
(ヒ!?)
膝から崩れそうになる史香の前で、小さなお堂のこれまた小さな扉がパカンと観音開きになり、中から『ワハハハハ』と笑い声が聞こえてくる。
その声のおぞましさときたら、全身に鳥肌が立つほどだった。
ビチャビチャッと温かい液体が頭から落ちて来て、史香は喉から「ひゅう」とか細い声を出す。
(誰か助けて)
(酷いよこんなの)
(ずっと知らんぷりしていたかったのに)
(ラブレターの力も)
(メッセージの力も)
(タヌキが喋ったり)
(紫蘇咥えていたり)
(どんぐりをオヤツに出されたり)
(拍臣君に尻尾があったり)
(藪から『ばーか』って言われたり)
(全部、全部すっごく気になったけど、ふんわり流してしまおうって!!)
だけど、これは知らんぷりも、ふんわり流す事も出来ない!!
モコモコの毛が生えた巨大な手が、史香の肩にドムッと置かれた。
もう駄目だと思ったその時、
「やめまいませ!」と、若い男の声がした。
史香が振り返ろうとすると、その声が「振り返るな!!」と、史香へ厳しく命じた。
次いで、彼は史香の背後のモノへ恭しい声で語りかける。
「白菊様、人喰いをしたら御身の穢れが更に進むけん、どうぞ留まりまいませ」
『喰う。喰いたい』
史香の頭に、再び温かい液体が零れてくる。
液体というより、粘液に近いそれの臭気に史香は吐きそうになった。
「いけん。きっと穢れの書を見つけるけん、諦めんでくれんませ」
ワハハハハ。
ワハハハハハハハ。
お堂の中から、再びおぞましい笑い声が響いた。
史香はすくみ上がって目を瞑る。
(怖い。怖い。早く助けて)
『嫌じゃ、あやつがうちを笑うておる……』
「問題ござらん。今鎮めますけん」
彼がそう言うと、パタンとお堂の扉が閉まった。
すると、史香の頭に滴っていた粘液が止まり、荒かった息づかいが穏やかになってきた。
まだ『喰いたい』と名残惜しそうに呟いているが気がかりで仕方がないけれど、喰いたがりさんは、落ち着いてくれたみたいだ。
「お前達も、情けない。操られたな」
そう言われたのは、石柱で舞を舞っていたタヌキの像二匹だ。
『すまんのぅ、娘が入ってきたけん、白菊様が荒ぶられて、どっちも抑えられんかったじゃ』
『ほなけんどハクテンジ様、そん娘は自ら入って来たぞ』
「ボクが飯を食わせとるけん、そん力が呼んでしもうたみたいだ」
『おお、能書さんか』
「うん。もう連れ帰るけん。白菊様を抑えとってくれ――史香」
呼ばれて、史香はギクンと肩を揺らした。
タヌキの像が喋っている事に、呆気にとられていた。
「は、はい」
「振り返らずに、後ろ歩きでそのまま下がって来い」
「ええ……で、でも」
(すぐ後ろに、得体の知れないものがいるのに?)
「いけるけん」
「でも……でも」
「置いていくぞ?」
それは嫌だ。
顔を歪めていると、石柱の上のタヌキ二匹が「いける、いける」と口々に言って、前足を振って下がるように促してきた。
『ワシらが抑えとるけん』
『こんお方は、本当は怖い方でないけん』
「……」
「ほら」
史香は、恐る恐る後ろ歩きを始める。
早く帰りたかったし、もうどうにでもなれ、とも思った。
史香が寄って来たからか、背後の息づかいが少しだけ荒くなる。
『白菊様、ワシの舞を見てください~』
『白菊様~、ワシはお話をしましょうかね』
タヌキ二匹が、『白菊様』とやらの気を引いている。
史香は更に一歩下がった。
(後ろ歩き、こんなに難しいなんて)
転んでしまったらどうなるのだろう?
そんな事が頭をよぎって怖かった。
それでも、後ろへ後ずさる。だってそうするしか無いようだったから。
すると、当然だけれど背後の『白菊様』と呼ばれているものに触れた。――と、思ったのだが――
(え……中に入っちゃった……?)
ずず、と、史香は『白菊様』の身体の中へ入り込んでいく。
(これって……食べられてる系じゃないよね!?)
まさか、あのタヌキたちと後ろの声も、『白菊様』とグルだったのだろうか、そんな疑念が湧いた。
「あと少しだ。下がって」
史香はヤケクソになって声に従う。
そうして完全に『白菊様』の身体に合わさった瞬間。
知らず閉じていた視界は真っ黒だったのに、急に真っ白になった。
そして、その白い視界に黒い線が流れて行く。
線は時折黒を滴らせ、飛び散らしたり掠れさせたりしながら、うねり流れてはねる。
うちがわるいのじゃろうか
だれがわるいのじゃろうか
流れて行く黒い線は文字だった。
文字からは、どんどん黒いものが溢れ出ている。
そして自身をも黒く塗りつぶされて次々消えていく。
「な……」
白い場所が無くなってくる。
ここから出なくては。
早く、もう一歩下がれば?
にくい。
「あっ……!!」
後ろから腕が伸びてきて、史香を抱いた。
声の男の腕だった。
史香は思わずその腕に両手で縋る。
「助けて!!」
「大丈夫。ゆっくり下がって」
男に後ろから抱えられたまま、ゆっくり下がる。
見れば、史香の背後にいた『白菊様』は消えていた。
二匹のタヌキが、石柱の上からそれぞれ手を振っている。
更に三歩ほど下がって鳥居をくぐると、目の前にはもう敷地の隣に建つビルの壁が見えていた。
史香は腰が抜けてしまい、その場にずるずると座り込む。
後ろから支える様に、男も一緒にしゃがみ込んでくれた。
「今のは……」
「取りあえず、家へ」
「私……帰り道が分からないの」
「ボクが良う知っとるよ」
「え……?」
史香が振り返って彼を見ると、にっこり微笑む馴染みの顔が間近にあった。
「え、は――」
驚きで声が出せなくなった史香に、彼はにっこりを止めて、獣の様に『ニヤーッ』と笑った。
そして、いつもの調子で史香にこう言った。
「今日のオヤツは桜餅ですよ、ふーちゃん」
*
史香は拍臣の背に揺られていた。
腰が抜けて立ち上がれない史香を、拍臣が背負って歩いてくれていた。
史香があんなに歩き回って帰り道を探しても駄目だったのに、彼女を背負った拍臣は一瞬で祖母の家に辿り着いた。
「こんなに近くにいたんだ……」
呆気にとられて呟くと、拍臣が頷く。
「ふーちゃんは家のすぐ裏側にいたってワケ」
「そうなんだ……全然わからなかった」
まさか家の周辺で迷っていたなんて。
ガックリきていると、また拍臣が笑い声を立てる。
「アソコはいつもは無い場所やけん。そういう感じだって、もう何となくわかっとるじゃろ?」
「……」
拍臣の言葉になんと答えればいいか迷っていると、ガラッと玄関の戸が開いた。
「ふーちゃん!!」
「あ、あ、おばあちぁゃん!!」
祖母が外履きも履かずに、玄関を飛び出してくる。
史香は拍臣に負ぶわれているのが恥ずかしかったけれど、彼の背の上から差し出された皺々の手に触れた。
「良かった。過保護は嫌がられるかしらって電話するのを我慢していたのだけど、おばあちゃんがバカだったわ。もっと早く電話してあげれば良かった。心細かったでしょう?」
「ううん、大丈夫……私こそ門限過ぎてごめんなさい」
「まぁ、どうして頭からずぶ濡れなの!?」
史香のドロドロ具合に驚愕の声を上げる祖母へ、拍臣が言った。
「ふーちゃん、大きめのドブに落ちてたんですよ」
(ええ……!?)
もっと他の理由はないものか。
史香は迷子になっちゃうウッカリ者かもしれないけれど、大きめのドブには落ちない自信はある。
「まぁ! 怪我は!?」
「だ、大丈夫」
「早くお風呂に入らなきゃ!」
祖母は大急ぎでお風呂場へお風呂の用意をしに行ってしまった。
玄関で背から下ろしてもらいながら、史香は唇を突き出す。
「ドブって!」
「だって臭いし。あ、ほら。これ荷物」
史香は、学生鞄とショッピングモールで買った犬用シャンプーの袋を、拍臣から差し出されてお礼を言った。
「あー! スッカリ忘れてた。持ってきてくれたの? ありがとう……」
「何を買い物したん?」
「あ……」
ひょいと指先で袋の中身を覗かれ、史香は俯く。
一拍おいて、「ククッ」と堪えきれない様子の笑い声を、拍臣が上げた。
史香は赤くなって、袋を抱きしめる。
「こ、これはその……」
「なにそれ、間違えたん?」
「ちが、ちが……!!」
しどろもどろに何か言おうとしていると、お風呂場の方から祖母の声がした。
「ふーちゃーん、すぐにお湯が溜まるから、もう入っちゃいなさーい」
「あ、は、はーい!」
そそくさとその場を去ろうとする文香に、拍臣から声がかかった。
「ちょうどシャンプー買っといて良かったですねー、ふーちゃん!」
*
「私のじゃないもん!」
史香は一人ブツブツ呟いて、ドロドロになった髪をちゃんと人間用のシャンプーで洗った。
しつこいヌメリと匂いだったので、三回もシャンプーする羽目になった。
トリートメントもしっかりして、ようやく落ち着く。
「確かに犬を飼ってもいないのに犬用シャンプーを買ってたら変だけど、自分で使うワケないじゃない?」
冗談だと分かっている。
だけど、あのからかうような口調。
どうしても文句を言いたくなってしまう。
王子様スマイルの素敵家政婦・拍臣君は何処へ行ってしまったんだ。
「ネコ被ってたんじゃない!」
しかし、お風呂からあがって食卓へ行けば、ホカホカご飯が今日も素敵すぎて、怒りなんてすぐに吹っ飛んでしまったのだった。
*
「うう……まだお腹がいっぱい」
夕食が済み、後片付け後の祖母との団らんも甘々に過ごした後、史香は早々に部屋へ行って良く眠るように促された。
史香も一人になって色々考えたかったので、大人しく祖母の過保護気味な気遣いを受け入れ、畳の部屋にゴロンと寝転ぶ。
縁側から見える庭の風景は、五月が近づくにつれて夜でもほんの少し明るくなってきた。
史香は寝ころんだまま庭を眺め、ぼんやりとする。
(疲れた)
(おばあちゃんに結局心配をかけちゃった)
(怖かった)
(あれは何?)
(拍臣君)
(ネコ被り)
(それどころか……)
(でも)
(そういえば……)
(ああ……眠たい)
うとうとと、瞼が落ちてくる事に抗えない。
(ちゃんとお礼を言っていない気がする……)
*
ふんふんふんふん、と、せわしない音が耳元でして目を覚ます。
ふんふんと音がするのに合わせて、ちょっと生暖かい風が耳に当たっていた。
しかも何か糸の様なものが、頬をくすぐっている。
「ひゃっ!? なに!?」
史香は慌てて飛び起きた。
生暖かい風系は、夕方嫌という程味わったので、もう今日は勘弁してほしい。
心臓を縮み上がらせながら見れば、昨晩のタヌキが史香を見上げていた。
ふんふん、と黒い鼻を鳴らして、銀色のヒゲを風にそよがせている。
「ポン太!」
「グァウ」
ポン太は「ワン」と「ギャウ」の間の様な鳴き声で、史香に返事をした。
史香は屈みこんで、ポン太の顔を覗き込む。
「今日のあのタヌキじゃないよね?」
あの石柱の上のタヌキは石の像だったし、二匹だったけれど、史香はちょっと警戒した。
ポン太は史香の警戒など感じていない様子で、後ろ足を使って首の後ろを掻いている。
すると、フワッと良い香りがした。
「あれ……?」
史香が、クン、と鼻をひくつかせると、ポン太が得意げに史香を見上げる。
そして、優雅に毛皮を揺すって見せた。
「ポン太、良い匂いする。私これ嗅いだ事ある」
恐る恐る、史香はポン太へ顔を寄せた。
ポン太は逃げるでも嫌がるでもなく、史香が自分の匂いを嗅ぐのを許した。
史香は更に顔を近づけて、ポン太の頭らへんの匂いを嗅いだ。
ポン太からは、お洒落なお姉さんの香りがした。
「こ、これは……ちょっとお高めなオーガニックシャンプーの匂い!?」
ポン太から香るのは、史香が試供品でしか試した事のない、憧れのシャンプーの香りだった。
「……ポン太、誰かにシャンプーしてもらったの?」
誰かに飼われているタヌキなんだろうか?
ポン太は得意げだ。
これなら文句あるまいとばかりに、押し入れの前へとっとこ歩き、襖をカリカリ引っ掻いた。
よほどお布団に乗りたいらしい。
「お布団?」
「ヴヴヴヴヴヴ……」
「しょ、しょうがないな」
今日あんな目にあって、怖くて一人で寝られないかも知れないと心配していたので、史香はちょっとホッとした。
(私、お化け見ちゃったんだよね)
あれは夢でも幻でもなかった。
だって、あのドロドロの粘液。あれはきっと涎だ。
ちゃんと史香の頭をドロドロにして、悪臭まで放っていた。
もしも夢や幻なら、鳥居が見えなくなった時に綺麗になくなるはずじゃないか。
改めてゾーッとしながら、史香は布団を敷いて、シーツや枕を整えた。
ポン太はすぐに布団に飛び乗って、史香にも「来いよ」とばかりに前足で布団をポンと叩いて見せた。
史香はそんなポン太の傍に正座して、彼をじっと見つめる。
「ねぇ、タヌキはそんな仕草しないと思うの」
「ヴヴヴヴ」
「もうさ、分かってるんだよ。ポン太も絶対『なにか』なんでしょ?」
だって、タヌキはシャンプーなんてして来ないよ。
史香が言うと、ポン太はあざとく首を捻って見せた。
「ばーか、って言ったクセに」
「クォン」
「なによ。ばーかって言ったでしょ? 台所で見た時は喋ってたし。私ね、ラブレターの事も友達の事も、ぜーんぶ気のせい、偶然で済ませたかったの。だから必死で不可解な事は見ない様に、見ない振りして頑張ってるのに、変な事は私を全然放っておいてくれないの。拍臣君の尻尾も、怖いお化けも、あなただって……」
史香は思い切ってポン太の胴体をワシっと捕まえた。
ポン太は抵抗せずに史香に抱き上げられて、宙で太い尾を揺らす。
「ねぇ、もう一回ばーかって言ってみなよ。この際スッキリしたいんだよ」
史香が懇願めいてそう言うと、ポン太は史香にぶら下げられたまま「くふっ」と笑った。
(ほら笑った!!)
史香はじっとポン太を見る。
ポン太はゆっくりと口を開いた。
「ばーか」
史香は、自分からポン太に「言え」と言ったクセに、目を真ん丸にしてポン太を凝視したのだった。
読んでいただいてありがとうございます。
この回から、狸サイドのキャラが怪しげな(作者の知識がない故)方言を使ったり状況に応じて使わなかったりするのですが、狸と言えば四国という事で、主に讃岐弁を理想としています。
たまに土佐弁とか阿波弁とかごっちゃになったり、何故か「けぇ」と山口県あたりの語尾を使っちゃったりしちゃったりしている所もあるのですが、広い心で生あたたかく楽しんで頂ければと思います。
(讃岐方言警察歓迎・誤字報告で通報お願いします※表現的に「ここはこれがかわいい・格好いい・これがいいんだ」っていう時は直さないのでご了承ください)
それから、四国の方言は敬語がない……様子なのですが、それは格上キャラとの会話で表現的にしっくりこなくて「ですけん」とかあるんかないんか分からん造語敬語方言を爆誕させたりもします。
それでは、まだ頼りないヒロイン史香ですが、彼女の物語をどうぞよろしくお願いいたします。